「おー、おはよーさん」 「なあ、昨日のドラマ見たか?」 「、数学の宿題答え合わせせえへん?」 「アホか、さっき言うてたんそういう意味ちゃうわ。妄想癖あんなあ、は」 「の弁当…うまそうやなあ」 「あ、!今日も一緒に帰ろな!勝手に帰んなよ!」 「、悪いな、ミーティング長引いてもうた」 「ほんでな、…おい、聞いとる?」 (本当にもう、気が狂いそう) ひょいと顔を覗き込んでくる(近い…)謙也に、「聞いてるわ!」と勢いで返事をした (嘘、本当は会話の中身なんか全然頭に入ってない)。 すると見透かしたように謙也が「、何や今日は朝から上の空やな」と不満そうに呟いて立ち止まる。 「何か気になってるんか?隠し事は無しやで、なあ、」 振り返ると真剣な顔(深刻な顔とも言える)をしてる謙也と目が合って、 それでも私は頭の中で正の字を描いてた。 そう、私が朝から上の空だったのは正の字を描く事が忙しかったから。 だから、上の空というのとはちょっと違う。だって、謙也を注意深く観察していたんだから。 何かと、言うと。 「ちょお、ほんま聞いとんのか、おい」 (あ、また) (私の名前、呼んだ) そう、名前だ。 謙也がやたら私の名前を呼ぶ事に気付いたのは昨日の事だった。 昨日の昼休み、構って欲しかったのか「ーー、なー、ー?」 とやたら私の名前を連呼して引っ付いてくる謙也に、 ぼんやりと(そういえば謙也は出会った頃から私を名前で呼んでたなあ)と考えて、 それから何となく謙也が発する私の名前を注意深く聞き取るようになった。 昼休みからカウントし始めてバイバイするまでに42回。 脅威の数字だと思った。 それで、丸一日数えたらどんな数字になるんだろうかと朝から意気込んでいたわけだ。 そんなことは知るよしも無い謙也が、やはり心配そうな顔で私の肩を掴んでくる。 「、俺、頼りないか?」 (いや、そんな事ないけどそれより)と、また頭の中に正の字を描く。 それにしても距離が近い謙也に、思わずプッとふきだしてしまう。 「謙也は呼びかける時必ず名前呼ぶんやね。ねえ、とか、なあ、とかでええのに」 「はあ?」 「私は、友達の名前とかもあんま呼ばへん方やから、どんな気持ちでそんなに名前連呼すんのか興味深いなあて」 「いや、何の話やねん突然」 「あんな、今朝から上の空やったんは謙也が私の名前を一日に何回呼ぶかカウントしてたからやねん」 「何やそれ」 帰り道の歩みを進めると、謙也がまた「あ、」と私の名前を呼んで隣に並んだ。 (癖、みたいなもんなんかなあ) 「なんとなー、今日だけで87回も私の名前呼んだで」 「…………マジ?」 「うん、マジ。なんやほんま凄いな。謙也よう喋るしね。それにしても私もびっくりや」 「ああ、おう、いや、何かキモない…か?」 「……?何で?別に、キモいとは思わへんかったけど」 「そ、そか。なら良かったわ。…けど?」 「うん。何か気が狂いそうになったわ。そんなに呼ばへんでーって。 おかしいよね。気にかける前は全然平気やったのに、意識した瞬間なんや凄い恥ずかしくなってん」 謙也も私も、周りから名前で呼ばれるタイプだったからあまり気にしてはいなかったのだけれど。 いざ、改めて大好きな人の口から発せられる自分の名前というのは特別に感じるものなのだなあと実感した。 回数こなすとありがたみが減るような気がしないでもないけれど、 それでも毎度心臓がきゅんとするのは私が恋の前に盲目だからだろうか。 俯いて黙り込んだ謙也を「どないしたん?」と下から覗き込むと、謙也は真っ赤な顔をしてた。 「な、何その反応。何で謙也が恥ずかしくなってん!」 「いや、やってお前、どんだけ必死やねん俺、てなるやろが… そんでもって俺が名前呼ぶ度に意識されとるんやとか思たら…呼ぶん恥ずかしくなるやろ!」 「ええ、今まで通り呼んだらええやん」 「やめや、やめ!」 「なんで!?」 急に早足になる謙也の後ろを、一生懸命追いかける。 「歩くんはやい!」と文句を言って手を繋ぐと、謙也はぎょっとして私が繋いだ手を見つめた。 「謙也?」と名前を呼ぶと、むずむずした顔で再び謙也は俯いた。 かと思いきや、私と繋いでいない方の手で顔を覆って急にしゃがみこむ。 「アッカン!アホ、意識してまう。無駄にはずい」 「大袈裟やなあ。そこまでオーバーリアクションされると私まで恥ずかしくなるやん!」 「最初に恥ずかしい言うたのやろ」 「あ、呼んだ。88回目!」 「カウントすな!」 あはは、と笑う私がこれ以上余計な事を言わないようにという事なのか、 突然謙也は立ち上がって私にキスをした。 照れているからなのか、唇はすごくやわらかいのにキスはかたくて、 そんなところが謙也らしくて愛おしいなあなんて思ったりして。 「ねえ、1000回やときっとあっという間やから、まず一万回を記念日にせーへん?」 「まさかそれ、俺がお前を呼ぶ回数とかちゃうやろな」 「まさかのそれ」 「今まで何回呼んだかもわからへんし、一々カウントすんの大変やろ」 「それもそうやねえ」 「それに、上の空になられんのも嫌や」 「ごめんごめん」 「ごめんは一回や!」と笑う謙也の手を引いて、私はまた歩き出した。 帰り際、優しい顔で「、おやすみ」と言う謙也にどうしようもない気持ちになりながら、 明日はどれくらい私を呼んでくれるのだろう、 あさっては、一週間後は、一年後、10年後はと未来の事を考えた。 いつまでか知れない未来、どのくらい先までこの幸せは続いているのだろうか。 いつか今日が笑い話になるくらい、穏やかな日常を送れていればいいのに。 謙也が「」と私の名前を呼んで、そして私も「謙也」と呼ぶ。 そんな、ささやかな毎日を。 |