馬場元子さんテレビ出演レポ

番組名「新・平成日本のよふけ」

フジテレビ・2003年2月16日(日)午後1時30分〜2時

(2月2日と16日の2回にわたって放送されたが、2日は見逃してしまったので、16日の分だけのレポです)

 鶴=笑福亭鶴瓶、南=南原清隆、元=馬場元子さん
 
 まず、先週のダイジェスト。
 収録が馬場さんの命日1月31日だったので。
鶴「今日、命日やったから、馬場さんにいただいたのを持ってきたんですよ(と言いながら、腕立て伏せの時につかむ木製器具を二つ取り出す)。これ持ってじゃべって。馬場さんやと思って。今日命日でしょう、おつとめしてこられたんですか」
元「はい。2時からみんなが来てくれましたので……」
鶴「もう泣いてるやん」

 運命の出会い 馬場正平17才 伊藤元子14才
元「馬場さんが17才なんですけども、兵庫の明石でキャンプ、ずっとジャイアンツがしてましたので」
南「パッと見てどんな印象を持たれたんですか」
鶴「好きやとか」
元「そういうのは全然何年間もありませんし」
鶴「ちょこっとしゃべったんですか」
元「ほとんど口はきいてませんえ。あと、お手紙いただいたり」
 (馬場さんのジャイアンツ時代のユニホーム姿の写真)野球選手と女学生 その数年 文通が続く……

元「その後、大洋ホエールズで、三原監督のもとに、また明石でキャンプがあったんです。その時にケガしたんです。お風呂場ですべって。ケガしたというのでお見舞いに行ってこうようというので病院に行ったら、もぬけの殻なんです。麻雀してるんです。その時になにか、もうレスラーになるということだったんじゃないかなと思ううんですけども」
 テロップ「馬場正平は大洋ホエールズ時代、風呂場で転倒した際に左肘の筋を切る大怪我を負い野球生命にピリオドを打った」

 リングに立つ馬場さんの白黒写真(隣は猪木?)「馬場正平 1960年レスラーデビュー」
 アメリカでの馬場さんのカラー写真。ガウンを着て花道を歩いている「デビュー2年目 アメリカでトップスターに」
元「それでアメリカから帰ってきまして、私がどうしてるかなっていうので見に来たみたい」
鶴「その時いくつぐらいですか、馬場さんが」
元「27才」
鶴「ということはですよ、出会ってですよ、10年」
南「10年間」
鶴「何の意志も、ちょっとずつはあんねんけども、はっきりは言わへんけども、27でしょう、もう」

 「二人の交際が始まった」
 「数々の障害が生まれた……」

元「とっても反対されたので。特に母が。ただ、馬場さんはとってもいい人だ。馬場さん個人はいいんです。だけれども、やっぱり、職業的なものと、親としての心配ですよね」
鶴「馬場さんはやさしい人やから、お母さんのことも気遣ったでしょう」
元「そうなんです。それで結婚できなかったんです」

 ハワイでのカラー写真。「941年 ハワイで挙式」

元「もうハワイで結婚しました、しますじゃなくて、しました、ということで報告したんです。だけど、日本で長いこと籍が入ってませんでしたので、そのままですっといたんです」
鶴「だから、おかしな状況になるんですよ。ジャイアント馬場は結婚してるのかしてないのか。これは元子さんの親に気遣う馬場さんの心がずっとあったんでしょうね」
元「そうですね」

(先週のダイジェストはここまで)

