馬場さんのこと

1999.4.18

 昨日、日本武道館へ、ジャイアント馬場さんとのお別れの会のために行ってきた。
 着いたのは2時半頃。記帳は、カードに住所と名前を書いて渡すだけですぐ済んだが、それから武道館の中にはいるまでには、公園の中にうねうねと続いていた人の列に並んで40分。建物に入ってから、式場のリングまで20分。若い人が多かった。子供連れの人もいた。
 花はどうしようかと思っていたが、九段下の駅から武道館までの間に露店が出ているのではないかと思っていたら、そんなものはなかった。もしあったとしても、あれだけの人が訪れたのだから、あっという間に売り切れだったろう。
 馬場さんのパネルがリングの上に飾られ、リングには、献花が投げ入れられ、山になっていた。
 私は、花を用意していかず、近くで買って済ませようとした自分を恥じた。

 驚いたのは、リングの所から出口のところまで、両側に全日本プロレスの全選手が並んでいたことだ。
 場内整理の人だと思っていたので最初は気づかなかった。驚いて振り返ると、先頭には元子夫人、そしてその後ろに三沢が立っていた。田上や小橋も間近に見たわけだが、プロレスラーを見ることができた、という喜びを感じることはなかった。喜びがあったとすれば、それはプロレスラーと同じ悲しみを共有できたことだ。
 フリーの高山や垣原、みちプロの新崎人生もいた。最後尾には和田京平レフェリーもいた。
 プロレスラーはまだしも、元子夫人もああやって何時間も立っていたのだろうか。
 出口では、馬場さんが最後に描いた絵を絵はがきにしたものをいただいた。
 こんなことは書くべきではないかもしれないが、このセレモニーが、全日本プロレスにとって負担にならなければいいが、と思う。
 一日武道館を借り切り、場内整理のために多くの人を雇い、参会者全員に絵葉書を配る、というのは大きな出費であるはずだ。
 しかし、どんなに負担になろうとも、ファンのためにセレモニーを実施しようというのが、全日本プロレス社員の気持ちだったのだろう。


1999.2.10

 馬場さんが亡くなって一週間以上過ぎた。
 だいぶ考えがまとまってきたので、少し、馬場さんのことを書いておきたい。

 2月1日の月曜日、帰宅して夕刊を読みながらビールを飲んでいると、突然妻が、「ジャイアント馬場が死んだんだよ」と言う。何を言っているのかと思ったら、「ほんとだよ、ドッキリじゃないよ」と言う。
 そんなはずはない。確かに腸閉塞で手術したが、それほどの大手術ではなかったはずだ。感染症にでもなったのか、と思いながら、日本テレビのスポーツMAXを録画すべくビデオのタイマーを予約し、テレビの前で待つ。
 番組が始まると、冒頭が馬場さんの死亡ニュースだった。
 そうだったのか。癌だったのか。しかし、去年の12月5日に試合をした人が、2か月もしないうちに亡くなってしまうとは。闘病期間が短かったのがせめてもの救いか。

 初めて後楽園ホールへプロレスを見に行った時、入り口を入ってすぐのところの売店で、心臓がどきりとして立ち止まってしまったのを覚えている。
 売店のテーブルの向こう、手を伸ばせば触れそうなところに馬場さんが座っていた。
「これが生きていて動くのか」
 正直なところ、そう思った。大きい。何もかもがとにかく大きいのだ。

 試合では、予想通りの動きを見せてくれた。決して速くはないし、華麗でもない。でも面白い。安心して見ていられる。ファンにとっては馬場さんがプロレスをして見せてくれている、ということが重要なのだ、ということがよくわかった。
 馬場さんのレベルに達してしまえば、強いかどうか、ということは問題ではない。馬場さんだ、ということが大切なのだ。
 ファンの声援に手を挙げて応える、それだけで場内は大喜びだった。

 去年の暮れから、全日本プロレスは、急速に三沢体制に移行してきた。なぜこんなに急に現場のトップが代わるのか、と不思議に思っていたので、馬場さんが亡くなったのを知った時、「三沢は知っていたのではないか」と思った。
 三沢だけは馬場さんが長くないことを知って、危機感から新しい方向を模索してあれこれ手を打とうとしていたのではないか、そう思ったのだ。
 別に、三沢に対抗する勢力があるわけではないし、三沢が現場のトップになることに異議を申し立てる人間はいないだろう。それだけに強い責任を感じていたのではないか。そう思った。
 そうやってあれこれ抱え込みながら川田との三冠戦を戦ったのかと思っていたが、そうではなかったようだ。

 全日本プロレスは、これからは百田、三沢、鶴田の三人体制で動いていくという話だが、おそらく、百田は実務面、鶴田は外部から見た目でのアドバイス、ということになっていくだろう。試合に関しては三沢が取り仕切っていくしかない。
 全日本プロレスといえども安泰ではないことは、選手はよく分かっている。特に馬場さん亡き今、「誰でも知っているプロレス選手」はいないのだ。これから三沢は、ビル・ゲイツのように「今の位置にとどまるために全力で走り続ける」状態になる。

 馬場さんが亡くなって追悼番組もいろいろあったが、残念なのは、日本テレビで若林アナを使わないことだ。ラジオ・ニッポンから復帰してきているのに。若林アナなら思い出話はたくさんあるだろう。
 もっとも、全日本プロレス中継の追悼番組など、金子アナだからできたのであって、若林アナでは泣いてしまってとても進行できなかったかもしれない。

 死後、美化されるのはよくある話だが、馬場さんはすっかり温厚で怒ったりしない人にされてしまった。
 7日の毎日新聞の「悼」という記事でも、馬場さんが若手をほめることだけを考えていたかのように書かれているが、そんなことはないだろう。
 追悼番組で、田上は「自分は叱られてばかりだった」と思い出を語っていたし、雑誌でもそうコメントしている。若林アナが実況を担当していた頃、解説していた馬場さんは、若林アナが選手をほめても、「そうでもないですよ」と素っ気なくいうことがあって面白かったのを覚えている。結構厳しい人だったのだ。
 泉田も、「今のままではダメになる」と言われ続けていたわけだし、馬場さんは、「ほめることが大切だ」ということを一般的な理念としていっているのであって、自分が常にそうしているとは言わなかったろう。
 また、馬場さんは温厚な人ではあったろうが、人一倍恨みを忘れない人でもあった。
 中学生の時に教師に殴られたことを、繰り返し語っていることでも分かる。
 プロレスにおいても、砂をかけて出ていったようなレスラーは決して許さなかった。おそらく、後20年くらい現役でいても、決して天龍を全日のマットにあげることだけはしなかったろう。
 退社としては円満退社(引退)だった大仁田を、レスラーとしては決して受け入れない、という点にもその厳しい人柄が現れている。その一方で、冬木のグループ構成員だった外道と邪道をリングにあげたという点には、馬場さんの度量の広さが現れている。

 全日本プロレスのファンはこれからどうなるのか。それは分からない。永源や木村が、これで気落ちして引退するようなことにならなければいいが。
 田上ファンとして、やはり田上には奮起してもらいたい。今だって精一杯奮起しているのだろうが、まだまだ次のレベルに行くことができるような気がしてならないのだ。
 田上の天然ぶりからすれば、第二の馬場さん、とまではいかなくても、馬場さんの八分の五くらいの知名度は得られるかもしれない。

 心から馬場さんのご冥福を祈ります。

 ジャイアント馬場……馬場正平。1938年1月23日生まれ。1999年1月31日死去。