「日の丸」の歴史
お話1〜いつごろできたの?
「白地に赤丸の旗」が現れたのは、鎌倉時代末期です。平安時代・鎌倉時代に扇子などに描かれた丸印は、表が赤字に金丸、裏が青字に銀丸とついになったもので、陰陽思想に基づくものでした。また、その頃の「はた」は、下に垂れ下がる幡(はた)でした。「白地に赤丸」の横になびく旗は、蒙古(モンゴル)が元寇で持ってきた旗が刺激となって使われ始めたのではないかとの指摘もあります。その後、武田信玄・上杉謙信など多くの戦国大名が旗印に用いました。江戸幕府の終わり頃には、外国から国交を求められ、「日本総船印」とされました。
お話2〜いつ国旗とされたの?〜
明治維新の後、1870年1月、「商船規則」を決めた明治政府の太政官布告で、「日の丸」を「御国旗(みこっき)」とし、その形状を示しました。その時代は天皇を中心とする国づくりがめざされていたので、1870年10月、明治政府が、「海軍旗章」を定めた太政官布告の中で、天皇の旗である「御旗(みはた)」、皇族の旗である「皇族旗」とともに「御国旗」としての「日の丸」を載せ、臣民(天皇の家来)が天皇に対して掲げる旗としての位置づけを行いました。日露戦争後には、天長節(天皇誕生日)、紀元節(建国神話に基づく国の誕生日)などの祝日や大祭日には、すべての家で掲げることが徹底されていきました。
お話3〜「日の丸」はどう教えられたの?どう使われたの?
国旗国歌法では、「日の丸」の意味については規定していませんが、赤丸は太陽を表すとされています。戦前の国が定めた教科書では、「日の丸」は「朝日が勢いよく登っていくところをうつした」勇ましい旗、「占領したところに真っ先に立てる」旗とされていました。また、「(「日の丸」の)白は国民の純正潔白を表し、赤は日本国民の熱烈もゆるがごとき愛国の至誠(しせい)をあらわしている」と教えていました。その当時、日本は、台湾・朝鮮を植民地とし、中国東北部「満州」を支配して、中国との戦争からアジア太平洋全域での戦争に入っていきました。国内では、出征兵士(軍隊に入るために出発する人)の見送りを初め戦意を奮い立たせるためのいろんな場面で使われました。植民地朝鮮では、「創氏改名(日本式に名前を変えさせること)」を強制したり、「皇国臣民の誓詞(せいし)」を唱えさせるなど、天皇の臣民とするための政策を進め、「日の丸」掲揚と「君が代」斉唱を強制しました。「日の丸」「君が代」はその植民地支配や「大東亜共栄圏」を宣伝する占領地の厳しい軍政・戦闘地域での日本軍の残虐行為とともに記憶されることになりました。
お話4〜戦後、「日の丸」はどうなったの?〜
アジア太平洋戦争は、アジア2000万人、日本310万人の戦争犠牲者という悲惨な結果を残し、日本の敗戦で終わりました。日本は連合国軍の占領下におかれ、戦争の反省に立った新たな出発をしました。「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」「天皇は神聖にして侵すべからず」とした大日本帝国憲法にかわって、「平和主義・主権在民・基本的人権の尊重」を原則とする日本国憲法が制定されました。生きた神とされ、絶対的権力を持った天皇は、象徴としての存在になりました。軍国主義に結びついたものについては廃棄されていきました。「日の丸」「君が代」については、連合軍の占領当初、「日の丸」の掲揚制限が少しありましたが、廃止はされませんでした。その後、サンフランシスコ講和条約により、日本は国際社会に復帰しますが、対外的に国旗・国歌が必要な場では、「日の丸」「君が代」が使用され続けます。学校の儀式などではしばらくなくなっていましたが、文部省が学習指導要領に規定することで、掲揚・斉唱がされるようになりました。1999年になって国旗国歌法が制定され、法律によって、「日の丸」「君が代」が日本の国旗・国歌と決められました。
「君が代」の歴史
お話5〜歌詞になっている和歌はいつできたの?そのときの意味は?
