TBS「R30」2005年5月27日深夜放送

ジャンボ鶴田さんと小佐野記者

 表記の番組で、プロレス記者小佐野景浩さんを取り上げたコーナーがあり、主にジャンボ鶴田さんの思い出を語っていました。
 以下が主な内容です。
 一字一句忠実に再現したものではありません。
 地の文はナレーションです。

 スポーツ記者の心を揺さぶった記事に隠された出来事

 史上最強の選手はというと決まってこの男の名が上がる。
 ジャンボ鶴田。
 その恵まれた体力とたぐいまれな身体能力で、かつての日本のマット界のエースに君臨した天才プロレスラー。
 今回はその鶴田を追い続けた男、小佐野景浩。
 小佐野の元に衝撃的なニュースが飛び込んできたのは今から5年前のことだった。
 2000年5月14日。
 この日、有明コロシアムではクラッシュギャルズ11年ぶりの再結成というビッグマッチが行われていたが、舞台裏では、「鶴田死亡」という噂でもちきりになっていた。
 ジャンボ鶴田がマニラで死亡したというのだ。
小佐野「よく青天の霹靂という言葉がありますが、本当にそういう感じ。ええっ! もう、その一言ですよね」
 小佐野にとってジャンボ鶴田とはどんな存在だったのか。
小佐野「プロレスを取材する記者からすれば、ほんとうに記者泣かせの天才。みんな彼の本質に迫ることもできなかったし、彼の魅力を引き出すこともできなかったし。みんな認めてるんですよ。できないんですよ。懐が深すぎちゃって」

