昼休みが始まってすぐ、職員室に行って榊先生の机に上がっている鍵盤使用申請シートを覗き込む。 本当は朝に書きにくるつもりが担任に雑用を言い渡されてバタバタしているうちにすっかり忘れてしまい、 案の定それは一か所を残して予約で埋まってしまっていた。
はあと一つ溜息をついて、かろうじて空いていた放課後の音楽室の欄に、C組と書きこんでその場を後にした。

職員室から教室に戻る途中、校内で楽譜を持った生徒と何度かすれ違った。
そう、もうすぐ合唱コンクールがやってくる。
この時期になると、普段鍵をかけて生徒がいたずらに使用出来ないようにしてあるピアノが解放され、 自由な練習が可能になる。勿論、 予約シートにチェックをし使用する際には職員室にピアノの鍵を借りに行かなければならないのだけれど。
指揮者との練習も学校にいる間に出来れば不自由しないし、鍵をとりに行くくらいどうってことない。
問題があるとすれば競争率である。 人数の多い学校だし、学校にあるピアノの数は限られている。 一番競争率の高い講堂(実際ここが会場になるので、本番の響き具合で練習するにはここが一番いい)から始まり、 音楽室、交友棟のサロン、吹奏楽部部室など数えられるくらいしかないから。
簡易キーボードなんかも貸し出していて、放送部の防音のミニスタジオで弾けるようになってはいるけど。

でも私の目当ては講堂で、だから朝いちばんに学校に来たというのに偶然担任と遭遇するなんて(ついてない)。
がっくりと肩を落として歩いていると、廊下の向こうから鳳くんがやってきた。

「あ、さんもしかして職員室帰り?」
「あたり。鳳くんこれから?」
「うん。予約状況どうだった?」
「残念、私が最後だったよ」
「あーやっぱり」

コンクールの曲目は学年によって違う課題曲と、クラスで選ぶ自由曲の二つで、 それぞれ指揮者・伴走者は一人ずつ選出し重複しないことというのがルールだ。
鳳くんは昨年のコンクールでも自由曲を伴奏して、一年生の中のベストピアニストに選ばれた。 だからそれを知っているクラスメイトは満場一致で彼を伴奏者に選出した。 初めは部活があるからと困ったようにしていたけれど、 比較的難易度の低い課題曲を担当するということで落ち着いた。
問題はもう一人の伴奏者(つまり私)で、 うちのクラスにはまともにピアノを弾ける人がいなくて(うちのクラスはスポーツ系に特化した、 偏ったクラス編成だった)、 小学校の高学年の頃だけピアノ教室に通っていた私が選ばれてしまったのだ。
私としては、ピアノを習っていたというよりピアノ教室の先生と楽しくおしゃべりするために通っていたようなもので、 ピアノの腕前はひどいものだった。 それなのにうちのクラスの選んだ自由曲はおたまじゃくしがうじゃうじゃと集まった真黒な楽譜であり。 私は毎日夜遅くまでピアノの練習をするはめになってしまったのだった (幸い、家にピアノがある)。

「良かったら一緒につかう?待ってるペアが歌えばその方が練習になるよね」
「いいの?助かるよ。うちの指揮者、なかなかつかまらないから今日逃したら次がいつになるか」
「鳳くんも忙しい人だからお互いに大変だね」
「はは、でもピアノは嫌いじゃないから」
「そっか」
「うん」

じゃあ先輩に呼ばれてるから、と言って廊下を駆け抜けて行った鳳くんがちょっとうらやましかった。
スポーツも出来てピアノがひけてって、すごいなあ(おまけに頭もいいし)。
自分に少しでも才能があったら、クラスに迷惑かけずにすむのにと複雑な気分だ。



放課後の練習に備えて、授業中もこっそり楽譜とにらめっこし机の下で指を動かした。 頭の中で演奏しているというのに、いつも躓くところでやっぱり詰まる。 失敗が体に染みついてしまっているのかもしれない。
それでも何とか、最後までは弾ききる事が出来るようにはなっていて、 指揮の子に合わせてもらうのではなく自分が合わせる (当たり前のことなんだけれど、テンポとか抑揚とかそういうものに意識を集中出来るほどの余裕がなかった) ことも出来るようになった。
それは私にとって大きな進歩と喜びであった。

