鎌倉鉄砲場                トップ
倉海岸における砲術演習
 
通称鎌倉海岸鉄砲場といわれたが正式には「相州砲術調練所」という名称だったたようである。

 
鉄砲場の設置
 
享保改革を進めていた8代将軍吉宗は武芸を奨励し綱吉の代から中断していた鷹狩を復活したが、長い泰平の時代が続き衰退してしまった大砲技術を復活させるため、享保13年(1728)、鎌倉海岸に大筒(大砲)の実射演習場を設けた。
 「相州鎌倉海岸」と呼ばれるが、実際には今の行政区域でいえば藤沢市から茅ヶ崎市の海岸、当時の村名でいえば片瀬、鵠沼、辻堂、小和田、菱沼、茅ヶ崎村から相模川の河口の柳島村にかけての海岸である。
 鎌倉由比ガ浜の歴史を見ると
江戸時代に入ると八代将軍吉宗の時に始まった砲術の稽古で浜の静寂は破られました。
由比ガ浜は当時、「東西凡そ二十四五町、南北二三十間」といわれてかなり広い砂浜でした。江戸幕府はここに目をつけ、従来江戸で行っていた砲術稽古を下総船橋と相模の鎌倉で行うことにしました。特に鎌倉では300玉以上の試射が行われました。
とある。
 また鎌倉市史には
鎌倉の鉄炮場は、享保13年(1728)、享保改革の一環として新設され、大筒・石火矢など火砲の演習場として使われたが、射撃音で魚が沿岸に近づかなくなったり(漁業不振)、演習のために防風防砂林が伐採されて農業に少なからぬ影響が出たり(作物の被害)で、鉄炮場拡張にあたっては地域住民の反対運動も盛り上がった。、その後、海防強化の必要が唱えられ、寛政年間(1789−1801)になると幕府は武蔵国徳丸原(現在の東京都板橋区高島平)にも新たに鉄炮場を設けた。(「鎌倉市史」近世通史編)
とある。

 さらにwikipedhiaの腰越村の項にも

1766年明和3年)11月18日 - 腰越村と、西側で接している片瀬村の村役人が、鉄砲場の建設に反対する訴状を提出。

従来、柳島村(現在の茅ヶ崎市柳島付近か)から片瀬村にかけてあった鉄砲場(幕府の役人用の射撃訓練場)を、腰越村へ延長する計画が起こった。鉄砲場が既にある地域では、騒音で魚が来なくなってしまい漁獲高が減ったり防砂林が伐採されて田畑が砂を被ったりしていたため、このような被害が腰越村にも及ばぬよう訴えたものである。鉄砲場を管理する役人との討議の結果、鉄砲場は延長するが、当面は訓練を行わないことで合意に至った。

とあり、実際の鉄砲演習場は現在の行政区画で言えば鎌倉市ではなく、藤沢市から茅ヶ崎市にかけての海岸だったようだ。

茅ヶ崎には今も鉄砲通りという名前が残っている。南湖の六道の辻から平和学園付近までの道を呼ぶようだ。

鉄砲通り 

 茅ケ崎には、東海道線を境に海に向かっていくつかの「通り」がある。 例えば加山 雄三の名にちなんだ「雄三通り」やサザンオールスターズの「サザン通り」、「高砂 通り」「一中通り」「南湖通り」「ラチエン通り」などだ。
 踏み切りからしばらく下ると「鉄砲通り」と呼ばれる途切れとぎれの旧道がある。
 この道は江戸期、年1回の「大筒」(大砲)の演習が藤沢市鵠沼から茅ヶ崎市柳島の間の海岸で行われたが、その大筒を積んだ荷車が往来した事によって名づけられたと言われる。



鉄砲場の運営

 鉄砲場の管理運営にあたったのは幕府鉄砲方の佐々木氏と、この地域の代官(江川太郎左衛門)と地元の鉄砲場見廻役であった。見廻役は地元の村々の名主などから任命され、その役目の重要性から苗字帯刀を許されていたという。
 彼らの管理のもとに夫役を命じられたのは三浦・鎌倉・高座郡の村々で、演習の時期になると役人の宿泊接待、力役労働、警備、伝馬などの夫役を負担しなければならなかった。
 このあたりの村々は通常から戸塚・藤沢・平塚宿の助郷を命じられて困窮しており、鉄砲場の賦役は大きな負担となっていた。

