トミー・立石斧次郎(長野桂次郎)の年譜・・・・・3/5
〜 徳川幕府に仕えた時代・・・立石斧次郎から米田桂次郎になる(17〜25歳) 〜


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(日付は、西暦によるものはアラビア数字、旧暦によるものは漢字で表記してあります)
(年齢は満年齢で表記してあります)
【 幕府の通詞 】
1861年1月11日(万延元年十二月)
帰国の二ヶ月後、トミーは十人扶持の御雇通詞として幕府に出仕することになります。
【 米国公使館の通訳 】
1861年12月(18歳)
ハリスと共に来日した通訳官ヒュースケンが1861年1月15日(万延元年十二月五日)、三田で攘夷派の浪士に暗殺されるという事件が起きます。
そこで、帰国後間もないトミーは、当時米国公使館として使われていた麻布善福寺に出向し、ヒュースケンに代わって通訳を勤めます。
その折り、ハリスの依頼で『孟子』の翻訳を試みています。
その英訳文は、ハリスを通じて宣教師S.R.ブラウンに訂正を依頼されたため、彼はS.R.ブラウンとも知り合います。

翌1862年(文久二年四月)、ハリスは本国(北軍)の要請で帰国し、トミーの公使館での仕事は終わります。

 つけたり)
●幕臣で後に三井物産初代社長となった益田孝(男爵)は、当時浅草に住んでいましたが、 毎日麻布善福寺まで通い、トミーから英語を教わっていたと回顧録の中に書いています。
●鎖国の間日本は、長崎の出島でオランダとだけ貿易をしていました。そのために、条約の交渉など、高度な外国語を使える者はオランダ語の通訳しか居ませんでした。 そこでアメリカとのやりとりは、まず先方の通訳が英語をオランダ語に訳し、そのオランダ語を日本側の通訳が日本語にするという複雑なことが行われていました。
●ヒュースケンはオランダ人で、英語とオランダ語の通訳でした。
彼はドイツ語にも堪能で、当時麻布古川端の光林寺にあって日本との国交を希望していたドイツ人の世話をしていたそうです。 そして、その光林寺からの帰路浪士に襲われました。襲ったのは薩摩藩士の伊牟田尚平(いむだしょうへい)、樋渡八兵衛(ひわたりはちべえ)らで、ヒュースケンは事件の翌日亡くなります。 そして、幕府はヒュースケンの母親に1万ドルを贈っています。
【 外国奉行御書翰掛(がいこくぶぎょうごしょかんがかり) 】
1861〜1863年までの文久年間(18〜20歳)
この間に、幕府の開成所(洋書調所)教授職並出役になり、外国奉行御書翰掛(書簡係)として、主務の田辺太一(やすかず)(後の枢密顧問官)の下で働きます。
共に働いていたのは、フランス語通訳が田辺太一、谷津勘四郎、益田孝、英語通訳が福沢諭吉、立石斧次郎という、何ともそうそうたるメンバーです。
つけたり)
●幕府の開成所は時代によって名称が変わります…
蕃書調所(ばんしょしらべしょ)→洋書調所(ようしょしらべしょ)→開成所(かいせいじょ)→開成学校→大学南校(だいがくなんこう)→帝国大学→東京帝国大学→東京大学
【 英語塾 】
1861〜1863年までの文久年間(18〜20歳)
トミーは下谷七軒町(上野と浅草の間)の自宅で英語塾を開いています。
この家は、田辺太一の家と裏手がつながっていて、実際には一つの家のようだったそうです。
トミーはこの塾に生徒を六ヶ月間食事付きで泊め、英語以外の言葉を禁じたといいます。
三宅秀(当時は復一)は文久二年(1862年)に15歳で入門し、内弟子として立石塾に住み込みます。
その回顧録には・・・・・
「塾に出入りする人は英語に熟達した人が多かった。矢野次郎、益田孝(当時は得之進)、中山右門太、津田仙などである。 その頃は天誅組(てんちゅうぐみ)が盛んな時代であり、天誅組の攘夷壮士が窓の外で英語の話し声を立ち聞きし、 外出を狙うという始末であった。ほとんど命がけで英語を学んだ」とあります。
また、トミーの人柄について・・・・・
「語学に長じた人ですが、あまり品行が宜しい方とは申し兼ねる、大変に酒が好きで、小間物見せの始末などもされた」とも書かれており、独身時代のやんちゃな一面が伺えます。

