宝生流の歴史と今 

 宝生流の流祖は観阿弥の長兄宝生大夫と言われていますが,現宗家の系
図では観阿弥の子,蓮阿弥(1448年没)とされています.鎌倉時代末期
に生まれた大和猿楽四座の一つ外山(とび)座を母胎としたグループに
宝生大夫が入り,宝生座と言われるようになりました.応仁の乱などの
影響で猿楽は困難な時代に入り,宝生座は一時小田原の北条氏に仕えた
ことが記録されています.しかし,天下を統一した秀吉は大の猿楽好き
で,大和四座保護政策をとり,猿楽は再び隆盛の波に乗りました.
 徳川幕府も猿楽保護政策を引き継ぎ,観世・今春・宝生・金剛の四座
に新たに喜多座を加えて扶持を与え,江戸は京都・奈良と共に猿楽の中
心になったのです.徳川五代将軍綱吉は,秀吉に劣らず猿楽に傾倒し,
特に宝生流を支持したので,宝生流は観世流に次ぐ地位を占めるように
なりました.加賀前田藩で宝生流が盛んになったのもこの頃です.徳川
時代,能は式楽として公式行事に演じられるばかりでなく,寺社による
勧進能も盛んに行われました.また,武士はもとより百姓・町人まで能
を見たり,謡を謡って楽しんだのです.歌舞伎の人気演目に能から題材
を取ったものが多いのはこのためです.
 明治維新は能楽界に致命的な打撃を与えました.最大の保護者であっ
た徳川幕府は滅亡し,維新政府の文明開化政策は,伝統芸能の無視につ
ながり,能は一時滅亡の危機に瀕しました.幸いなことに,維新の混乱
が収まると共に旧公家・藩主・財閥などによる後援もあり,また明治の
三名人と言われた宝生九郎・梅若実・桜間伴馬らの努力もあって,能は
次第に復活し,徳川時代の式楽能から狂言を含めた能楽へと近代化を進
めてきました.一つ屋根の下に能舞台と観客席を取り込んだ能楽堂が数
多く完成し,宝生流は神田猿楽町に新舞台を作りました.
 明治・大正・昭和と能楽は隆盛の道をたどりましたが,太平洋戦争の
敗戦は,明治維新と同様の打撃を能楽に与えました.多くの能楽堂の焼
失,占領軍の財閥解体,華族制度の廃止による経済的後援者の喪失,民
主化による意識・思想の変化は,能楽界に計り知れない影響を及ぼしま
した.しかし,日本の世界に誇るべき伝統芸能を守ろうという能楽界の
努力,薪能などによる観客層の拡大,大学や企業のサークル活動,国立
能楽堂の建設など政府の後援などが相まって,能楽は次第に繁栄を取り
戻した感があります.宝生流は水道橋に能楽堂を再建し,現在二十世家
元宝生和英師のもとに170名の能楽協会会員を擁する第2の流派で,観世
流と共に上掛りと言われ,重厚な芸風で知られています.また,三川泉
師が人間国宝に指定されています.
        宝生流二十世家元宝生和英師


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