ホームルームが終ったあと、すぐに職員室に向かって鍵をもらい、 何度か鳳くんのペアと交替しながら練習をこなした。 歌い手がいるかいないかでも大分違う。実際歌ってもらった方が感覚が掴みやすかった。
それに客観的な意見ももらえるし一石二鳥だ。
6時のチャイムが鳴る頃切り上げる事になったのだけれど、 いろいろ指摘されたところをもうちょっとだけ感覚を忘れないうちにやってしまおうと残ることにした。
「また明日」と言って音楽室を後にする二人の指揮者の後ろ姿を見てほっと一息つく。 けれど鳳くんはまだその場を動こうとしなかった。

「俺も弾いていきたいんだけどいてもいいかな?今日家のピアノは姉さんがレッスンに使うから」
「あ、そうなの?じゃあ鳳くんに譲るよ。私は家でもピアノ独占できるから」
「ううん、いいよ待つ」
「ほんと?じゃあちょっとだけ」

鳳くんはこうなると頑として譲らない。そういう親切なところは無駄に頑固なのだ。
(本当は練習しているところをあまり人に聞かれたくないから譲りたかったのに)という私の考えが彼にわかるはずもなく、 みっともなく指を転ばせて何度も同じところだけを練習しまくる私を鳳くんの前にさらけ出すことになってしまった。
やっぱり、ここで躓くんだよなあと眉間にしわを寄せると鳳くんがイスから立ち上がって鍵盤を覗き込んできた。

「そこさ、運指かえてみたら?」
「え?」
「たとえば、こうとか」

私の後ろにまわった鳳くんが、座った私の肩越しに鍵盤に指を伸ばす。
大きな手のひらが目の前にふってきて、私は急いで鍵盤を這っていた指をそこからどかした。 ポロンと心地のいい軽い音が響く。

さん、オクターブ苦手でしょ?そこに夢中になってその後の部分よくミスタッチしてる」

耳元のすぐ近くで聞こえる鳳くんの声がこそばゆくて、 せっかくアドバイスをくれているというのに私は素直に話を聞くどころではなくなっていた。
ガッチガチに固まった指で、教えてくれた通りに弾いてみようと試みてみたのだけれど、 以前よりもボロボロの演奏になってしまう。

「あはは、さん手小さいからなあ」
「鳳くんが大きいんだよ」

「確かにそうかも」と言って離れて行く鳳くんにほっと胸をなでおろした。
まだちょっとドキドキしていたけれど、少しマシになった緊張感で鍵盤にタッチしてみるとさっきより抜群に弾きやすい運指だった。

「あ、できた!」
「おお」
「なるほどー、こんな風に弾けばいいんだ」
さん指の動き物凄く我流で面白いよね。俺からしてみたらそれでよく弾けるなあって」

(弾けてないから指が転んでるんですけど)と思ったけれど鳳くんが関心するように見ていたので言わなかった (この人本当に天然だ。無自覚で恐ろしいことを言う)。

「私、本当はピアノ弾くのあんまり好きじゃなくて練習ちゃんとしなかったから」
「そうなの?」
「うん、聞くのは好きなんだけどね?だから鳳くんのピアノは好きだよ。 今日も思ったけど、鳳くんの音色は何だかピアノにキスしてるみたいにトロっとして、やさしい」
「初めてそんなこと言われたよ」
「男の子って力も強いから、強弱の幅が広くて演奏に抑揚がよく出るんだってね。 手も大きいし。うーん、後は鳳くんのピアノへの愛情がなせるわざ?」
「ありがとう。何か嬉しいなあ。俺、小さい頃ピアニストになるのが夢だったから」
「そうだったんだ!じゃあ私、鳳くんのファンになる。っていうかもうファンだけど」
「今はピアノよりほんの少し部活の方が楽しくなっちゃったけど、 さんがそう言ってくれるならピアノもっと頑張ろうかな」

照れたように笑う鳳くんに、私もコンクールまでもっと頑張ろうという気持ちになる。

「うん、今年もベストピアニストとれるといいね」
さんも頑張って」
「ありがとう。でも絶対無理」
「あはは、即答」



6時でヒーターの止まった音楽室は、冬の空気で満たされつつあった。
ちょっとだけかじかみ始めた指をこすって、鳳くんに教えてもらった運指で今まで転んでいたところを何度か弾いた。 弾けなかったのが嘘みたいに(そこだけは)上手に弾けるようになって、 私は楽しくて何度も同じところばかり練習をした。
それを嬉しそうに見ていた鳳くんが「さんの音色はやんちゃだけど、本人に似てて味があって、俺は好きだよ」 と言って微笑んだ。


On the make(熱心)

(ピアノに夢中になってしまいそう!)