つけたり)
●三宅秀は、後に東京大学医学部長、東京医科大学長と医学界で活躍した人で、日本初の医学博士、初の東大名誉教授となられた方です。
●津田仙は、津田英学塾の創設者、津田梅子の父親です。
【 長男の誕生 】
1862年(文久二年)(19歳)
下谷七軒町で英語塾を開いていたとき、妻の照(てる)との間に長男桃太郎(とうたろう)が生まれます。
いまで言う「出来ちゃった結婚」のようだったとも聞いています。そしてその後、照とは離別しています。
桃太郎は、1884年(明治17年)22歳の時に、長野家が北海道で世話になった対馬嘉三郎(つしまかさぶろう)の養子となり、 その先妻の娘・文(ふみ)当時16歳と結婚して、2女に恵まれます。

つけたり)
●対馬嘉三郎は津軽藩家老で、明治維新後は根室で水産業に貢献し、札幌公園にその功績を讃える記念碑があるそうです。
また、嘉三郎の後妻は、後に斧次郎の後妻となる中田わかの姉・ふじで、二人は美人姉妹だったといいます。
●その後の照は、明治10年(1877年)5月17日に死去したということだけが分かっています。
年齢は分かりませんが、仮に出産のときが18歳だったとしても33歳という若さで亡くなっていることになります。
なぜか私は、この照が不憫に思えて仕方がありません。
【 弟丈夫届(おとうとじょうぶとどけ) 】
1863年(文久三年十二月)(20歳)
実の兄、小花和重太郎成孚(じゅうたろうなりかね)によって、幕府に『弟丈夫届』が出されました。
それには姓名が『米田桂次郎成正(こめだけいじろうなりまさ)』と書かれており、幕末の歴史に約4年間だけ登場した『立石斧次郎』という名前はこの時点で消息を絶つことになります。

つけたり)
●『丈夫届(じょうぶとどけ)』とは、病弱で幕府に出生届が出されなかった子供が、思いがけず無事に育った場合に出された書類のことです。
●この弟丈夫届には出生日が『天保十三年(1842)正月十六日』と書かれており、当家に伝わる『天保十四年(1843)九月十六日』とは約1年半の違いがあります。
幕府への届け出は、出世を早めるために一年ほど早く生まれたように書くことがあったようですから、この年譜では当家に伝わる『天保十四年生』を元に年齢を計算しています。
【 維新の動乱 】
1865年6月(慶応元年五月)(21歳)
世はまさに尊皇攘夷(そんのうじょうい)の時代に突入します。
14代将軍家茂は長州再征のために大坂城へ向けて江戸城を出発します。
彼は兄の小花和重太郎(歩兵差図役頭取勤方・・・大尉に相当)と共に、騎馬軍装で随行します。

つけたり)
●この年、アメリカでは南北戦争が終わり、4月14日にリンカーン大統領が暗殺されます。
【 ビールを楽しむ兄弟 】
1867年(慶応三年春)(23歳)
 兄小花和重太郎と弟桂次郎(トミー)がアメリカ製のビールを楽しんでいる湿版肖像写真が重太郎の子孫である小花和家に残っています。
 当時の武士の写真はどれも真面目な顔をしたものばかりです。しかしこの写真の二人は陽気に笑っており、とても珍しい写真です。

 左が兄の小花和重太郎(26歳)
 右が米田桂次郎(トミー・・・23歳)
 113 × 92 mm の小さな写真です
 兄重太郎の長男は、後に札幌農学校に学び新渡戸稲造の寵愛を受けます。子孫は『小花和(おばなわ)』姓を継承しています。