鶴「馬場さん自身がいろんな、けがとか。ずっとついてまわったから、もろに見はったことあるんですか」
元「12年前?」(と、南原の顔を見る)
南「はい、12年前ですね。足を大怪我しました。そこで選手生活が終わるんじゃないかっていう」
  テロップ「1990年、52才のジャイアント馬場は試合中リングから転落した時、左大腿骨亀裂骨折という重傷を負い選手生命の危機を迎えた」
 写真。リング下に倒れる馬場さん。気遣ってのぞき込むアンドレ・ザ・ジャイアント。救急車に乗った馬場さん。
南「2年も年ですし、20代、30代の骨折じゃなくてもうちょっとあとの骨折ですから。それはみんな」
鶴「引退」
南「もうそろそろいいじゃないか、っていう話もあったんですよ。潮時は潮時じゃないかなっていう空気にはなりましたよね」
鶴「元子さんも、もう」
元「いえ、馬場さんがやめるっていうまでは」
鶴「やらしてあげようと」
元「はい」
鶴「それはリハビリをすごくされたのに、そばにいておられた」
元「すごかったですね。お医者様ももうこれ以上続けない方がいいって言われたんですけど。そこで私も先生にくってかかって」
南「お転婆ですよね」
元「先生に決められる事じゃないって言って。馬場さんが決めることだし、先生は早くなおしてくれって。そうはいかないぞ。新聞とかマスコミで引退、引退って言われてましたので。でも馬場さんは、一言も引退するっている弱音は吐かなかったんです。それで一回戻ってあとは馬場さんの好きにすればいって思いまして。先生方もあの馬場さんを見て何にもおっしゃらなかったですね。私たち、声出さないで数だけ数えてました」
鶴「リハビリで」
元「それはそれは厳しい顔で、あんな馬場さんは見たことがありませんでしたね」

 「復活の日」
鶴「それから復帰のリングがあるわけでしょう」
南「ありましたよ。日本テレビ福沢アナが実況してたんですけど、『歩いてます!』『今、右足から入りました』って(正しくは左足から)。世紀の一瞬で。それくらいプロレスファンは、同じ気持ちだったんです」
 武道館で復活した馬場さんの写真。
 リングで手を挙げる馬場さん。ラッシャー木村が抱きついた時の写真。
南「見れるだけで幸せだっていうのがありましたよ」


 「病魔」
鶴「ジャイアント馬場が馬場元子と作り上げた、不思議なものがあると思いますよ。二人で一つという感じの夫婦ですけども、その片割れが癌になったというのを聞いた時は。検診してはったんでしょう」
元「はい。11月にしてたんですけども」
鶴「11月にしてたんでしょう」
元「はい、それで12月に。だから先生方はとっても慌てられたとおもうんですけども」
鶴「11月にはに何もなかったですかか。11月の検診の時は」
元「はい」
南「定期検診」
鶴「何もないと言われたんですね」
