与力仁杉家は9代目幸信(五郎左衛門)の時に断絶となるが、初代から9代までの当主は10人いる。 これは5代目幸次と6代目幸光の間に代数に数えられない「当代勤」の勝安が仁杉家当主となり、与力職も相続しているからである。
5代目幸次は病気のため与力を隠退したが子供が幼少だったため、弟勝安に一時与力職を預けた。そして間もなく病没してしまった。あの赤穂義士討ち入りの翌年、元禄16年(1703)のことである。
この幸次、勝安、幸光について「本朝」には次のように記述がある。
幸次 |
仁杉八右衛門 与兵衛
母 安井源兵衛女
貞享四年丁卯九為父■町司北條安房守組寄力元禄十四年十二月改与兵衛同十六年六十四死年 号善入院殿一空元超居士善入院殿一空元超居士
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勝安 |
仁杉次郎右衛門 五郎兵衛
母 同
元禄十六年発未兄幸次男孫太郎幼年故同年七月令勝安為番代為町司大岡越前守組与力改五郎兵衛享保五年庚子十月看地退勤同七年壬寅二十七死年 葬喜運寺 |
幸光 |
仁杉孫太郎 清右衛門 幸右衛門
母 松平右京大夫輝貞臣 師岡遐蔵則長女
元禄十六年父幸次死時幸光幼故叔父五郎兵衛為看地番代後成長正徳二年巳辰為与力見習享保二年丁酉牧野壱岐守■役大岡越前守組同年十月勝安致仕幸光為本勤同十九年二月為同心支配料三十石寛延二年十八死五十八葬同寺号光源院普覚円照居士 |
これによれば幸次は元禄16年(1703)、病弱のため与力職を引退したが、幸次の子孫太郎が幼少(わずか6,7才と推定)のため、孫太郎成長後に返還する約束で与力職を弟勝安に相続させた。 そしてその年の12月、64歳で病没する。
成長した孫太郎は正徳2年(1712)、与力見習となり、享保2年(1717)勝安に代わって本勤の与力となり、同19年(1734)には最高ポストである同心支配役に昇進している。
仁杉家の過去帳でも幸次を5代目、幸勝を当代勤、幸光を6代目としており、この系譜でも過去帳でも勝安は兄との約束どうり約10年前に預かった家督と与力職を幸次直系の幸光に返還している。
しかし、仁杉圓一郎はこれが「でっちあげ」で家督争いがあったという。
氏によれば幸次には男2人、女4人の子があったが、「幼少のため」一時弟の勝安に家督と与力職を預け、「領地であった」駿東郡に移住し、時節を待った。 しかし家督、与力職が返還されることなく、母子は駿東郡に定住せざるを得ず、長子は伊豆島田の「仁杉本家」の祖となり、現在の石巻の仁杉家に受け継がれているという。
また氏の説では現在三島市議をつとめる仁杉秀夫氏の家系(下土狩の仁杉家)も幸次の男の子の弟の方の子孫だという。
しかし、この説には疑問が多い。
仁杉家過去帳にある幸次の妻は元文5年(1740)9月10日没、法号「長壽院」となっている。何故か幸次や幸光が葬られている喜運寺でなく深川淨心寺に葬られている。
また、幸光の母は松平右京大夫輝貞臣 師岡遐蔵則長女とされている。
それでは駿河に移住した妻子とはどういう関係になるか?
まず、駿河に移住した幸次の妻とされる人は正徳5年(1715)に駿河で没しており、号は「妙快禅定尼」。 前述の人とは明らかに異なる。
また裾野仁杉家の初代源兵衛は享保10年(1725)に51歳で亡くなっているので逆算すると生年は延宝3年(1675)頃、幸次の与力引退の元禄16年(1703)には28歳か29歳になっており、「幼いため相続できない」年齢ではない。
また、与力を相続する子弟は13歳くらいから与力見習となり、それ以前も幼い頃からそれなりの教育を受ける。 相続予定者が遠く駿河国に移住するはずがない。
更に町方与力の仁杉家は禄高200石でとても駿東郡全体を領有するような大身ではない。
もし、裾野仁杉家の祖となる源兵衛が本当に幸次の子とすると、幸次には次のように2人の妻がいたことになる。 前妻と後妻ということか。
妙快禅定尼 |
正徳5年(1715)没 |
駿東郡に葬られる |
長壽院
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元文5年(1740)9月10日没 |
なぜか仁杉家菩提寺でない深川淨心寺に葬られる。幸光の母(師岡遐蔵則長女)と同一人かどうか不明。 |
推測になるが駿東郡に移住した妻(妙快禅定尼)は幸次との間に2男4女をもうけたが、何らかの理由で別れ、妻子は駿東郡に移住した。その後、師岡遐蔵則の娘と結婚し、孫太郎(後の幸光)が生まれた。
元禄16年、病弱で与力職だ続けられなくなったとき、男の子(後の幸光)が幼少だったので勝安に与力職を預けた。
このほかに次の二人の女の子が早世しているが、時代から見て「露葉童女」は前妻の娘と思われる。
露葉童女 |
早世 |
延宝5年(延宝5 (1677)4月19日没 |
喜運寺 |
空■童女 |
早世 |
元禄14年(1701)9月29日没 |
喜運寺 |
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