 弟桂次郎は、後に『長野(ながの)』姓を名乗ることになり、子孫は『長野』姓を継承しています。

つけたり)
●当時、重太郎と桂次郎は将軍に供奉して東海道を往復しており、撮影場所や撮影者に関して様々な考察がなされておりました。
金井圓教授(東京大学)は撮影場所について大坂城駐屯中である可能性が高いと推察されました。
トミーの外孫で研究者の櫻井成廣教授(青山学院大学)は、撮影者は下岡蓮杖(しもおかれんじょう)と思われる、と推察しておりました。
●2004年1月25に古写真研究家森重和雄先生が実際に写真を手にされ、以下のような仮説を立てられました。
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写真の桐箱に書かれている「露園蔵」の文字は撮影者の名ではなく、写真の所有者の雅号を意味する可能性が高い。
桐箱の内側の縁取りの形(曲線)が中川信輔(なかがわしんすけ)の写真に見られること・・・・・
中川信輔の写場(しゃば)が当時大坂心斎橋北にあったこと・・・・・
中川信輔はその翌年、アーネスト・サトウらの集合写真を撮っていること・・・・・
トミーは、1867年5月3日(慶応三年三月二十九日)、将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)と米国公使ヴァン・ファルケンバーグとの内謁見で通訳を努めており、 おそらく、その謁見の後で中川信輔の写場に立ち寄り撮影したのではないだろうか。
兄重太郎の視線が非常に親しいものに向いているように見え、それがアーネスト・サトウかも知れない。
あるいは、アーネスト・サトウが自分の写真機を用いて中川信輔の写場で撮影した可能性もある。そうだとすると、写真の箱に中川信輔の焼き印がないことがうなずける。
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この仮説をお聞きして筆者は思いを巡らせました・・・・・
この日トミーは上様(将軍徳川慶喜)と米国公使の通訳という大役を果たし、親しい外国人(アーネスト・サトウ)からイギリスビールをもらった・・・・・
いうなれば、これは祝い酒で、だからこそ兄の重太郎が弟の桂次郎に酒を注いでいるのではないだろうか・・・・・
兄の重太郎は、この日の弟がとても誇らしかった・・・そう思えてなりません。
 (ビールを酌み交わす写真の詳細)
【 将軍の通訳 】
1867年5月3日(慶応三年三月二十九日)(23歳)
15代将軍慶喜(よしのぶ)は、大坂城内で四国(イギリス・オランダ・フランス・アメリカ)公使謁見という幕府外交最後の時を迎えます。
この謁見は、内謁見と表向の御目見の二段構えで行われたのですが、トミーは将軍慶喜と米国公使ヴァン・ファルケンバーグとの内謁見で通訳を努めています。

かつてホワイトハウスで行われた日本使節団とブキャナン大統領との謁見には、両者の間に二人の通訳が入りました。
アメリカ側の通訳ポートマン( Portman )が英語をオランダ語に訳して、そのオランダ語を日本側の名村五八郎が日本語に訳しました。
しかも、主役でもない通訳が同等に立ってはならないということで、名村五八郎は、首をすくめ、背中を丸めて通訳したといいます。
ところがトミーがここで行った通訳は、上様ご本人と米国公使の間で、直接英語で通訳したわけですから、これは幕臣として最高に名誉なことだったと思います。

一方、公使ファルケンバーグは本国の国務長官に当てた書簡に・・・
「1860年日本使節団が我が国を訪問したとき、トミーという名で広い人気を集めたあの青年が、タイクンと私との通訳をはたしたことを報告しなくてはなりません。 あれだけ自分のアメリカびいきをむき出しにしたあの青年が、この重要な機会に出席したことは、日本の友好のあらわれではないかと私は受けとめています。」
・・・このような主旨のことを書き送っています。

つけたり)
●『トミーについて』のページの記念切手に、名村五八郎が首をすくめて通訳している様子が描かれています。(記念切手)
下田での交渉は通詞は机の下に身をかがめて通訳したそうです。通詞は外国語が出来るというだけで、交渉に当たれるだけの身分ではなかったことを物語っています。
【 小栗日記に見られるトミーの動き 】
1867年(慶応三年二月と十一月)(23〜24歳)
小栗豊後守忠順(小栗上野介)の日記に彼の名前が登場します。
「米田桂次郎来る逢い申し候」とあるだけで、用件などについては書かれていません。
そこで、その頃の小栗上野介の年表に彼の訪問日を重ねてみました。(旧暦の日付でそのまま記載します)
(小栗日記の資料は 東善寺ご住職 村上泰賢先生よりご提供いただきました)