元「それで試合が始まってもずっと熱っぽいんですね。それで病院に2軒行っても風邪だった言われて。それで松本で……。ああいう馬場さん見るのも、えっというような馬場さんだったんですけれど。やっと東京からバスで松本の体育館について、さあ降りようって荷物を用意して降りようとしたら、『帰るぞって』言われて。『え、今着いたんです』ってとんちんかんな返事したんですけれでも、『東京に帰りたい』って言って。それで、『車で送っていく』って言ったんですけれども、電車の方が確実に早くつけるって言うんで電車で帰ったんですけれども。もう新宿の駅でもう歩けないんですね。馬場さんが。それでも、馬場さんと笑いながら、『馬場さん肩貸してあげます』って言って、『いくらなんでも俺が』って。『いいです、いいです、人に笑われてもいいから肩貸してあげます』って。ちょうど私の肩がいいんです、高さが。それでしばらく歩いては休み、歩いては休みしてしてたんですけど。最後の時には、私が歩けないくらいかかるようになっちゃんたんですけれども。『悪いな』って言いながら。『大丈夫、大丈夫』って言って。そういう時になったら、馬場さんが暗くなると私が明るくなるんです。それでやっと病院に着いて。『七日からアメリカに行きます』って言ったら、『命が大事なのか、どっちが大事なのか』って言われて。即、入院ということで。『えーっ』になって。その日は私はうちに帰ったんです。次の日、朝行ったら馬場さんが一人で食事されてたので、これは馬場さん一人おいとくといけないなって思って、『私が泊まります』って言って、それからはずっと病院にいたんです」
鶴「実際悪い、癌だって聞かれたのは」
元「それから1週間もしなかったと思います。私だけ呼ばれて。で、もうこれだけ広がってる。すごく私は悔しかったんです。『どうしてこうなる前に、先生、チェックに来ているのにどうして言ってくださらなかったのか』っていう、悔しさがあったので、先生にくってかかったんです。先生たちも『もうどうしようもできない』って。『だったらあとどのぐらいですか』って言うと『わからない』って。『もう1回リングに上がれますか』って聞いたらば、『たぶんそれは無理だと思います』って先生がはっきりおっしゃったので、『わかりました』ということで、『これ以上何もしないでください』って言って。『でも、絶対に馬場さんには言わないでください。馬場さんには治るっていうことで、私はやって行きますから』って言って。それから誰一人、馬場さんの病名も言っていませんし。それから整形の先生、いつもよくしてくださる先生のお部屋に行って、『先生、こうだった』ってお話しして、そこで泣けるだけ泣いて、それから馬場さんの部屋に戻ったんですけども……」
鶴「雰囲気はわかるでしょう」
元「いえ、でも私、その時に、ここでやっぱり元子さんの本領を発揮しないとと思って。私が笑ってないと馬場さんが笑えないなって思って。だから一切、出しませんでした」
鶴「一番最後の言葉とかそういうのは」
元「なかったですね、もう。『馬場さん』って私が言うと、私のことはわかるみたいで、目がふっと開くんです。馬場さんの目が向こうを向いているとなったら、椅子を持って来て、『馬場さん、こっちこっち』って手を振ってたんです。それで、馬場さんの目がこっちくるとまた椅子を持って来て。そんなことばっかり、外から見ると変なことやってたんです。でも、常にみんなが声をかけて……」

