ギガンテス急逝

 2003年12月6日。土曜日。
 寝る前に、日刊スポーツサイトを見ていて目を疑った。
 ギガンテスが急死した! そんなばかな。見には行かなかったが、前日の武道館で試合をしているのに。
 翌日、各紙で報道されたが、事件性はなく、死因は急性心不全ということだった。
 武藤全日本の発掘した大型外人レスラーとして、これからの活躍が期待されていたのに。
 ギガンテスを初めて見たのは、2月8日、エキサイトシリーズ初日の後楽園ホールだった。
 身長2メートル、体重150キロの姿を現すと、場内から「でかい」という声が飛んだ。
 試合は6人タッグで、武藤・渕と組んだジミー・ヤンをギガンテスがチョークスラムでたたきつけて3カウントを奪っている。
 まだまだ荒削りだったが、十分な存在感を持った選手だった。
 スタン・ハンセンにあこがれていたらしく、9月からはハンセンを意識したコスチュームで登場するようになった。
 最後に見たのは、11月22日の、世界最強タッグ決定リーグ戦初日の後楽園ホール。
 セレモニーの時に、小島に突っかかり、威勢のいい所を見せていた。
 試合は、「全日本vsRO&D 4対4対抗戦 8人タッグマッチ」で、出番は少なかった。
 元気だったレスラーがあっけなくこの世を去ってしまうという現実に打ちのめされてしまう。
 まだ36歳だったそうだ。ゲーリー・オブライトも36歳でこの世を去った。
 ただただ冥福を祈るしかない。

 ギガンテス(本名マイケル・トゥーティ)さん。アメリカのWCWではサージャント・A・ウォールのリングネームで活躍し、今年2月に全日本エキサイトシリーズに初来日。
 12月6日、成田のホテルで急性心不全のため死去。36歳。

(2003.12.14)


ゲーリー・オブライト急逝

 1999年1月9日深夜。
 今年最初の、日本テレビの「全日本プロレス中継」が始まった。
 オープニングでその日の放送カードなどが流れる中、スティーブ・ウィリアムスが、黒い額に納められたゲーリー・オブライトの写真持って立っている映像があった。
 何だこりゃ、何かあったのか、と思って寝そべっていた体を起こすと、平川アナウンサーと百田光雄の沈んだ顔が映し出された。
 ゲーリー・オブライト急死……試合中、心臓発作を起こし、亡くなっていたのだ。まだ36歳だった。
 垣原や高山など、Uインター時代から付き合いのある選手のコメントが流れる。高山もさすがに神妙だ。
 Uインター時代、ゲーリーは強豪外人レスラーだった。高田をジャーマン・スープレックスで投げた時、高田の頭がロープに当たり、再起が危ぶまれるほどのダメージを受けたことがあった。恐るべき破壊力を持ったスープレックスの持ち主。
 彼が全日本プロレスに参戦するという話を知った時には興奮した。
 参戦後、初のシングルマッチの相手は川田だった。あの時の興奮を、全日本プロレスのファンは忘れないだろう。
 しかし、それまでのスタイルでは通用しににくなり、だんだん普通のレスラーになっていった。強いことは強いが、全日本プロレスという底なし沼の中でもがいているようだった。
 最後の試合は昨年12月、武道館での井上雅央戦。井上雅央とのシングルというところに、ゲーリーのポジションが現れている。もちろん、やっとアジア・タッグのベルトを巻いた雅央に、格上のゲーリーが胸を貸す、という試合で、雅央はがんばったものの敗れ、ゲーリーの壁は厚いぞ、というのを見せる試合ではあった。
 それにしても、私の記憶に残るだけで、ブルーザー・ブロディ、アンドレ・ザ・ジャイアント、そしてゲーリーと、定期的に、現役の外人レスラーの急死があるのはなぜだろう。それぞれ死因は異なるが。
 最後に、記録のため、「週刊ゴング」2000.1.27号から、関係記事の一部を引用しておく。
 冥福を祈る。

 ゲーリー・オブライトが7日午後9時30分(現地時間)、米国ペンシルバニア州ヘイゼルトンでの試合中に心臓発作のため死亡した。享年36歳。
 オブライトは養父アファ・ザ・サモアンの主催するインディペンデント団体WXWの大会に出場。対戦相手のコリー・ステューデントにジャーマンを仕掛けようとしたところ、逆にスタナーを浴び、直後に動かなくなったという。3カウント後、リング上で心臓マッサージなどが試みられたが呼吸は戻らず、死亡が確認された。

(付記:「ゴング」の記事中「養父アファ・サモアン」とあるのは正確ではなく、奥さんの父親、即ち義父)

(2000.1.16)