スタン・ハンセン引退

 「ブレーキの壊れたダンプカー」こと“不沈鑑”スタン・ハンセンが引退した。
 子どもの頃は、外人レスラーというのはたいてい悪い奴で、日本人レスラーがたたきのめすべき相手だった。
 その図式が崩れたのは、ザ・デストロイヤーが日本陣営に入り、馬場さんの補佐にまわった時だから、随分昔だ。
 しかし、その後も「日本人」対「外人」という図式は続いた。したがって、外人レスラーが強ければ強いほど、日本人レスラーが輝く、ということになっていた。
 スタン・ハンセンも、強豪外人レスラーとして名を馳せ、ハンセンと戦うことで、日本人レスラーは名をあげた。
 しかし、いつの間にか、ハンセンは、日本人の敵ではなく、声援を送られるレスラーになっていた。
 天龍とも組んだが、天龍離脱後、馬場さんとタッグを組んで「最強タッグリーグ」に出場した時には、相手の三沢がカットにはいるとブーイングが起こるほど、ファンの支持を得ていた。
 ハンセンはいい奴だ。愛すべきレスラーだ。全日本プロレスのファンはそう思っていたはずだ。
 テレビで見るだけだったとき、いつか会場で一緒にロング・ホーンをやりたいな、と思っていた。そして、それができたときにはうれしかった。
 99年に、川田が故障で休んでいたときに、田上と組んで最強タッグリーグに出場していた。すっかり助っ人だ。
 決勝戦で敗れ、「田上は川田と組んでいたら優勝できた。ゴメンナサイ」と気弱なことを言っていたのが印象に残っている。
 思えば、あの頃から膝は悪かったのだろう。ダッシュのしかたが不安定だった。
 ハンセンで最も印象に残っているのは、2000年7月23日の武道館大会での笑顔だ。
 大量離脱後、川田、渕、モスマンの3人しか選手のいない状況の中、出場予定のなかったハンセンが、急遽駆けつけたのだ。
 そして、試合開始前、外の売店テントの横に特設コーナーを設け、握手会を開いていた。
 私はその前を通っただけだが、ハンセンが、笑顔で次々に握手に応じているのが見えた。
 全日本プロレスのために頑張ってくれたのだ。
 ハンセンの半生記『魂のラリアット』は、実に読み応えのある本だった。
 プロレスについて語っているのではあるが、ハンセンをアメリカ人の代表と考えれば、「アメリカ人というのはこういう考え方をするのか」という発見の連続だった。
 ビジネスへの割り切った思考、あるプロモーターについては、尊敬も感謝もしていないという率直な言葉。馬場さんへの信頼。全日本プロレスへの思い。
 20001年1月28日の引退式では終始笑顔だった。
 引退式の後に行われた、太陽ケアと武藤敬司の試合に、ケアのセコンドとして現れたのには驚いた。
 日本人レスラーの味方として、全日本プロレスを引っ張る外人レスラーの地位をケアに手渡したのだ。
 テレビで見たら、セコンドについたハンセンは、穏やかな表情で椅子に座っていた。
 ハンセンは、もう、やれることはすべてやり尽くしたのだ。
 スタン・ハンセン、ありがとう、さようなら!

 Stan Hansen。
 1949年8月29日。テキサス州生まれ。
 2001年1月28日引退。

(2000.2.16)