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鎌倉海岸における砲術演習 通称鎌倉海岸鉄砲場といわれたが正式には「相州砲術調練所」という名称だったたようである。 鉄砲場の設置 享保改革を進めていた8代将軍吉宗は武芸を奨励し綱吉の代から中断していた鷹狩を復活したが、長い泰平の時代が続き衰退してしまった大砲技術を復活させるため、享保13年(1728)、鎌倉海岸に大筒(大砲)の実射演習場を設けた。 「相州鎌倉海岸」と呼ばれるが、実際には今の行政区域でいえば藤沢市から茅ヶ崎市の海岸、当時の村名でいえば片瀬、鵠沼、辻堂、小和田、菱沼、茅ヶ崎村から相模川の河口の柳島村にかけての海岸である。 鎌倉由比ガ浜の歴史を見ると
また鎌倉市史には
さらにwikipedhiaの腰越村の項にも
茅ヶ崎には今も鉄砲通りという名前が残っている。南湖の六道の辻から平和学園付近までの道を呼ぶようだ。
鉄砲場の運営 鉄砲場の管理運営にあたったのは幕府鉄砲方の佐々木氏と、この地域の代官(江川太郎左衛門)と地元の鉄砲場見廻役であった。見廻役は地元の村々の名主などから任命され、その役目の重要性から苗字帯刀を許されていたという。 彼らの管理のもとに夫役を命じられたのは三浦・鎌倉・高座郡の村々で、演習の時期になると役人の宿泊接待、力役労働、警備、伝馬などの夫役を負担しなければならなかった。 このあたりの村々は通常から戸塚・藤沢・平塚宿の助郷を命じられて困窮しており、鉄砲場の賦役は大きな負担となっていた。 演習の頻度 鉄砲場が設置された享保13年(1728)から寛延元年(1748)までの21年間は毎年演習が行われたが、その後寛延3年(1750)から安永3年(1774)までの24年間は隔年ごとに実施された。 地元民の負担増、沿岸の漁業への影響などを勘案したためである。 その後、毎年開催になったり、隔年開催になったりしてこの鉄砲場は幕末まで約140年間使われている。 このうち、少なくとも文化13年(1816)および文政9年(1826)の2回は五郎左衛門が参加していることが文書で確認されている。 演習の参加者 鉄砲演習に参加したのは幕府の鉄砲玉薬奉行組、鉄砲箪笥奉行組に所属する番衆が中心であるが、砲術に心得のある武士がそれぞれの組を代表して参加していた。五郎左衛門も町奉行の組を代表して参加してしたものと」思われる。 数人から数十人で編成された各組が交代で演習を行った。 各年の演習に関わった総人数は享保18年には1000人から1800人になった。 演習の時期・期間 演習は7組程度に分かれ、各組交代でそれぞれ16日から25日間行い、4月上旬から7月中旬にかけて波状的に行われた。 江戸から参加する役人は往復それぞれ2日間を加えて20日間から1ヶ月間の出張旅行であった。 風雨の日には順延されたから天候によっては秋口まで演習が行われたから、農家にとっては農繁期に重なり大いに迷惑な行事だった。 演習参加者の宿泊 演習期間中の役人・番衆の宿泊は藤沢宿や近郊の羽鳥村、大庭村、稲荷村、鵠沼村などに割り当てられた。これらの宿・村は毎回宿所提供を命じられていたようだ。 大筒演習の中心的な存在だった井上左太夫など組を代表する役人は藤沢宿の本陣が空いていれば本陣に泊まり、そうでない場合は鵠沼村や羽鳥村に泊まった。またそれ以下の人たちは近郊の村々に分宿した。 文政9年の演習に参加した五郎左衛門は羽鳥村の金六という宿に宿泊していた事を示す文書(請書)が残っている。 これらの宿泊者の食事や経費などは幕府から各村に支払われ、村から宿舎を提供した者に支払われたが、村が支出した全額を幕府が支払った訳ではなく、その差額は村の負担となった。 村民の夫役とともにこの支出は村にとって大きな負担であった。 演習の内容 鉄砲・大筒などの名称は砲弾の重さで区分されていた。 弾丸重量30匁以下を小筒、100匁までを中筒、100匁以上を大筒、さらに一貫目以上を石火矢(いしびや)と呼んだ。 寛政4年以降は300匁以下の演習は江戸近郊の徳丸ケ原に新設された演習場で行うよう通達が出て、鎌倉海岸は300匁を越える大筒、石火矢の演習場となった。 演習は町打(ちょううち、遠距離射撃)、角打(近距離射撃)、船打、下ケ矢(高所から下方に打つ)などがあり、それぞれ発射場、射撃目標が決まっていた。 角打は鵠沼海岸で」行われ、町打は辻堂村の海岸に発射場、打小屋を置き、射撃目標は相模川河口柳島村の海岸だった。 サザンで有名な烏帽子岩も大筒稽古の標的だったという。 打場から一町ごとに定杭が打たれ、発射のたびに着弾地点を特定して飛弾距離が測定された。 船打は地元の漁船小船3艘と三百石船1艘を借りて船上から射撃訓練をし、下ケ矢は片瀬村駒立山から下方に打ち下ろされたという。 ![]() 農業・漁業への影響 鎌倉市史に
さらにwikipedhiaの腰越村の項にも
また「茅ヶ崎ものがたり」には
とある。 鉄砲演習は地元住民にはおおいに迷惑なものであったようだ。 佐々木氏流罪に 天候不順で農民が飢餓にあえいでいた天保時代、鉄砲場を無断で開拓し耕作を始めていたが、幕府大筒役で鉄砲場を管理していた佐々木卯之助(1795−1876)はこれを黙認していた。 ところが、この地を支配する代官・江川太郎左衛門の手代が検地をして、このことが明るみに出て卯之助父子は青ヶ島へ流刑となった。 幕府にとっては罪人であるが、地元民にとっては「義人」である。 明治になって初代茅ヶ崎村長が、その恩義を後世に伝えるため記念碑を建てた。 その後場所は転々としたようだが、今は「鉄砲通り」のほぼ中央にあたる東海岸北五丁目にその「佐々木氏追悼記念碑」がひっそりと建っている。(写真下)
鎌倉以外の砲術演習場 鎌倉のほかにも江戸近辺には砲術の演習場は各地にあった。 小規模だったと思われるが、天保14年(1843)には赤坂今井谷600坪が御家人の砲術稽古場になったという記録があり、品川沖は外国船の襲来すれば最後の防衛ラインとして盛んに砲術稽古が行われていた。 天保12年5月、長崎から招聘された高島四郎太夫たちが徳丸が原(今の高島平)で行った洋式砲術の演習は幕府中枢に西洋の脅威を目の当りとさせ、海防の重要さを改めて認識させた。 この演習には江戸の町民が弁当持参で多数見物に出かけたと言われ、町奉行所もその警備に出動した。砲術専門家として五郎左衛門も当然、この演習を見に行った事であろう。 この直後の6月2日、奉行所刃傷事件が起きている。
鎌倉海岸鉄砲演習場関連年表
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