 「別れの時」
元「これ以上しても、措置をどうしますか、って言われたので。機械だけで動いている馬場さんは馬場さんじゃない。自力で息して生きてられるのが馬場さんだから、『もうはずしてください』って言って。それから28時間。馬場さんが、ずっと私たちが声をかけてかけて、一日以上ですよね」
鶴「機械はずして28時間ですか」
元「はい。ICUからもどって、機械をはずしてしまうともう」
鶴「すぐ死んでしまいますよね」
元「もう2、3時間ぐらいですよ。そう思っていてくださいって言われたので、『馬場さんはそんなに弱くない』って言って。『馬場さんは絶対そんなに弱くない』って。そこから28時間。もう十二分に馬場さんと私にとってはですけれども、にお礼を言えたって言うか……」

 「1999年1月31日 ジャイアント馬場逝去 享年61」

 (元子さんが馬場さんの遺影を胸にマンションから出てくる映像)
 「1999年2月1日 ジャイアント馬場の訃報が全国に流れた」
 「しかしその直前まで ジャイアント馬場が亡くなった事を 元子は必死に隠そうとしていた」

元「どうして私が頑固なまでにみんなに言わなかったかっていったら、『馬場さんは私が守ってあげなくちゃいけない』って、ちょっと偉そうなこと思ってたんですね。それで、隠せると思ったんです。亡くなった時も」
鶴「発表しないっていうことですね。馬場さんが死んだということを」
元「亡くなったということを、みなさんにお見せしたくないというのがとってもあったんですね。病院から帰るその時にも、合宿にいる若い人たちに、『馬場さんが退院するので、ちょっとうちで待ってて』って言ったんです。それで彼たちに『今から馬場さん帰るから、下にちょっと来て』って言ったら。あれだけは今でも思うんですけれども、かわいそうなことしちゃったって……。状況が、彼たちは把握できなくて」
鶴「本当の退院やと思ってたんですね」
元「はい。みんなニコニコして玄関で待ってたんですけども……」
鶴「でもそれは、無理でしょう。そんな、密葬で送り出すってことは不可能ですよね」
元「それでも私、馬鹿みたいに、何とかなるんじゃないかと思って。『あなたたち、外にいうんじゃないよ』って言って」
鶴「向こうは退院やと思って来てはんのに。びっくりしたでしょう」
元「だから、力がでないんです、彼たちも。もう固まっちゃってて。よくああいうのを、変わり果てた姿って言うんですね。彼たちにとったら。それで『8階まで連れてってあげて』って言ったら、『はい』って言ったんですけれども、その時には彼たち、涙はなかったですね。もう必死で、馬場さんを連れていかなくちゃいけないって、一生懸命、8階までいってくれて。それで、その後でしたけれども、みんな放心状態になっちゃったていうか」
鶴「双子の夫婦ですからね。僕もその時、舞台あがる前やったけど、嘘やんと。なんか連絡あるでしょう、そんなんやったら。何の連絡もないし、死んだということしかないから、事故なのっていう思いだったんです」
元「インターネットでニュースが出ちゃったんですけれども、会社の方に、どうもおかしいっていうんで、ばんばんお電話があったんですけれども、会社の人たちもなんにも知らないわけですね。だから、『そんなことありません。冗談でもそんなこと言わないでください』って怒ってくれてたらしいんですね。やっぱり馬場さんはリングの上でガウンを着ている馬場さんであったり、話しかけた時にニコっと笑う馬場さんであって欲しい。それを皆さんが覚えててくだされば、私はいいなと思って。元気な笑顔だけがみなさんの心の中に残って欲しい。その願いしかなかったんですね。私の中には」
 馬場さんの写真。ガウン姿。葉巻をくわえた笑顔。

南「僕らプロレス・ファンは、僕はそれでよかったと思います。僕の中では、ずっといるような感じで残ってるんですよ」
鶴「あの笑顔とかいうのは。今となったら正解でしょ。だから、ある意味、馬場さんが先に行った方が。元子さんが先に行っていたら、馬場さん後を追わはりますよ」
元「私、今になったら、この悲しみっていうのは馬場さんに味わわせたくないなっていう思いはあります。
鶴「ずるいよな、とか思いませんか。先に行って」
元「困った時には、『馬場さん、もうどうするの』っていうのもありますけれども、でも、その時に必ず思うのは、でも、この嫌な思いを馬場さんがしなくてよかったって思って。私なら寝れば明日になったら半分忘れてるから、そういう考え方が、やっとできるようになってきました」
鶴「死んでから夢に出てくるっていうのは、どれくらいありますか」
元「時々、あったんですけれども。常に一緒だと思っているので。常に会話を馬場さんとしながら生活していますので。でも、悲しい時はいいんです。馬場さんがこういうことを味わわなくてよかったな、ということで。悲しい時は自分一人で、ま、いいよっていってやるんですけれども、何か、いいこととか、楽しいこととかあった時に、『あーあ、馬場さんと一緒だったらな』っていうのは、今思いますね、とっても」
鶴「今でもご一緒やろうけど、一緒やった時っていうのは、苦しかったこともあっけど、いい人と結婚しはりましたな」
元「はい。これ以上の人は私にはいませんし、私はとっても一人になってもハッピーというのか、そういう生活を送れるような環境を馬場さんが作っておいてくれたので……」
鶴「どこかで見てはると思います。馬場さんにありがとう、という気持ちで。これも何かの縁ですよね、今日、命日の日にこれになるっていうのも」
元「いつもなら私は絶対でないと思うんです」
鶴「そうですよね。元子さんに悪いことしたなあ。でも馬場さんのこと言って欲しい。馬場さん、すみません、元子さんだしまして」
元「本当は馬場さんがここにいると思うんですよね。鶴瓶さんの番組はすべてさ出せて頂いているので。何やってるのって」
鶴「俺怒られると思うわ。何で出すのって」
元「『あなた何やってるの』って言われると思います」
 馬場さんの写真。
 ジャイアンツ時代、リングでの勇姿、ハワイでの記念写真、結婚披露宴の写真など。

(終)