三島近郊の村々       玄関へ戻る

   
 三島近郊には伊豆島田村、幸原村、下土狩村、伏見村など仁杉家のゆかりの地が多い。
 これらの村々は下の地図でわかるように非常に近いところにある。
 当時の行動範囲がうかがえる。

伊豆島田村
(現裾野市伊豆島田)
      

 平松新田、二つ屋新田の南にあり、南は上土狩村(現長泉町)、東は伊豆との国境で君沢郡伊豆佐野村(現三島市)に接する。古くは伊豆國に属していたためこの名がある。

 南北に御殿場街道(あるいは甲州往還)が通る。
 嘉永9年1632)の徳川忠長改易後は相模小田原領、宝永5年(1708)幕府領に転じ、享保元年(1716)小田原領に復したが、安永7年(1776)沼津藩領に転じ、同藩領で明治維新を迎えた。(柏木文書、大庭家文書)
 寛永改高附帳では田高167石余、畑高49石余。
 元禄郷帳では高272石余。ただしこの高には近世初期に当村から分かれた二つ屋新田の高の一部が含まれている。
 天明高帳では高307石余。
 字堰原に御殿場通の十分の一役所が置かれた。これは山方の村から三島、沼津へ竹、薪などを輸送・販売する際、十分の一の税を徴収するもので、建物は長さ5間、横2間であった。(延亨2年、岩波村明細帳 大庭家文書)

明治期伊豆島田村地図
 
   (仁杉秀夫氏提供)

 明治21年の地図と思われる。71番地に「仁杉平吉」の名が見える。

 地図上の東西の道(実際には南北の道)は御殿場から沼津に通じる御殿場街道、あるいは甲州往還とも呼ばれた現在の県道394号沼津小山線

伏見村(現駿東郡清水町伏見)

 新宿村の南西、黄瀬川の東岸に位置する。東海道が東北から南西に通り、南西は八幡村。集落は古くは元伏見にあったが、東海道箱根路(三島路)の付け替え、整備が進められたため、慶長7年(1602)に往還に沿った現在地に移ったという。
 村内には鯛を江戸に送る鯛荷宿や朝鮮通信使の通詞宿があり、三島宿の補完的な役割を担っていた。(小野家文書など)。
 文明12年(1480)6月、太田道灌が上洛の途上、当地に立ち寄り、「夜をこめたおきにけらしな呉竹のなひくふしみのけさの白露」という歌を詠んでいる。(平安紀行)
 元亀3年(1572)6月6日、北条氏は泉郷に堤を築くため、当村および竹原、土狩の百姓中に同郷の芝切を命じている。(北条家朱印状 杉本文書)
 慶長14年には幕府領で、沼津代官の検地を受け、寛永8年(1631)の年貢割付状(高橋家文書)の発給者は徳川忠長家臣団で沼津城代篠原小右衛門であったことが確認できる。
 忠長の改易後は再び幕府領を経て元文年間(1736−41)旗本酒井氏、山岡氏の相給となり、幕末まで継続された。(小野家文書など)
 寛永高帳では田高424石余、畑高163石余。 ほかに千貫樋領高23石。
 元禄郷高では高700石、用水は深良用水(箱根用水)懸かりが高297石、千貫樋懸かりが高261石余であった。
 慶応4年、新しく作られた駿府藩(後に静岡藩)領になり、静岡縣に所属、明治22年の町村制施行により、13か村が合併して清水村が発足、昭和38年(1963に町制施行で清水町となった。


幸原村(現三島市幸原町 )    

 伊豆国君沢郡に属する。
 富士溶岩流の末端に近い台地上に位置し、南は三島宿、西は駿河国駿東郡中土狩村(現長泉町)。北の徳倉(とくら)村とはもともと一村だったという。同村との境を箱根山西麓の山中を源流とする狩野川の支流大場川が流れる。 境川とも呼ばれ上流地域では駿河国と伊豆国を分つ国境の河川だった。

 幸原は「国府原」とも記された。(明暦4年、「棟札銘」耳石神社蔵)。
 慶長9年(1604)10月18日の井出正次郎神領打渡手形(矢田部文書)に「幸原之村」とみえ、101石余が三嶋明神(三嶋大社)領であった。
 はじめ幕府領、天明年間は幕府・旗本島田家、牛込家の相給。以後相模荻野山中藩、旗本酒井・島田・牛込3家の相給となる。村高は、伊豆国拾四紺村高覚帳で寛永年間90石余、「元禄郷帳」、「天保郷帳」と95石余、「旧高旧領」115石余。
 用水は境川を利用、享保11年から東海道三島宿へ出役。畑作中心で田は極小であった。 
 神社は見目神社、耳石明神、寺院はは日蓮宗遠成寺がある。