 ジャンボ鶴田の略歴紹介。

 ジャンボがトップレスラーの仲間入りを果たす一方、小佐野は18歳で週刊ゴング編集部でアルバイトをはじめ、やがて正式採用され、全日担当となる。
 まわりのレスラーは年上ばかり、最初はとけ込むことができなかった。
小佐野「そんな中で、フランクに接してくれたのが鶴田さんだったんですよ。鶴田さんと普通に笑ってしゃべってると、『ジャンボ、知ってるんだ』というような感じで、鶴田さんトップのレスラーですから、他の人ともしゃべりやすくなる。レスラーは特殊だというイメージがあるけれど、あの人は普通の人だったというところで入りやすかった。」
 しかし後に、鶴田に記者として泣かされることになろうとは。
 当時鶴田は日本人として初めてAWA世界ヘビー級チャンピオンに輝くなど、飛ぶ鳥を落とす勢い。そして新日本プロレスから殴り込みをかけてきた長州力を相手に無類の怪物ぶりを発揮。長州とのシングルマッチ、試合は60分戦って決着が付かず、試合後控え室で動けなくなった長州を尻目に、鶴田は腕立て伏せをはじめて見せたという。
小佐野「とにかくあの無尽蔵のスタミナですよ。どんなに相手にやられたって、顔見るときいてないような顔してる。とにかく対戦相手はいやがりますよ」
 それほどまでに強さを目の当たりにしながら、小佐野が鶴田について書いた記事は少ない。どういうことなのか。
小佐野「あの人は過激な発言や、リップサービスはしないんですよ。だから、元寇になると非常に地味なんですよ。吹いてるみたいなの嫌なんだ、リングで強ければいいでしょ、と、別にリップサービスは必要ないでしょという考え方だったのかなあ」
 猪木や長州は派手な挑発合戦を繰り広げ、雑誌や新聞をにぎわせようとも、鶴田はどこ吹く風。やがてそれにじれたファンやマスコミが『鶴田は本気を出していない』と批判を始めるようになる。しかし鶴田にも言い分があった。
小佐野「彼に言わせるとね、僕は本気に見えないのは相手が弱すぎるからじゃないの。じゃあ僕は相手を壊しちゃうよ。」
 そんな悩める鶴田に、ある日転機が訪れる。
 長州突然の全日本プロレス離脱。そして盟友天龍源一郎が鶴田打倒に名乗りを上げたのだ。
(天龍のインタビュー)
天龍「生半可なトップじゃ全日本プロレス自体が厳しい。そもそも僕は理解してましたから、彼がそのまま普通に試合をムキになってやってくれれば絶対負けることはないというのを確信していましたから、それを発揮して欲しいな、という気持ちは持ってました」
 ジャンボ鶴田をもっともよく知る天龍との戦いは、鶴田の中に眠っていた潜在能力を呼び起こした。そしてファンは技だけではない、互いの人生観をぶつけ合うプロレスに熱狂した。(鶴田VS天龍の試合の写真あれこれ)
 鶴田の本音を引き出すには、まず怒らせること。小佐野にはある秘策があった。
小佐野「怒らせる方法は、鶴田さんと敵対する、全く人生観の違う人間を褒める。(ニヤリ)これが一番ききましたね。天龍さんの豪快さとかそういうものがすごくクローズアップされた時期があって、『天龍さんがこう言ってます。こういうところが天龍さん支持されるんじゃないんですかね』と言うと、鶴田さんははじめは『フンフンフン』と聞いてる。(こめかみを指さして)だんだんピキピキピキとしてくる。人間性を語るときは、鶴田友美を語っているわけだから、そこを傷つけられるのは許せなかったんじゃなかったんですかね」
 記者として鶴田の魅力を引き出す手応えをようやく感じ始めた矢先、大事件が起こる。
 天龍がまさかの全日本プロレス離脱。そして小佐野も鶴田に着いていく形で全日担当を離れ、その後疎遠になってしまう。
 天龍が去った後、全日本プロレス・エースとしての自覚からさらにファイトに激しさを増していく鶴田。三沢を中心とした超世代軍との戦いはファンを大いに魅了した。しかし全日本の担当をはずれた小佐野は、それを指をくわえ眺めているしかなかった。
小佐野「いやあ、やっぱり取材したかったですよ、それは。自分の生きざまを出すようになったジャンボ鶴田がこれからまたどれだけのとてつもない怪物になるかというのを当然見たい。それに対する三沢たちがどう成長していくかというのも見たいじゃないですか」
 そんなある日、小佐野の元に届いた突然の知らせ。ジャンボ鶴田、B型肝炎のため引退。そして引退セレモニーを一目見ようと久々に足を運んだ会場で、小佐野は信じられない光景を目の当たりにする。  
小佐野「これは驚きでしたね。たぶんファンも驚いたと思います。ジャンボ鶴田、泣いた。ほんとうは、この体が動けば、俺はプロレスラーでいたかったんだよっていうことだったんじゃないかな。その答えが、最後にぽろっと涙という形で出た。我々マスコミも、ファンも見つけられなかったジャンボ鶴田の答えを、最後の瞬間に出してくれたんですよ。これを引退するまで見せなかったんですよ。これはすごいなと思いました」
 小佐野はすぐ編集部に戻り、引退記念増刊号の記事を執筆。
 売れないという周りの声を説得し、出版にこぎ着けた。
小佐野「僕にしてみれば、売れようが売れまいが、作りたいわけですよ。単純日本人に喜んで欲しい。家族にも喜んで欲しい。お子さんまだ小さかったですから、大人になったときに、うちのお父さん、こんなにすごい人だったんだ、と、家族のメモリーとしてもそういうものを作りたいと思っていたので」
 この増刊号は、小佐野にとって、鶴田を一時でもおいかけた記者としてのけじめでもあった。
 そして、アメリカの大学で学ぶため成田を発つその日、鶴田の手に、刷り上がったばかりの増刊号が。それを見た鶴田は、ただにっこりとほほえんだという。
 それから1年後、肝臓ガンにより、怪物ジャンボはこの世を去った。
 そして迎えた五度目の命日。(2005年5月13日)
 小佐野が鶴田のお墓を訪れるのは意外にもこれが初めてだという。(墓参の映像)
小佐野「実感がわいてない、というのはあるとおもうんですよね。お墓を見ちゃうとどうかなあっていう」
 プロレス記者としての人生を切り開いてくれた恩人。彼は何を語るのか。
小佐野「今の自分のキャリアがあれば、鶴田さんの本当の魅力を引き出せたし、皆さんに伝えられたな、という思いが今すごくあります」
 小佐野景浩、彼がペンを置くことはない。そこにプロレスがある限り。