筒井和泉守政憲           玄関へ戻る

 字(あざな)は子恒、通称右馬助(うあまのすけ)。官名は伊賀守、紀伊守、和泉守、肥前守とたびたび変わった。
 旗本久世広景の次男として生まれ、21歳の時に旗本筒井正盈の養子となる。若年の頃は柴野栗山に学び、昌平坂学問所で頭角をあらわした。
 長崎奉行を勤めた後、文政4年
(1821)正月29日から天保12年(1841)4月28日までの21年という長期にわたって南町奉行を勤めた。
 この間、近藤重蔵.富蔵殺傷の一件、仙石騒動の審理、天保の飢饉対策などの民政に関わり、名奉行と称された。
 五郎左衛門の与力として出仕していた40年間のうち半分以上は筒井に仕えていたことになる。 特に最後の数年間は年番方、いわばNO.2として筒井を支えた。
 天保12年(1841)4月28日に罷免され西ノ丸留守居へ転じ、
次の南町奉行)矢部定謙に差控の処分を受けるなど、幕府天保の改革期には冷遇されたが、幕末の混乱期には外国奉行などとして活躍した。

筒井伊賀守 年表
   
   筒井の墓(常円寺 東京都新宿区)
安永 7(1778) 久世三四郎の次男として生まれる。右馬助
寛政10(1798) 筒井家の養子
文化 7(1810) 二の丸留守居
文化 9(1810) 西の丸徒頭
文化10(1813) 西の丸目付
文化12(1815) 目付
文化14(1817) 長崎奉行
文政 4(1821) 南町奉行 任
天保 7(1836) 飢饉にあたり市民救済
天保12(1841) 南町奉行免、西の丸留守居
弘化 2(1845) 学問所御用
弘化 4(1847) 西の丸留守居
安政 6(1859) 死亡(82歳)

 筒井は文政4年(1821)正月29日から天保12年(1841)4月28日までの21年という長期にわたって南町奉行を勤めた。
 この間、近藤重蔵.富蔵殺傷の一件、仙石騒動の審理、天保の飢饉対策などの民政に関わり、名奉行と称された。
 五郎左衛門の与力として出仕していた40年間のうち半分以上は筒井に仕えていたことになる。 特に最後の数年間は年番方、いわばNO.2として筒井を支えた。
 天保12年(1841)4月28日に罷免され西ノ丸留守居へ転じ、
次の南町奉行)矢部定謙に差控の処分を受けるなど、幕府天保の改革期には冷遇されたが、幕末の混乱期には外国奉行などとして活躍した。

 筒井は安永7年(1778)旗本久世三四郎広景の次男として江戸に生まれ、初名を右馬助・子恒・.右次右衛門という。寛政10年(1798)旗本筒井正盈の養子となり、その娘を妻とした。 筒井家は、戦国時代の大和一国の武将筒井順慶の家系である。昌平坂学問所に学び頭角を現わし、文化7年(1810)ニノ丸留守居となるとともに学問所御用を兼帯、9月西ノ丸徒頭、同10年西ノ丸目付、同12年目付、同14年長崎奉行となり、冒頭の通り町奉行となっている。

 水野忠邦の「天保の改革」は僅か2年で挫折し、土井利位が老中首座をつとめたあと、再び老中首座に返り咲いた忠邦は8カ月で再辞職し、弘化2年2月阿部正弘が老中首座となった。折しも対外危機が迫っており、外交問題はとりもなおさず内政問題で、対外交渉において国内世論不一致があれば、外圧よりまず内政から敗れることを知っていた正弘は親藩中心に外様雄藩の開明的有力大名を配し、幕臣のうちから優秀な新官僚を続々と登用した。その一人が筒井政憲である。政憲は、阿部正弘の信任をうけて頻繁に外交策の諮問をうけ、外国船打払の復活などの強硬策に一貫して反対し続けた。
 弘化2年(1845)学問所御用、同四年西の丸留守居となり海防政策の立案に参画した。ロシア使節プチャーチンが長崎に来ると嘉永6年(1853)に大目付格のロシア使節応接掛として、
,川路聖謀とともに長崎に赴いて交渉し、また翌安政元年(1854)下田に再来航したプチヤーチンと交渉し、日露国境の確定と下田・箱館・長崎三港の開港を骨子とした日露和親条約の締結にこぎつけた。安政2年講武所御用、同四年槍奉行となり、高齢をおして海外・外国人応接・軍政改革・蕃書調所御用に奔走した。なおこの問に、嘉永元年に「武蔵国風上記之内御府内之部」、同3年に「御鹿狩之事類」を編集し、同5年には将軍に「論語」の講釈を行うなど、儒者としての能力も示している。

 安政6年(1859)6月8日、82歳で没し日蓮宗常圓寺(新宿区西新宿7―12−5.)に葬られた。 法名は政憲院殿仁徳誠功日学大居士。