演習の頻度
 鉄砲場が設置された享保13年(1728)から寛延元年(1748)までの21年間は毎年演習が行われたが、その後寛延3年(1750)から安永3年(1774)までの24年間は隔年ごとに実施された。 地元民の負担増、沿岸の漁業への影響などを勘案したためである。
 その後、毎年開催になったり、隔年開催になったりしてこの鉄砲場は幕末まで約140年間使われている。
 このうち、少なくとも文化13年(1816)および文政9年(1826)の2回は五郎左衛門が参加していることが文書で確認されている。

演習の参加者
 鉄砲演習に参加したのは幕府の鉄砲玉薬奉行組、鉄砲箪笥奉行組に所属する番衆が中心であるが、砲術に心得のある武士がそれぞれの組を代表して参加していた。五郎左衛門も町奉行の組を代表して参加してしたものと」思われる。 数人から数十人で編成された各組が交代で演習を行った。
 各年の演習に関わった総人数は享保18年には1000人から1800人になった。

演習の時期・期間
 演習は7組程度に分かれ、各組交代でそれぞれ16日から25日間行い、4月上旬から7月中旬にかけて波状的に行われた。
 江戸から参加する役人は往復それぞれ2日間を加えて20日間から1ヶ月間の出張旅行であった。
 風雨の日には順延されたから天候によっては秋口まで演習が行われたから、農家にとっては農繁期に重なり大いに迷惑な行事だった。

演習参加者の宿泊
 演習期間中の役人・番衆の宿泊は藤沢宿や近郊の羽鳥村、大庭村、稲荷村、鵠沼村などに割り当てられた。これらの宿・村は毎回宿所提供を命じられていたようだ。
 大筒演習の中心的な存在だった井上左太夫など組を代表する役人は藤沢宿の本陣が空いていれば本陣に泊まり、そうでない場合は鵠沼村や羽鳥村に泊まった。またそれ以下の人たちは近郊の村々に分宿した。
 文政9年の演習に参加した五郎左衛門は羽鳥村の金六という宿に宿泊していた事を示す文書(請書)が残っている。
 これらの宿泊者の食事や経費などは幕府から各村に支払われ、村から宿舎を提供した者に支払われたが、村が支出した全額を幕府が支払った訳ではなく、その差額は村の負担となった。
 村民の夫役とともにこの支出は村にとって大きな負担であった。

演習の内容
 鉄砲・大筒などの名称は砲弾の重さで区分されていた。
 弾丸重量30匁以下を小筒、100匁までを中筒、100匁以上を大筒、さらに一貫目以上を石火矢(いしびや)と呼んだ。
 寛政4年以降は300匁以下の演習は江戸近郊の徳丸ケ原に新設された演習場で行うよう通達が出て、鎌倉海岸は300匁を越える大筒、石火矢の演習場となった。
 
 演習は町打(ちょううち、遠距離射撃)、角打(近距離射撃)、船打、下ケ矢(高所から下方に打つ)などがあり、それぞれ発射場、射撃目標が決まっていた。
 角打は鵠沼海岸で」行われ、町打は辻堂村の海岸に発射場、打小屋を置き、射撃目標は相模川河口柳島村の海岸だった。
 サザンで有名な烏帽子岩も大筒稽古の標的だったという。
 打場から一町ごとに定杭が打たれ、発射のたびに着弾地点を特定して飛弾距離が測定された。 船打は地元の漁船小船3艘と三百石船1艘を借りて船上から射撃訓練をし、下ケ矢は片瀬村駒立山から下方に打ち下ろされたという。

      


農業・漁業への影響
 鎌倉市史に
鎌倉の鉄炮場は、享保13年(1728)、享保改革の一環として新設され、大筒・石火矢など火砲の演習場として使われたが、射撃音で魚が沿岸に近づかなくなったり(漁業不振)、演習のために防風防砂林が伐採されて農業に少なからぬ影響が出たり(作物の被害)で、鉄炮場拡張にあたっては地域住民の反対運動も盛り上がった。、その後、海防強化の必要が唱えられ、寛政年間(1789−1801)になると幕府は武蔵国徳丸原(現在の東京都板橋区高島平)にも新たに鉄炮場を設けた。(「鎌倉市史」近世通史編)
とある。

 さらにwikipedhiaの腰越村の項にも

明和3年11月18日、腰越村と西側で接している片瀬村の村役人が、鉄砲場の建設に反対する訴状を提出。

従来、柳島村(現在の茅ヶ崎市柳島付近か)から片瀬村にかけてあった鉄砲場(幕府の役人用の射撃訓練場)を、腰越村へ延長する計画が起こった。鉄砲場が既にある地域では、騒音で魚が来なくなってしまい漁獲高が減ったり防砂林が伐採されて田畑が砂を被ったりしていたため、このような被害が腰越村にも及ばぬよう訴えたものである。鉄砲場を管理する役人との討議の結果、鉄砲場は延長するが、当面は訓練を行わないことで合意に至った。