元治元年(1864)
 八月 小栗上野介 勘定奉行(勝手方)に任ぜられる
十二月 小栗上野介 軍艦奉行に就任

慶応元年(1865)
 二月 小栗上野介 軍艦奉行を解任
 五月 小栗上野介 勘定奉行(勝手方)に任ぜられる
 九月 小栗上野介 横須賀造船所鍬入式

慶応三年(1867)
 二月(二十六日と二十七日) 小栗日記に「米田桂次郎来る逢い申し候」とある
 五月 小栗上野介 江戸之川村に火薬製造所を計画、起工
 九月 小栗上野介 兵賦制度布告
十一月(六日と二十三日) 小栗日記に「米田桂次郎来る逢い申し候」とある
十二月 小栗上野介 陸軍奉行を兼任
【 アーネスト・サトウとの接点 】
1867年(慶応三年夏)(23歳)
 イギリス公使館通訳官アーネスト・サトウ( Ernest Mason Satow )が書記官ミットフォードと共に七尾に上陸し、大坂まで陸行、 能登加賀を訪問したとき、彼は外国奉行平山敬忠の命によって高畠五郎と共に近江草津の宿でアーネスト・サトウを出迎えています。
 一方、アーネスト・サトウは著書「一外交官の見た明治維新」の中でトミーのことを「大変上手に英語をしゃべる青年」と書いています。

つけたり)
●イギリスは当時長州・薩摩と親密な関係にありました。「幕府の勢力が弱体化することにより、 いずれ日本の統治者は天皇になるであろう」と予測し、長州・薩摩が唱えていた尊皇論に同意していたようです。
高畠五郎と桂次郎は、アーネスト・サトウの見解に異論を唱えて説き伏せようとしますが徒労に終わったようです。(長野和郎・調査)
【 世の中の動き 】(陰暦の日付でそのまま記載します)
慶応三年(1867)
 十月十四日・・・将軍慶喜が大政奉還
 十二月九日・・・王政復古宣言
慶応四年(1868)
 三月十三日・・・西郷隆盛と勝海舟が会見、江戸開城
 七月十七日・・・江戸を東京と改称
 九月 八日・・・元号が明治に改元
【 次男の誕生 】
1868年(慶応四年九月三日)(23歳)
このころトミーは向島の料理屋『むさしや』の次女・わか、嘉永三年(1850年)九月二日生まれ、当時18歳と再婚し、わかは向島の実家で峯太郎(みねたろう)を出産します。
峰太郎は1890年(明治23年)(20歳)に、米国ポプキンス美術学校に留学して油絵を学びます。
7年後の1897年(明治30年)に帰国して、翌年、大審院判事・谷津春三(谷津勘四郎義郷)の次女「はま」と結婚し、3男と1女に恵まれます。
しかし、当時の日本では洋画で生計を立てる事は困難を極め、それでも洋画家を続ける峯太郎を、父・桂次郎は勘当します。
孫の櫻井國によると、トミーは峰太郎を「ペンタブラザー( painter brother )と呼んでいたそうです。 峰太郎は兄弟同士では仲が良く、妹の留の家に遊びに来ることもよくあったそうです。 そんなとき、トミーが戸田から訪ねてきて、峰太郎の声が聞こえると「ペンタブラザーが来てるな!」と言って帰ってしまったそうです。
峰太郎は1923年(大正12年)7月22日、54歳で逝去しています。
【 日光東照宮の防衛 】
1868年(慶応四年)(24歳)
この年の一月三日、鳥羽伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争が始まります。
1月6日、徳川慶喜は密かに開陽丸で大坂を発ち江戸へ向かいます。このとき小花和重太郎、米田桂次郎兄弟も共に江戸へ帰ったといいます。

