生徒のいなくなった教室は幾分寂しげに息を潜めていた。 日中ひしめき合っていた机やイスのキィキィいう音は嘘のように歌うのを止め、 明日が来るのを心待ちにしているかのように見える。
そんな部屋の中、私はまるで最初からそこにあるべきものだったかのように 物音をたてないように自分の席に腰を落ち着けていた。 ちらりと顔を上げて、乱暴に掃除された黒板の上の時計を視界に入れると 見計らったように6時を知らせるチャイムが鳴った。
(日誌ってなんでこんなに書く事無いんだろ)
握り締めていたシャープペンを開いた日誌の上にころんと転がして、一つ伸びをした。 今日の時間割、教科担任の名前、それぞれの授業中のクラスメイトの態度など。 感情を込めずに書き込める部分を書き終えて、あとは最後の感想を書けば終わりのところまできていた。 だけどその、最後の部分がかけないでいた。
毎度のことながらここの部分で躓く自分がいた。 別に、今日も楽しかったとか勉強が大変だったとか、そんな風に適当に感想を書いて 終わりにしてしまえばいいのに。 前の日直の生徒も、その前の日直の生徒も、みんなそんな風に適当に書いている。 そして先生のチェックが入って、返ってくるコメントは全部同じだ。

「………馬鹿みたい」

イライラして机に顔を伏せると、教室の扉が声を上げた。 誰かが忘れ物を取りに来たんだろう。教室の鍵を閉めるのはどうせ最後にここを出る人、と 決まっているから私がここに残っていたって誰も文句はいわないはずだ。
そう考えて顔を上げる事はなかった。
ただ、想定外だったのは声をかけられたことで。

さん?具合とか悪いの?」

ふと飛び出した自分の名前に重たい頭を動かすと、目の前に眩しい銀色が広がった。

「…あ、いや、全然具合悪くないです」
「そう、ならよかった」

にっこりと微笑んで寄越すのは鳳くんだった。 なるほど声をかけるのも、優しい彼なら不思議はない。 クラスの人とあまり交流を持ったりしない私が、鳳くんと言葉を交わすのは指で数えられる 程しかない。 例えばプリントを回収する時とか、先生からの伝言があった時とか。それくらい。
それにどちらかというと、この穏やかな顔のウラを想像してしまったりしてあまり いい印象がないので苦手だったりする。 それは私が卑屈だからで、このいい人という存在を否定したいから勝手に立てた言い掛かりのようなもので 本人はいたって本当のいい人なのかもしれない。
まあ、そんな事はどうでもいいんだけれど。

そんな私の内面の葛藤をよそに、鳳くんは何を考えているのか 今日部活ミーティングだけで終わっちゃってさ、なんてのんきに言いながら私の席の前に腰掛けた。

「それ、日誌?」
「あ、うん」
「ふうん…さんてさ、日直になるといつもこうやって放課後ずっとここにいるよね」
「…うん、まあ…そうだけど…」

思いも寄らない言葉だった。確かに、中学校に入って日誌という存在が登場して以来約二年間。 こうしてだいたい一ヶ月に一回ほどのペースで回ってくるやっかいなこのイベントの度、 ひっそりと教室に根をはらせてきた。
だが、その間こうして鳳くんのように話しかけてくるようなタイプの人は現れなかった。 というか、ピンポイントに日直の日だけここにいる、と気付く人がいなかったというのが正しい。
大抵の人はそういうどうでもいい情報は頭の中に保存しないものだ。

「日誌ってそんなに時間かかるもんかなあってずっと思ってた」
「うん、私もそう思うけどね」
「皆適当に書くよね。先生も適当にコメント返すし」
「あーそうだね」
さんって微妙に俺の事避けてるよね」
「いや、そんな事ないけど」
「あ、初めて否定の言葉が出たね」

何がおかしいのか鳳くんはそう言って少し笑った。

「でも、俺の事あんまりよく思ってないでしょ」
「(こいつ…)そんな事ないよ。鳳くんいい人だし(表面上は、ね)」
「うーん…さんもいい人だね」

にこっと目の前で笑う鳳くんに、段々いらいらしてきた私は転がっていたシャーペンをさっと 手にとって数時間かけて悩んだコメント欄に、『今日も楽しかった』と乱暴な字で書きなぐった。 日誌を閉じると思いのほか大きなバシッという乱暴な音が響いた。

「今日も楽しかったんだ?」
「うん。鳳くんと話出来たしね」
「帰るの?」
「うん。お腹空いたし」

筆記用具を適当に鞄に詰め込んで立ち上がると、鳳くんが視線で追ってきた。 ガタンとイスが嫌な音をたて、何故かそれが私のいらいらを倍増させた。
(なんでだろう。すごく、不愉快)

「待って、鍵閉めたらどうせ職員室だし一緒に行こうよ」
「鳳くんも帰るなら私が鍵閉めて持ってくからいいよ」
「それって拒絶?」
「…そうじゃなくて、面倒じゃない?職員室ここから遠いし」
「それは言い訳?」
「…………あー…うん、もうどうでもいいけど、わかりました鳳くんが どうしても職員室に行きたいならご同行いたします」
「うん」

いらいらする。
教室中の空気を吸い込んでしまったみたいに咽の奥がツンとした。 その時はどうしたらここから出られるのだろうかと考えるあまりに思考が外にまわらなかったから そう思ったけど、 あとから考えてみたら私が空気を吸いつくしたんじゃなくて、 鳳くんが全部飲み込んでしまったんじゃないかとそう思った。


そんなのどっちだっていいんだけど。