冬休みを跨いで新年を向かえ、再び例の行事がやってきた。
燃えるように真っ赤な色の日誌(誰がこんな色にしようなんて言い出したのかわからないが、 確かに生徒に与えるイメージは強烈ですぐ目に入る)はまるで私を待っていたかのように 鮮やかに見えた。

教室の暖房が落とされても、私の腰はイスから離れようとしなかった。
段々と体温を周りの空気に吸い取られて手足が硬直してきても、下校の放送がスピーカーから 聞こえてきても。 あれほど悩んでいた日誌のコメント欄に、あっさり『今日も楽しかった』という お決まりの文句を書き込み終えていたとしても、だ。
私はまるで魔法にかかったかのようにそこから動けなくなっていた。

(期待しているから?)

まさか、そんな考えが頭を横切っていった。
そしてそれを即座に否定する。

(違う、これは慣れだ)

人間は自分を護るためにどんな環境にも適応しようとする防衛本能を身につけているものだ。 誰に教わるまでもなく、本能的に慣れてしまう。
この場合、日直に当たった日は放課後居残り、とかそういう単純な慣れではなく。 もっと性質の悪い、【鳳くんが来るという期待】に対する慣れである。
これほどまでに厄介な事が他にあるだろうか、と思いつつそれでもこの席をあっため続けるのは 何故か、私は考えることを放棄した。 (なんだか私は鳳くんの事になると諦めたり自暴自棄になってばっかりだ)

書き終えた日誌をわざとらしく机の上に広げて自分の汚い文字に視線を落としながら、 何かに急くように机にペンをコツコツと軽く叩きつけていた。

「遅い」

今日はミーティングの日ではないのか。冬なんてそんなもんだと言っていたくせに。



結局その日、がらりと教室の扉を開けて声を掛けてきたのは担任の先生だった。 まだ残ってたのかと驚きの声をあげる教師に、すいませんと素直に一言そういって教室を後にした。 気をつけて帰れよ、と形だけの言葉を背中に受けながら、 内心気になっていたのは鞄に入った日誌の事がばれないかどうかという事だった。
幸い、クラスの生徒の名前と顔を未だに把握しきれていないいい加減な担任は、 私が今日の日直である事に気付かなかった。

次の朝職員室に日誌を届けに行くと、まあ一回目だから見逃してやる、という ありがたいお言葉を頂き二日連続日直をやらされる、という事態を避けることが出来た。
その時の私の心情はといえば複雑に入り組んだ迷路のように出口も入り口さえも見失っていた。
(何で私は昨日日誌を持って帰ったんだろうか)
(まさか期待したから?)
(明日こそは、鳳くんが現れるかも知れないから)

「馬鹿みたい…」

まだ布団の中で眠りを貪っている生徒がたくさんいるのではないかという時間帯の 廊下はとても静かだった。 ぽつりと漏らした言葉はそんなしんとした寒い空気をよく振るわせた。





放課後、さっさと部活に行ってしまった友達にまた明日と軽い挨拶をしてすぐ、私は机に顔を伏せた。 (もやもやする、どうにかしたいこの変な気持ちを)
辺りが静かになって下校の放送が流れた頃やっと顔を上げた私は、 自分のしている事の愚かしさと奇妙さに気付いて一人変な笑い声をたてた。

(何をしているんだ私は)
(何に期待しているんだ私は)

(こんなこと、バカバカしい)

乱暴に机とイスをがたがた言わせながら静まり返った教室棟を後にした。
昇降口へ向かう途中、何だか嫌な音が聞こえ始めて窓の外を見ると雨粒が滴っていた。 思いのほか強い勢いで降り始めたそれは、まるで私にぶつかってきたいと言っているかのように 私の方へと吹き付けていた。 窓越しだったから、ぬれる事こそ無かったけれど今の私にとってその現象は不快で仕方なく見えた。

それとも、この不快感は別なところからきているのかもしれなかった。
見慣れた銀色の長身が、あっという間に雨に濡れそぼったブレザーを羽織って廊下の向こう側から歩いて 来たからなのか。

(もう、どっちでもいい、不快なのは確かだった)

さん、まだ残ってたんだ。めずらしいね、日直は昨日だったよね?」
「…残ってて申し訳ないですね、でも今帰るから」
「傘、持ってるの?急な雨だよね」
「生憎下駄箱に折りたたみを常備ですから」
「そう、良かったね。風邪でもひいたら大変だからね」

何が大変なのだろうか。
別段私が風邪をひいたとしてもあなたが困ることなんてこれっぽっちも無いでしょう。
例えばもし私が風邪で明日学校を休んだら、席順にあてていく教師の授業で 折角予習していた部分が答えられなくて恥をかくじゃないかとかそういうことか。

「長太郎くん?」

私の卑屈すぎる思考は、可愛らしい声で強制終了させられた。
声に釣られて振り向くと、私の背後にビニール傘を持った可愛らしい女の子が立っていた。 見るからに私とは正反対な、ちょっとドジっこで天然で愛くるしくてふわふわした感じの 女の子で。そのきらきらした目は私を透明にすかして鳳くんをじっと見ていた。

「あ、ごめんね。もしかして待ってた?」
「ううん、私もさっき部室から出てきたところ。教室に傘おいてあったから取りに来てたの」
「そっか」

何食わぬ顔で私の横を通り過ぎて、一つも声をかけずに私の背後の女の子の元へ行った 鳳くんに無性に腹がたった。 なぜそんな感情が沸き起こるかなんて知れている。 それは生理的に私が鳳くんの性格が受け入れられないからだ。 前からずっとそうだった。だから、別段その時だけ違った意味の苛立ち、というわけではなかった。
(はずだ。)

「あ、じゃあねさん、また明日」

すたすたと去っていく私の背中に、ちょっと遠くから思い出したかのような軽い感じで かけられる声に立ち止まることも返事を返すこともしなかった。
もし声を発したら、もしかしたら震えてしまうかもしれないと思ったからだ。
別に今にも涙が出そうだったからとかそんな情けない理由なんかじゃなくて、 外が雨で全身が強張っていたからだ。

「…馬鹿、みたい、本当に」

内履きからローファーに履き替えてから、下駄箱の扉を少し乱暴に閉めると 雨の日特有のしめった音が鳴り響いた。
呟いた声はざあざあという力強い音にかき消されて私にしか聞こえなかったと思う。

(その時私は、鳳くんのあのさもいい人、といった笑顔を思い出していた。)
(さっき私の横を通りすぎる時も、いつものあの笑顔だった。)

(ああきっとあの子も、その笑顔にだまされてしまったんだろう)


なんでそんな言い訳がましいこと考えてるんだろうとその理由を考えて、放棄することにした。
考えを放棄しても、瞼の裏に焼きついたあの嫌味な笑顔だけは離れなかった。

ねえ、きみには一生聴こえないかもしれない。