裏から回って婆さんに聞くと、婆さんが小さな声で、与次郎さんは昨日から御帰りなさらないという。三四郎は勝手口に立って考えた。婆さんは気を利かして、まあ御這入りなさい。 先生は書斎に御出ですからといいながら、手を休めずに、膳椀を洗っている。今晩食が済んだばかりの所らしい。
三四郎は茶の間を通り抜けて、廊下伝いに書斎の入口まで来た。戸が開いている。中から「おい」と人を呼ぶ声がする。三四郎は敷居のうちへ這入った。先生は机に向かっている。机の上には何があるか分からない。高い脊が研究を隠している。三四郎は入口に近く坐って、
「御勉強ですか」と丁寧に聞いた。先生は顔を後へ捩じ向けた。髭の影が不明瞭にもじゃもじゃしている。写真版で見た誰かの肖像に似ている。