そして、板垣退助の率いる薩長連合軍(官軍)が「日光東照宮は朝敵の先祖を祭る社であるから焼き捨てよ」として進軍中との報を聞きます。
二月に歩兵頭並(中佐に相当)に昇進していたトミーは、父親がかつて奉行を勤めたゆかりの場所を守ろうと、 兄小花和重太郎と共に大鳥圭介を頭とする旧幕府軍に加わり、それを阻止するために戦います。
ゲリラ戦のような苦しい戦いで、兄重太郎は四月二十二日、宇都宮郊外、雀ノ宮の戦で腹部に敵弾を受け、長男太郎の出生を待たずにこの世を去ります。
トミーは兄の遺体を背負って三日間山中を歩き、火葬に付した後、日光市山内匠町の天台宗淨光寺に葬りますが、 それが元日光奉行の長男ということでとても好意的に受け入れられたと聞きます
トミーはその後も戦闘を続けますが、五月六日、今市に近い大桑の戦で太ももに貫通銃創を受け、落馬失神してしまいます。

 つけたり)
●日光東照宮は、当時日光在番の八王子千人同心頭・石坂弥次右衛門や東照宮社僧らの尽力によって無事残る事が出来ました。
●この戦いの最中のこと、馬上で号令を掛け指揮をとっているはずの隊長・・・声がするのに姿が見えないので、 その声のする方を見ると、隊長は大木の陰に隠れて号令だけを掛けていたそうです。 そこでトミーが馬を寄せて隊長の襟をとって引き出したら、ブルブルと震えていたと孫に語っています。
身分だけ高くて実力のない、このような隊長が居た幕府軍は負けて当然だと思いました。
そして、私のように気の弱い者がその場に立ったら、きっと同じ行動をとってしまうのではないかとも思いました。
【 上海行き 】
1868年(明治元年十月)(25歳)
トミーは一命をとりとめ、大鳥圭介と共に仙台へ逃れます。
そして当時武器商人として暗躍していたプロシア人のヘンリー・シュネル( Schnell )と、塩釜港からフランス船で上海へ渡ります。 そこで大鳥圭介のために武器を調達し、旧幕府軍の再起を図ろうとしたのです。(長野和郎・調査 2005/02/21 更新)
ちょうどそのとき、パリの万国博覧会へ将軍の名代として行っていた徳川昭武一行が、大政奉還の報に驚いて急遽帰国の途中、上海へ立ち寄ったところに出会います。
そして、一行の中にあって旧知の間柄であった渋沢栄一を訪ねて胸中を打ち明け・・・・・・・
「前将軍の弟を総大将に迎えれば全軍の志気が上がる・・・武器はこのシュネルが供給してくれる」と訴えます。
しかし逆に渋沢栄一から、もはやそのような時代ではないと強く諭され、やがて武器調達を断念して帰国することになります。

 つけたり)
●長州・薩摩と親密な関係にあるイギリスとは逆に、フランスは幕府を支援する政策をとっていました。だからこそ、 トミーが上海へ逃亡する際にフランス船が支援してくれたわけです。(長野和郎・調査)
●武器商人シュネル(スネール)は、兄のヘンリー・シュネルと弟のエドワルド・シュネルの二人が居たそうです。
鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍を打破した薩長連合軍(官軍)は越後長岡藩に攻撃を仕掛けます。そのとき長岡藩総督の河井継之助は、 ガットリング砲という当時最新式の機関銃のような武器を使って大変な抵抗を示します。
このガットリング砲を河井継之助に売ったのが、弟のエドワルドでした。
トミーが塩釜港から上海へ逃亡する手助けをしたのは、兄のヘンリーだったそうです。
  兄のヘンリー・シュネルは、元ロシアの通詞で、慶応4年4月に会津藩主松平容保にお目見えした後平松武平兵衛と名乗り、藩の軍事顧問となりました。
ヘンリー・シュネルのその後ですが、1869年(明治二年)5月に、妻、娘、旧幕府の武士など総勢22人で渡米し、 カリフォルニア州サクラメント北東のコロマに集団入植して、そこを「ワカマツ・コロニー」と名付けたそうです。
幕府軍に肩入れしていたこともあり、官軍の前から逃亡する必要があったのでしょう。
しかし、桑と茶の栽培には現地の気候・風土が合わずに失敗し、日本人を残して妻子と共に逃亡し、その後一家の足取りは不明とのことです。
若松コロニーに就いては下記HPに詳しい解説があります。(長野和郎・調査 2005/02/21 更新)
http://likeachild94568.hp.infoseek.co.jp/waka.html

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