健さんの気まぐれ日記

ここでは、当寺副住職が生活の中で「ふと」感じたことを書き記してみたいと思います。

りき 柴犬 1991年11月10日生まれ オス
2006年4月3日(月)
諸行無常 是生滅法
 身近なものの死に直面すると、改めて人生を考えさせられるものなんだな〜って今、しみじみと感じているところです。

 今年2月26日に我が家の愛犬「りき」が、14年あまりの命を閉じました。穏やかな顔をして横たわったその姿を見た瞬間からやりきれない悲しみが込み上げてきて、大人気なくも大泣きをしたばかりです。最後の半年、それは壮絶でした。ひと月過ぎた今でも、その光景を思い出すと「くる」ものがあります。犬は人間の7倍の速さで老いるといいますが、人間でいえば100歳を越えたところだったのでしょうか。そう考えると「りき爺さんは長生きしたんだな〜大往生だな〜」と幸せに思えます。

 ですが反面、私はこの人間の尺に合わせるかのような考え方(ドッグイヤー)はどうかとも思います。諸行無常…時は始まりや終わりがなく、また止まることがありません。生命あるものは皆、この同じ時の流れの中に生きています。私達は自分の年齢を「犬でいえば」って考える人が、はたしてどれだけいるでしょうか?人間の持つ勝手な一面を象徴しているように思えます。

 愛する「家族」を亡くし、感情的になっているのが自分でもわかります。ですが、いつまでも悲しんでばかりはいられません。ふと一息つくと、人間をどうこう言っている自分も勝手なのがわかります。私は亡き「りき」に生きることの尊さを教えられ、改めて生かされていることに気付きました。

 好むと好まざるにかかわらず、この世の生けるものはいずれ必ず死ななければなりません。是生滅法…それは自然の理であり、誰しもが理解していることだと思います。しかしながら、それはまだ先のこと、おおよそ他人事のように考えている方は少なくないと思います。生死は平等に与えられていますが、生きる時間はそれぞれです。悲しむ側から悲しまれる立場になるのは今日や明日かもしれません。人生の長短にかかわらず、今をどう生きるのか、考えることは大事だと思います。

 「家族みんな、健康で仲良く暮らしてね…」彼はそう言って旅立った気がします。亡き「りき」に心配をかけない為にも、親から授かったこの命をできるだけ長く、子供にバトンタッチできるその時まで、がんばって生きなきゃな〜って心からそう思います。いつまでもめそめそしていると「りき」に心配をかけるどころか、怒られそうです。
2005年8月25日(木)
幽霊っているの?
 例年この時期になると、幽霊や心霊現象等に関する番組を必ず一度は目にします。また、時期を同じくして「幽霊っているの?見えるの?」という質問も何故か増えます。その問いに私は、「幽霊はいないけど、見える人には見えるだろうね。」と答えています。大抵首を傾げられますが、それも当たり前かな?と感じるわけです。テレビの影響力ってすごいと思います。

 世間では一般的に、死者の霊魂がこの世に姿を現したものを「幽霊」といっておるようですが、仏教ではこれを認めていません。仏教は我の常在を否定する「無我」を説いていますから、霊魂は存在しないものなのです。だから、生前のような姿形が出てくるなどということは決して有りえないのです。ですが、実際に見えている方々がおられます。あそこにいる、ここにいると説明していますよね?果して茶の間に、それに対して同調できる方がどれだけいますか?ただ一方的に恐怖心を植え付けられているだけだと思います。

 一人の僧として申しますが、幽霊は存在するとしている方々はきっと、己の心が生み出した恐怖に対する幻覚や錯覚を、ただ見ているだけだと思います。逆に「いるわけない。」と否定する方々は、恐怖心がない故に、絶対に見えないでしょう。私が、「幽霊はいないけど、見える人には見えるだろうね。」と答えているわけがそこにあります。見える人には、たとえそれが幻覚や錯覚であっても、見えていることに違いないのですから…ただ、幽霊はいないのです。
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