何も見えない、ただ光の失った夜の海を漂っているようだった。
両腕と両足をだらしなく伸ばして、私は色の無い世界にただ浮かんでいた。
これが夢なのだと理解していて、ああ変な夢だと、私は考えていた。
それから夢の中で、閉じない瞼を必死におろそうとしていた。

ふと、勝手に動き出す右手の指先が光りだして。 けれどそれは、自分の指先が光っているのではなく透かした向こう側に光が現れただけだった。

(何だろう、)そう思った次の瞬間私はがらんとした教室の真ん中に立っていた。
きちんと整頓された机とイス。見覚えのあるそこは氷帝の教室だった。
そこに音も無く、入ってきたのは眼鏡をかけた日吉くんだった。

けれどそれは、私の見慣れた日吉くんではなくて(単に眼鏡をかけていたからかもしれない)、 どこか大人びていて私の知らない人に見えた。

彼は私に見向きもせず、窓に近づいてそのまま、


「……あ、」

そこで目を覚ました私の目からはたくさんの涙が溢れていた。
胸の奥が重苦しく、身体はだるいし気持ち悪かった。

(何てゆめ)
まるで日吉くんが死んでしまったような嫌な夢だった。

しばらく起き上がる事が出来なかった私は、手元の時計を見てまだゆっくり出来る事を 確認してもう一度目を閉じた。 眠る事は出来なかったけれど、身体を休めるには十分だった。



その日、学校に行くことが憂鬱だった。
日吉くんと顔をあわせるのが何だか嫌で、それでいて彼が無事か確かめたくもあった。 たかが夢だろう、そうは思っても何故だか心はひどく不安に揺れていた。 そんな風に心乱されている事も嫌で、矛盾した自分にまた気持ち悪くなって。
あまり咽を通らない朝ごはんを食べ終えて、結局私の足は勝手に学校に向かっていた。

人のまばらな教室に入ると、今日見た夢がフラッシュバックしてきて思わず立ち竦んでしまう。
はあ、とひとつため息をついて無意識に窓に向かった。 カーテンの開け放たれたそこに立って、下を覗き込んでみた。 2階と言えど結構な高さがあって、もしここから落ちたら…(打ち所が悪かったら死んじゃう)。
そんな事を考えた自分にぞっとして急いで自分の席に向かった。
隣の席の日吉くんは当たり前だけどテニス部の朝練でまだここには居なくて、 いつもの事なのに何故か小さな焦りを感じた。
(全部夢のせい。何であんな夢見たんだろ、)

日吉くんが入ってくるまでの時間がはてしなく長く感じて、 おはようと声をかけてくれる友達の声も遠くに聞こえた。
そんな状態だったから、チャイム丁度に席についた日吉くんを見た瞬間の私はもう、 歓喜に満ち溢れた顔をしていたと思う。 例えるなら、1ヶ月絶食してやっとごちそうにありつけた人の顔みたいな。

「…、何だその顔」
「良かった、ほんとに良かった、ううん何でも無いの」

日吉くんは思いっきり私を訝しげな顔で見ていたけれど、私はまさか「今日見た夢の中で、 あなたが死んだのだから不安でした」なんて本人を目の前に口に出せるわけもなく。 ただ本当に喜んで、ただ笑うしかなかった。

「…ふうん」

私の様子があまりにも奇怪だったからなのか、日吉くんはそれ以上詮索してこなかった。
私に興味を失ったかのように視線を逸らして、鞄からプリントを出したりしていた。
その後も少しだけ私は日吉くんの横顔を見ていたけれど、あまり見すぎると怒られると思って すっと視線を逸らした。
夢で会った日吉くんよりやっぱり現実の日吉くんの方が近寄りやすい感じがする。 夢の中であった日吉くんは、もっとトゲトゲしいような感じだった。

そんな事を考えながら、私はほっと息を吐いた。


その日の夜には、朝見た夢の事もすっかり忘れてて。 何より友達と話したりバカやった事の方が曖昧な夢より記憶に色濃く残っていたので、 ベットに入って目を瞑った時まで私は幸せな気持ちだった。
でも、私はまた、あの暗く冷たい夢へと突き落とされた。

日吉くんが教室に入ってくるところまでは、何となく展開が一緒だった。
けれど今日、彼ははっきりと私を視界にいれてきた。
正面から見た顔は、やはり大人びていて。

(怖い、)素直にそう思った。
トゲトゲしいと思ったのは、彼の顔があまりにもひややかだったからかもしれない。
私は彼に見覚えがあるけれど、もしかしたら彼は私を知らないのかもしれない。
夢の中の登場人物が夢主の事を知らないなんておかしい気もするが、 私は”彼”が、私に明確な悪意を持っているようなそんな気がしたのだ。

