あの日は本当は何かが変わるべき日だったのだと、思う。
鬱々とした梅雨が訪れてしばらく経ったあの日は珍しく雲間からは光が照っていて、 連日にためこんだ雨粒を輝かせた木々がさらさらと嬉しそうに風に揺れていた。 久々に渇いた空気、声を震わせるには調度いい湿度だった。
今だから、なのかもしれないこんな風にあの日のことを特別に思ってしまうのは。



Time has passed.




「宍戸君、あの、返事は…」

スカートの裾をもじもじといじりながら、うつむいた顔で下から覗き込むように そう問う女の子の視線に一瞬ドキリと胸が高鳴った。 彼女の瞳が恥ずかしさからなのか多少潤んでいたせいかもしれない。
そんな彼女にとっては大事な告白の瞬間、俺の意識は過去へと遡っていた。 正確には小さなあかい唇が「すき」という単語を紡いだ瞬間に、だ。
しかし返事を急く声に、再び意識は今を生きる俺の身体へと引き戻された。 一気に沸き起こる気だるさと、これから俺が発する予定の言葉とそれを聞いた 彼女の反応を想像してうんざりした。

「悪ぃけど…その気持ちは受け取ってやれねえ…」

鼻から一つ息を吐き出して重たい唇をやっとのことこじ開けると目の前で肩がびくりと揺れた。 そっか、ごめんねありがとう、それだけ言うと小走りに彼女はかけて行った。 その背中があからさまに寂しそうでとても気分が悪くなった。 彼女の気持ちに応えられない、それに対する自分への怒りで、だ。
それからもう一つ、思い出してしまった過去へのわだかまりに対しても。




『私ね、宍戸くんが好きだよ』

梅雨特有の雨にぬれたコンクリートのにおいで、校舎は満たされていた。 寒いようなぬるいような暑いようなよくわからない気温と湿度に狂わされて イライラしながら教室の自分の席で追試用の答案用紙と向き合っていた時、だった。
一つあけて向こう側の席で同じように答案用紙に向かっていた彼女 (ただし、クラスで唯一赤点を取った俺とは違って彼女はただテスト当日休んだだけだった) がぽつりとそんな言葉をもらした。
反射的にバッと顔を上げて彼女の方を向くと、 彼女の視線は相変わらず答案用紙に向けられていて俺は戸惑った。
冗談でからかったのか、それとも真剣な言葉だったのかまったく掴めなかったからだ。 もしそれが、いつも談笑しあうようなふざけた友達同士のような関係だったらまだ 悪乗りで返事が返せたかも知れないが相手が じゃかないっこない。
こんなに動揺したのは格別彼女が冗談を言うような人間では無かった事と、 密かに自分が恋のカケラのようなものを彼女に対して見出していたからかもしれない。

しばらく彼女の方を向いて必死に無い知恵をしぼろうとしたが、完全に何か言うタイミングを 逃してしまった。 声をかけるにも不自然なくらい間を空けてしまったし、 はそれ以上何も言わなかった。(そして 結局俺の方を一度も見なかった)
数十分後、変な空気(俺だけが焦っていた)が漂う教室のドアをガラッと開けて 入ってきた担任に答案用紙を奪い取られたが、半分も埋められていなかった。
それに対してぶつくさ文句を言う担任のせいで、結局最後まで と会話を交わす事はなかった。 お先に失礼します、と彼女が教室から出て行ってしまったからだ。

そんなもやっとする事があった次の日は、昨日のだるい天気が嘘のように気持ちのいい天気になった。
朝練に顔を出す前に飲み物を買おうと校舎をうろうろしていると、 偶然登校してきたと鉢合わせをした。 これでもかと言うほど一瞬にして緊張した俺に対して彼女はやはり何事もなかったかのように いつものように「おはよう」と言って笑った。
そんな彼女に何故か安心して、俺が言った言葉といえば「おう」という味気ない返事だった。



(ちゃんと言うべきだった、俺の勘違いでもなんでもいいから)

そしたらこんな風に、なんともいえない苦い気持ちになることもしめった思い出になることもなかった だろうに。 今更後悔したって当時の俺が変わるわけでもあるまいし、 そんな事うじうじ考えるのは性に合わない。
そこで、先ほど告白をしてくれた彼女の勇気の余韻をもらって に仕返しをしてやろうと思う。
ずるいし、酷い男だと誰もが思うだろうがボールばかり追いかけてきた俺にとってはそれが精一杯だった。

(だけど一番ずるいのは、俺に何も求めないの方なんだ)

そんな風に理由をつけながら、俺は彼女に何と言おうか考えつつ、歩き出した。