 明治元年韮山県、同4年に足柄県、同9年静岡県に所属。同21年の田額115石、反別25町余(田1町余、畑17町余,宅地2町余、山林4町余,原野2反余) (増訂伊豆志稿〕。
 明治22
北上村の大字となり、昭和10年三島町、同16年からは三島市の大字となった。明治24年の戸数35、人口207、厩18とある。昭和5年の伊豆地震では世帯数71のうち17世帯が被災した。昭和48年新住居表示で幸原町1丁目、2丁目となる。

下土狩村(現長泉町下土狩)  
 古くは土狩郷と呼ばれた地域。現長泉町南東部、黄瀬川東岸に位置しだ中世の郷。
土加利などとも書き、現在の上上狩・中上狩・下上狩が遺称地であるが、当郷が上・中・下の上狩三カ村に分れだのは江戸時代のことで、国衛領の経営拠点である郷政所は現中上狩に位置しだ。
 建武元年(1334)2月9日、足利尊氏によって「土加利郷内」の田3町、畠1町が伊豆三嶋杜(三嶋大社)に寄進されている。(「足利尊氏寄進状」、三嶋大杜文書、以下断りのない限り同文書)。
 この土地は同年10月17日、駿河国分郡守護代石塔義房の打渡状によって交付されている。その後、同所に対する違乱があっだとみられ、三嶋社務盛親後家代頼円の訴えに基づき、暦応4年(1341)12月15日には公行遵行状か「上加利郷政所」宛に出され、観応2年(1351)11月16日の頼賢打渡状、康安2年(1362)6月5日妙香打渡状によって三嶋社に打渡されている。
 嘉吉3年(1443)4月24日には郷内に地蔵菩薩像が造立されている。
 永禄21年(1569)閨5月4日、北条氏政が子息国王(氏直)の今川家継承に際して、三嶋社に「土狩郷之内」の社領を安堵している(北条氏政刊物)。
 翌22年4月10日になると北条氏は、渡辺氏と所氏の知行分を整理して、上狩における知行を所氏に認めている(「北条家宋印状写」判物証文書)。
 元亀3年(1572)6月6日、北条氏は泉郷(現清水町)に堤を築くだめ、「伏見、竹原、土狩」の百姓に同郷の芝切りを命じている(「北条家宋印状」杉本文書)。
またこの頃植松氏は土狩で.37貫文地を有していたが、天正3年(1575)には「土狩御蔵米」を借用していることから、当地が北条氏蔵入地になっていたことが知られる。

 下土狩村は竹原村の北、黄瀬川の左岸に位置し、北は中土狩村。寛永4年(1627)枝郷の与惣兵衛新田が成立している。
 寛永改高附帳では田高654石余、畑高161石余。
 慶安元年(1648)の検地帳(下土狩区有文書)では相模小田原藩領で、反別は田51町余、畑屋敷40反余。 その後宝永5年81808)幕府領となる。
 享保2年(1717)小田原藩領に復し、安永6年(1777)以降は幕末まで沼津藩領であっだ(下土狩村枝郷与惣兵衛村明細帳、長泉町史「日記要録」など)。
 元禄郷帳では下土狩村高841石余と同枝郷与惣兵衛村高28石余の二筆となっている。
 前掲安永6年の下上狩村枝郷与惣兵衛村明細帳によれぱ高940石余、反別は田59町8反余、畑屋敷41町3反余で、与惣兵衛新田は高28石余、家数134、人数583で、年貢米は三島宿か沼津宿で払米としたが、江戸へ回送する際は村内の御蔵へいっだん納め、沼津宿の三枚橋町に運び、河岸から港口まで狩野川を下して廻船に積み込人だ。
 近隣15ヵ村組合共有の御蔵4軒があり、ほかに米納の際に領主が出向する陣屋と呼ばれた建物が1軒あった。
 用水は深良(ふから)用水の井組に属し、黄瀬川の大堰下の久保田川用水を通じて取入れ、採草地は箱根山、愛鷹山、大野原の入会地を利用している。
 元禄7年(1694)から三島宿の定助郷を勤めているが、そのほかにも愛鷹牧の捕馬に際しては勢子人足を供出することとなっていた(文政3年「愛鷹牧場勢子人足割並各村高帳」長泉町史)。
 前掲明細帳にれば、村内には静体寺(現浄土真宗木願寺派)、日蓮宗本向成寺、禅宗泉成寺(相模早川海蔵寺末寺)などがあっだが、泉成寺は現存しない。