ひゅっと息をのんだ。
次の瞬間私の意識は薄暗い自分の部屋の中へと戻ってきていた。 体中、薄らと汗ばんでいて気持ちが悪い。頭は重いし、目元からは涙がこぼれていた。
似たような夢を見ると、こうも気分が悪いものなのだろうか。
枕元にあった携帯のディスプレイを覗き込むと、まだ眠りについてそれほど時間は経っていなかった。 無性に日吉くんにメールでもしたい気分になったのだけれど、 あいにく連絡先を知らなかった。
部屋を出て台所に行き、コップ一杯水を飲み干すと少し心が落ち着いて。 再びベットに体を沈めると、疲れからかすぐに睡魔に襲われた。


翌日、昨日よりも重い気持ちを抱えながら同じように登校し、同じように教室に 日吉くんが入ってくるのを今か今かと待ち構えていた。
(もし、夢の中で見た日吉くん【らしき人】が入ってきたらどうしよう)
(夢の続きのように、もしくは今までが夢であったのかもしれない、)
(私の知っている、もしくは知っていた日吉くんは本物だったのだろうか)
色んな考えがもやもやと浮かんでは消えていく。

(はやく、会いたいな)

「今日は昨日より酷い顔だな」

皮肉な声がふってきて、ふとそちらに顔を向けるとそこには日吉くんがいた。 静かにイスを引いて、流麗な所作でそれに座る。いつもの日吉くんだった。
けれどいつもとひとつ違ったところがあったのだった。

「ひ、よしくん…?」
「何だよ」
「眼鏡、どうしたの?」
「ああ、今朝はどうもコンタクトが合わなくて眼鏡にしたんだ」
「目、悪かったんだ」
「まあな」
「そっか…だから」

予知夢、というのとは少し違うような気がするけれど、そんなようなものだったんだろうか。
実際、眼鏡をかけた日吉くんはいつもと違って大人びて見えた。 夢の中の記憶なんて曖昧だし、こうして実物を見てしまうとこんな感じだったかもしれない なんていい加減に記憶は改ざんされてしまう。
でも、眼鏡に関しては何となく納得がいったが、どうして彼は窓の外へと消えていったのだろうか。
(それまで現実になってしまったら、どうしよう)

「…何なんだよ」
「あ、ううん何でもない」
「…昨日から気味が悪いな」
「あはは…」
「………」

物凄く疑わしい眼差しを向けられて、私は思わず視線をそらした。
何と言えばいいのだろう。話してしまえばすっきりするのだろうか。
(たかが、夢の話だ、たかが、そうだ、夢なんだから)

「今日、日吉くんっぽい人を夢で見たの。昨日も」
「はあ?」
「夢の中の日吉くん、眼鏡かけてて違う人に見えた。で、ちょっと怖かったのね、」
「へえ」
「でも今日眼鏡っこなんだなあってわかってびっくりした」
「ふうん」
「でもそれだけじゃなくって、その私の夢の中の日吉くん、昨日は窓から飛び降りたの」

「だから、何かそわそわしちゃった」と言うと日吉くんはあからさまに嫌そうな顔をした。 当たり前の反応だろうけど。だって夢の中とはいえ自分が他人の夢で死ぬなんて、縁起が悪い。

「お前、勝手に人を殺すなよ。まあ、人が死ぬ夢ってのはその人にいい事が起こるっても 言うけどな。昔の人の考えた慰みに近い迷信だが」
「そうなの?」
「ああ。大体、お前の夢の中の俺と、この俺を一緒にすんなよ。 夢っていうのは脳内の記憶を整理する時に見えるフラッシュバックのようなもの、 もしくはそいつが過去に強く考えていた事なんかが機縁するって言うが お前のはただの願望だな」
「そっかあ…って、私日吉くんが窓から飛び降りるなんてごめんだよ!」
「俺のセリフだ!要するに、ドラマかなんかで見たシーンと俺という媒体が お前の記憶の中に混同しただけなんだよ。わかったか」
「日吉くん物知りだね。そっか〜何だ〜良かった。何かもやもやしてたの」
「そりゃ良かったな。…ていうか折角俺の夢見るなら、もっとマシな夢を見ろ」
「うん、そうする」

私の返事に満足したのか、日吉くんは唇の端を少しだけ吊り上げて笑った。
その顔は夢の中の日吉くんなんかよりもっともっとかっこよくて、 私はその顔をしっかり瞼の裏に焼き付けた。

(その日、私たちはメールアドレスの交換をした)


Xanadu(桃源郷)