陽が暮れてそろそろ家に帰らないとな、と思ったが足が向いた方向は家とは逆方向だった。
家は海に近いところにあったが、高校生になったらあまり行くこともなくなった。こんな近いところに住んでればめずらしくもなんともないし、潮風で髪がべたついたりするしで海というものがあまり好きじゃなくなったりした。
けれど黒羽君と行く海なら、今までとはぜんぜん違う景色が見えるってそう思えた。
肩を並べてみる地平線ってどんな風に見えるんだろう。
夕焼けは水面に反射して、凄く綺麗に見えるんだろうなって想像したりした。

だから最後に見ておきたかった。

二人で見るはずだった、偽りの海。




十数分歩いたところで波の音が聞こえてきた。
久しく忘れていたけれど、こんなに美しい音をたてていたんだな。

世界を覆う海はとても熱い抱擁をくれる。
慈悲深く、あたたかく、涙すら飲み込んで隠してくれる。
ここに住んでいてよかった。

履いていた靴やスカートの裾が濡れるのも構わずに、ざぶざぶと海の中を進んでいった。ちょうど胸のあたりまでつかる位のところで歩みを止めた。
暮れた海はとても穏やか。海水はちょっと冷たく感じたけれど、熱くなった私の心を冷やしてくれるにはちょうど良かった。

ゆらゆらと揺れる波に身をまかせると、まるで生まれてくる前みたいにうれしくなった。
海に抱かれるってこういう感じかな。

黒羽君が抱きしめてくれたら、とっても熱いんだろうな。

とめどなく落ち続ける涙が、海にとけて世界の一部になる。




目を閉じた時、大きな手のひらが自分を抱きしめていた。
けれど驚いたりはしなかった。だってこれは私が生んだ幻だもの。
今私は、自分の体を離れて広い広い世界になっているんだから。

けれどそんな私を現実に引き戻したのは、私の名前を呼ぶ彼の声だった。

…」

凄い力で抱きしめられて、息苦しくなった。
熱い吐息が首筋に埋められて後ろを振り向く事も叶わない。

「苦しい、よ…」
「こうしないと、お前が何処かにいっちまいそうで怖い………」
「違うよ…ふふ……おかしいね。何処かに行くのは黒羽君。もうすぐ私の手から零れて流れてく」

どうして彼がこんな時間、待ち合わせの約束をした海にいるのか。
そんな事、もうどうだってよかった。考えるだけ無駄だと思った。

私はもう、彼に何も望まない。
はじめから望んではいけなかった。

「初めてあった時からずっと好きだった… 中学じゃなくてもっとガキん頃からずっとずっとお前が好きだった…!!」
「違うよ…それは偽物の心」
「……卑怯だって思った、だけどもうどうしようもなかった…。 お前が好きで、誰にも渡したくなかった」
「だから、」
「惚れ薬なんてねえよ」

その言葉が、私の心の扉を凄く強い力で叩いた。
突然夢から覚めたように、現状が理解出来ずにただ硬直するしか出来なかった。

どうして彼の口からそんな単語が出てくるのか、そんな簡単な事すら答えが出なかった。

「お前のダチに協力してもらった。情けねえけど、 お前に普通にふられちまうのが怖くて怖くて仕方なかったんだ。 お前、俺だけに態度そっけねえからな…嫌われてると思ってた。 でもせめて綺麗な思い出を作りたかった……」

綺麗な思い出。
私と、同じ事を考えていた、彼。

まさか。

「ちょっと待って、ちょっと…待ってよ………私、わた…、し……」

彼はゆっくり腕の力を緩めた。開放された私は重たい服を引き摺って振り返って、彼の胸を押し返すように手をついた。
頭が混乱していたもう、よくわからない。
自分がどうしたいか、次に何を言うべきか。

けれど一度壊れてしまった私の心の部屋の扉は、すっかり彼を受け止めていた。

「私も、おなじっ、…っはる、かぜくッ……は、るかぜ…っ」

背の高い彼の首にめいっぱい背伸びして抱きついた。
嗚咽が漏れて彼の名前がうまく呼べなかったけれど、彼はいっぱい私に気持ちを返してくれた。


何度も呼ばれた名前がくすぐったくて、心地よくて。





言葉がなくなってそこに静寂が訪れても

私たちは満ちたりた気持ちだった

差し込まれた偽物の鍵で、
開かれたのは嘘吐きの部屋



惚れ薬があったら、どれだけいいだろうと思うけど
素直な気持ちが大事だよなと思います。
所詮見えない惚れ薬みたいな力に引っ張られて恋してるんじゃないかとも思うわけです。