曲ができたのは明治になってからですが、歌詞のもとになった和歌ができたのは、平安時代です。「古今和歌集」の「賀歌(がのうた)」(長寿を祝う歌)にある「わが君は 千代にましませ さざれ石の いわおとなりて 苔のむすまでに」が変化し、平安時代末期から鎌倉時代初期には、「君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」になったと言われています。「君」は、目上や年長者を意味することが多く、めでたい席や行事で、彼(彼女)の長寿を祝い、願うための歌として歌いつがれてきたのです。もとは、「あなたの寿命が 千年も万年も 小石が大岩になって 苔がはえるほど長く続きますように」という意味だったのです。
お話6〜曲がつけられたのはいつ?意味は変わったの?
明治になって、薩摩藩の砲兵隊長大山巌が「君」を天皇に限定し、「天皇陛下を祝する歌」として「君が代」を海軍の儀礼曲とすることを提案。イギリス人の軍楽隊長フェントンが曲をつけ、1870年に初めて演奏されました。しかし、歌詞と曲の調子があっていないと不評であったため、1880年、宮内省雅楽課林広守が作曲し直し(奥好義と林広季という説もある)、ドイツ人音楽教師エッケルトが編曲してできあがったものです。
お話7〜学校ではいつ歌われたの?どう教えられたの?〜
1890年、天皇が教育の目的を示した教育勅語(ちょくご)が出されました。「国民は天皇の臣民として、天皇の治める国が栄えるようにしなければならず、学校で勉強するのもそのためである」という内容で、「国の一大事(戦争のとき)には、国のため、天皇のために身も心も捧げなければならない」と教えるものでした。学校で行われる儀式も、全国で統一したものが決められました。入学式・卒業式の他に、天長節・紀元節などの祝日に「君が代」斉唱・御真影(ごしんえい:天皇・皇后の写真)に最敬礼・教育勅語奉読(ほうどく)を中心とした厳粛な式が行われました。国定教科書の中では、「君が代」は「天皇陛下のお治めになる世の中がずっと続きますように」という意味だとされていました。
お話8〜今、「君が代」はどんな意味だとされているの?〜
1999年8月、国旗国歌法が制定されたとき、政府は、現在の日本国憲法下での「君が代」の解釈を次のように示しています。「日本国憲法下にあっては、国歌君が代の「君」は、日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する日本国民の総意に基づく天皇のことを指しており、君が代とは、日本国民の総意に基づき、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国のことであり、君が代の歌詞も、そうした我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解することが適当」
入学式・卒業式の国旗・国歌
文部科学省の定めている学習指導要領には「入学式や卒業式などにおいては、その意義をふまえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」と規定されています。それは、「国際的な交流が進む中で、日本人としての自覚を養い、国を愛する心を育てることが大切」「国旗・国歌に対する正しい認識を持ち、それらを尊重する態度を育てることが、国際社会において尊敬され、信頼される日本人となるために必要」「卒業式や入学式は、国家への所属感を深めるためにいい機会」とする認識から定められているものです。大阪市教育委員会は、「日の丸」「君が代」の歴史をふまえつつ、「日本国憲法」の下で、平和と人権の確立をめざすその「シンボル」としての国旗・国歌の意義をとらえてほしいとしています。
憲法・子どもの権利条約
学校教育や儀式的行事の中での「日の丸」「君が代」の扱いは、戦前と戦後では当然違います。日本国憲法第19条「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」という規定は、民主主義の社会はその社会を構成するひとりひとりが自由に自分の考えを持つことを保障されてこそ成り立つという考え方に基づいていて、もっとも大切な権利とされています。日本も批准している「子どもの権利条約」でも、生徒にもこの権利があること、自分に関わることに対して意見を言う権利やそのために必要な情報を求める権利があることを規定しています。国旗・国歌、「日の丸」「君が代」についても、自分の考えを深めてください。また、友達の意見にも耳を傾け、それぞれの意見・立場を尊重し合いましょう。
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