とある。、鉄砲演習は地元住民にはおおいに迷惑なものであったようだ。

また「茅ヶ崎ものがたり」には

江戸時代中期、亨保十三年(1728)、八代将軍徳川吉宗の亨保改革の一環として、江戸幕府の鉄砲場(鉄砲の演習場)が、茅ヶ崎海岸から鵠沼海岸の広大な砂地に設置されました。そして、鉄砲場の管理・運営には、幕府の大砲役の佐々木氏があたっていました。
 しかし、鉄砲場近くの住民は、射撃音による魚群の分散や松林の伐採による農地への被害など、多くの影響を受けました。


とある。
鉄砲演習は地元住民にはおおいに迷惑なものであったようだ。

佐々木氏流罪に
天候不順で農民が飢餓にあえいでいた天保時代、鉄砲場を無断で開拓し耕作を始めていたが、幕府大筒役で鉄砲場を管理していた佐々木卯之助(1795−1876)はこれを黙認していた。
ところが、この地を支配する代官・江川太郎左衛門の手代が検地をして、このことが明るみに出て卯之助父子は青ヶ島へ流刑となった。
幕府にとっては罪人であるが、地元民にとっては「義人」である。 明治になって初代茅ヶ崎村長が、その恩義を後世に伝えるため記念碑を建てた。 その後場所は転々としたようだが、今は「鉄砲通り」のほぼ中央にあたる東海岸北五丁目にその「佐々木氏追悼記念碑」がひっそりと建っている。(写真下)



       佐々木卯之助記念碑
 
鎌倉以外の砲術演習場
 
鎌倉のほかにも江戸近辺には砲術の演習場は各地にあった。
 小規模だったと思われるが、天保14年(1843)には赤坂今井谷600坪が御家人の砲術稽古場になったという記録があり、品川沖は外国船の襲来すれば最後の防衛ラインとして盛んに砲術稽古が行われていた。
 天保12年5月、長崎から招聘された高島四郎太夫たちが徳丸が原(今の高島平)で行った洋式砲術の演習は幕府中枢に西洋の脅威を目の当りとさせ、海防の重要さを改めて認識させた。
 この演習には江戸の町民が弁当持参で多数見物に出かけたと言われ、町奉行所もその警備に出動した。砲術専門家として五郎左衛門も当然、この演習を見に行った事であろう。 この直後の6月2日、奉行所刃傷事件が起きている。
     

高島 秋帆(たかしま しゅうはん) 
寛政10年(1798)8月15日、長崎町年寄を勤める傍ら出島砲台を受け持った高島四郎兵衛茂紀(しげのり)の3男として生まれる。。 長崎町年寄、講武所砲術師範役。高島流砲術の創始者。洋式兵学者。

諱:茂敦。字:子厚(しこう)、舜臣。通称:糾之丞、四郎太夫、のち喜平。雅号:秋帆。
文化11(1814)年父の跡を継ぎ、のち会所調役頭取となった。

 父から荻野流、天山流砲術を学んだが、長足の進歩を遂げつつある洋式砲術とは隔絶した差のあることを知り、通詞(通訳)にオランダ語兵書の翻訳を依頼したり、出島砲台の責任者であったことから、オランダ人に疑問を直接問いただすなどしてヨーロッパの軍事技術に関する知識を修得した。また町年寄の特権である脇荷(わきに)貿易によって私財を投じて各種の火器やオランダ兵学書を買い求め、天保5(1834)年頃にはこれらの成果を基に高島流砲術、洋式銃陣を教授するようになった(門弟300人とも)。

 アヘン戦争(1839)に関する情報に大きな衝撃を受け、天保11(1840)年西欧列強のアジア侵略から日本を防衛するために洋式砲術を採用すべきだとする意見書を江戸幕府に提出した。これが幕府に認められ、翌12(1841)年、幕命により門弟100余人を率い、大砲4門・小銃50挺とその付属品とを携えて江戸に出て、5月9日武蔵徳丸ケ原(とくまるがはら)(東京都板橋区)で日本最初の洋式砲術演習を行った。これにより幕府の高島流砲術採用が決まり、幕臣の江川太郎左衛門(坦庵)・下曾根金三郎に伝授し長崎に帰った。

