およそ一ヵ月後、その悲劇は再び訪れた。

「あ、まだいた」

私の心情なんかおかまいなしに、彼は土足で教室に足を踏み入れた。 (当然、学校内で内履きをはかない生徒など奇異の目で見られる対象でしかないのだが)
まだ書き終えていないページを見られる前にあくまでも自然なスピードでそれを閉じると、 これもまた自然なスピードを装って身の回りのものを片付けて私は立ち上がった。 しかし予想内といった笑顔で鳳くんは近付いてきて、 さも当たり前のように私の前の席に腰を降ろした。

「続き書いて出さないと明日もまたさんが日直になっちゃうんじゃない?」

涼しい顔でそう言った鳳くんは、何をするでもなく私を再び机に縛り付けた。

「…今日も部活、ミーティングだったの?」
「うん」
「随分ミーティングばっかりやってる部活だね」
「まあ、冬場はそんなもんだよ」
「そうなんだ」

それきり会話が途切れて、なんとなく気まずい空気が漂った。 私が何よりも嫌いな空間だ。
大体、忘れ物を取りに来た風でもないこの男は一体がら空きになった教室に 何をしに来たというのだろうか。 会話のネタにちょっと言い出してみようかなどと考えたが、その愚かさにすぐ気付いて、やめた。
そういうのはなんていうか、鳳くんの思惑にはまってしまうような気がした。

「俺、こないださ」
「あ、うん」

一瞬、気が緩んでいるところに急に発言されて指先で遊んでいたペンを取り落とした。 日誌の上を転がるペンを眺めつつ、次の言葉を待つ。

「日誌に、好きな本の事をずらずら書いてみたんだよね」
「ふうん」
「俺の哲学の考えとか、なんていうかそういう深いところ含め」
「そうなんだ」
「なのに先生のコメント、いつもの調子で期末テストの勉強も頑張れ、ってそれだけ」
「あー、うん」
「びっしり書いたから友達にもすっごいからかわれた」
「へえ」
「ていうかさん、俺のページ読んでないんだ」
「……………」

適当な相槌に焦れたのか飽きたのか鋭いツッコミをいれてきた鳳くんは 相変わらずよくわからない、いい人っぽい笑みをうっすら浮かべていた。 読んでないわけがないだろう。書くネタに困って こうしてわざわざ残っている人物が、持て余した時間の中で 考え事をしつつやることといったら先人から知恵を拝借したりすることだけだ。
けれど読んだというのも癪というか、変な気がして『読んでいない』と答えることにした。

「読んでな
「読んだんだ」
「いや、だから読んでな
「ああいう感じだよね?」

(人の話聞けよ)

「…どういう感じ」
「だから、ああいうのを求めてるんじゃないの?」
「はあ…」
さんが日誌に書きたくて書けなかった事を書いてみたんだけど」
「意味がわかんないんだけど…」
「あれ、違ったかな」

どうしても、その含みのある言い方が気に食わない。
言葉の濁りを許さないようなその物言いと、人懐こい笑顔。 なんだか言葉による攻撃を受けているような気がする。 私がいらいらする原因はこれなのかもしれない。 丸め込むような微笑みと、それで覆い隠しているように見せて鋭い発言。
(ううん…いらいらする)

「鳳くんてさ」
「うん、なに?」
「もし願いが一個だけ叶うとしたら、世界平和とか願うタイプだよね」
「はは、よくわかってるね」
「銃の中に一発だけ入ってて誰か撃っても罪にならない、って時とかもさ、誰も撃たないね」
「うーん難しいけどそうだろうね」
「でも、結構人を見下してたりするよね」
「酷いな。そんな風に思ってたの?」
「だけど他人に優しいのは、そんな風に優しい自分に酔ってるから」

いらいらして自暴自棄になると、どうしてこんなにぽろぽろと言葉が勝手に出てくるものなのか。
言い終えた後にはっとなって口を塞ごうにも、飛び出して言った言葉たちを捕まえることなど不可能で。
思わず顔を伏せたままどうしようか迷ってしまった。

「なんちゃって」

変なタイミングでそう付け足して、私が下した選択はこの場を去ることだった。 鳳くんのせいで書き終えられなかった日誌を、先ほど行った順番で鞄に突っ込み出口を目指した。
合えなく脱走は失敗に終わったが。

「いい逃げは卑怯じゃない?」
「逃げるわけじゃなくてお腹が空いたから帰ろうかなって」
「じゃあ鍵閉めるから、職員室までご同行願います」
「…日誌、まだ持っていけないんで図書室にでも行きます」
「ここで書けばいいんじゃないかな」
「……鳳くんってさ、なんていうか…、あー…うん、どうでもいいや…」

ガタンと無常な音をたててイスをひくと、私はまだ数時間分のぬくもりが残るそこへと腰をおろした。
心なしか目の前の鳳くんの笑顔に、覇気がなくなったのは気のせいではないかもしれない。 それでも彼がここから去ろうとしないのは何故なんだろうと、考えそうになって止めた。

だけどそれは、私がここから出て行けないのと同じ理由なのではないかと、ひっそりと思うのである。