 ところが、かねてから蘭学を蛇蝎のごとく嫌っていた幕府町奉行鳥居耀蔵(ようぞう)によって天保13(1842)年謀反の罪を着せられ、江戸に檻送投獄され、のち中追放に処せられた。 その後ペリー来航など情勢が変化したこともあって、嘉永6(1853)年幽囚10年の後赦されて江川太郎左衛門の手付となり通称を喜平と改めた。

 安政2(18655)年には普請役に任ぜられ、鉄砲方手付教授方頭取を命じられ、安政4(1857)年富士見御宝蔵番兼講武所砲術師範役を勤め、武具奉行格として後進の指導と武備の充実に貢献した。
 慶応2年(1866)正月14日、現職のまま69歳で没した。 「火技中興洋兵開基」と称えられ、日本の軍事近代化に大きな足跡を残した。
   [贈]:正四位、 [法名]:皎月院殿碧水秋帆居士、 [墓]:東京都文京区[大円寺] 


                  鎌倉海岸鉄砲演習場関連年表

西暦

和暦

記                        事

出   典

1728

享保13

 

 

幕府鉄炮方=井上左太夫貞高、亨保改革の一環として鵠沼・辻堂海岸に鉄炮場設置[新編相模國風土記稿]

鵠沼15・62号

1730

享保15

12

10

鵠沼の浜で鉄炮の試射演習[戌年鵠沼浜御鉄炮入用帳]

藤沢市史年表

1733

享保18

6

17

7/6、鵠沼村他に逗留し鉄炮の試射演習[御鉄炮御用宿賄帳扣]

藤沢市史2巻

1734

享保19

 

 

鵠沼村他に逗留し鉄炮の試射演習[御鉄炮御用宿賄帳扣]

藤沢市史2巻

1735

享保20

7

 

幕府、鵠沼海岸大筒鉄炮稽古人足差し出しについての触書を通達

藤沢市史年表

1736

元文 1

 

 

鵠沼村他に逗留し鉄砲の試射演習[御鉄炮御用宿賄帳扣]

藤沢市史2巻

1737

元文 2

12

11

〜以後3年間、各村、鉄炮場の宿賄帳を作成[御鉄炮御用宿賄帳扣]

藤沢市史2巻

1771

明和 8

 

 

幕領藤沢宿代官=江川太郎左衛門英征

藤沢市史年表

1771

明和 8

 

 

江川太郎左衛門英征ノ経歴ト支配国郡村名高帳、「高 弐千三百六拾石九斗七升八合 高座郡」と記す

WEBsite

1802

享和 2

 

 

鵠沼村と大庭・稲荷・折戸・羽鳥村との間に鉄炮場御用宿賄い金滞納を巡り論争[為取替証文之事]

藤沢市史年表

1806

文化 3

1

 

鵠沼村(組頭:元右衛門)はじめ御宿組合村々、鉄炮場負担軽減を嘆願

藤沢市史2巻

1806

文化 3

 

 

鵠沼等5か村と三浦郡の4か村、鉄炮稽古役人宿入用高割納入願を代官所に提出

藤沢市史年表

1830

天保 1

3

 

大筒鉄炮方の宿、鵠沼村より羽鳥・大庭の両村に変更

藤沢市史年表

1831

天保 2

 

 

幕領藤沢宿代官=江川太郎左衛門英龍

藤沢市史年表

1835

天保 6

12

 

幕府評定所、鉄砲場内諸村の試作田を未公認のまま開発耕作させた大筒役佐々木卯之助一家を青ヶ島遠島

茅ヶ崎市史四

1850

嘉永 3

 

 

片瀬、鵠沼、辻堂村に鉄炮場が増設[市史]

鵠沼15号

1860

万延 1

10

6

10/8、鉄炮場検見[御検見諸用帳]

藤沢市史2巻

1864

元治 1

9

28

鉄炮場検見[御鉄炮場内新開御検見諸用帳]

藤沢市史2巻

1865

慶応 1

10

8

鉄炮場検見[御鉄炮場内新開御検見諸用帳]

藤沢市史2巻

1866

慶応 2

10

25

鉄炮場検見[御鉄炮場内新開御検見諸用帳]

藤沢市史2巻

1868

明治 1

 

 

鉄砲場内諸村の試作田を未公認のまま開発耕作させ、青ヶ島遠島になった大筒役佐々木卯之助、赦免

茅ヶ崎市史四