家号を仁杉と為す
仁杉伊賀守藤原朝臣幸通と称す。
幸通は、甲斐領に近く足柄や箱根にも近い人杉に墟を構え、苗名は人杉と名乗るを、朝臣であり守なので人の宇を仁に変え(妄りに使えない字)仁杉とし、名乗りは仁は天皇の御名であるので仁(に)と称し、仁杉と称する許しを朝廷に奏上し、許しを得たものと思われる、あるいは朝廷より人杉を仁杉として下され賜った家号とも考えられる、故に仁杉系が増え御名を汚す者の出るを恐れたと思われる。
直系以外は仁杉(にすぎ)を名乗るを許さず、本家の許した一家を含め明治に至る300年間に於いて二家のみが仁杉を名乗るのみであり、明治以降仁杉(にすぎ)、仁杉(ひとすぎ)と名乗る分家一族が増えつつある。
与力家は「ひとすぎ」に
幸継は与カ職を継いでより16年後(元禄16年)に江戸にて没するが、その時は跡を継ぐべき男子未だ少年だったのであろう、幸継妻は幸継を江戸薯運寺に葬り残された女子4人男子2人を連れ、幸通以来の所領の地である駿河国駿東郡仁杉(ひとすぎ)村に移住する。
幸継嫡男源兵衛青年に成長するに至り、江戸与カ勝安と与カ職返還について交渉するも、勝安与カ職を返さず(目付けの後ろ盾を得たものか)、幸継妻は分家勝安に仁杉姓を名乗るを許さず、分家姓の一杉(ひとすき)姓を名乗るを申し渡し、かつ家紋は裏紋の丸に亀甲唐花角紋を用いる事とさせる。
勝安は姓字の変わるを恐れ、呼び名を「ひとすぎ」とだけ変え、仁杉(ひとすき)とし、家紋は支流が用いる裏紋の丸に亀甲唐花角紋とする。
一杉姓について
当家(裾野仁杉家)での言い伝えでは、宝永の富士山噴火の後、駿東郡北部は降灰の為、田畑の耕作や牛馬の飼膏もできず生活して行くに大変で、一族の一杉の人は仁杉家領地内で降灰のない、南の原の浮島へ移り住んだと伝えられています。
いつ頃から一杉を名乗るようになったかを推察すると
水戸一杉家
幸通の弟は3人(名の判明しているのは2人)とも水戸家へ仕えた。
仁杉太郎兵衛(書院番勤200俵)、仁杉某(郡奉行200俵)、仁杉武右衛門(水戸中納言御簾中取次役100俵)の3人ははじめ仁杉姓で勤めるが、没した後は次を継ぐ者から一杉と姓をかえた、これを一代名乗りと言う。
天正15年前後の北条家朱印状にある、伊豆にて材木や船に関する奉行を勤めた仁杉(姓のみ記)は、北条滅亡後その経験を買われ水戸家に召抱えられ、郡奉行を勤めることとなったのではないか。
3人の弟が戦死しないで、文禄か慶長の時代に没したとすると、その嫡子は此の時代より一杉姓を名乗ったと考えられる。
伝え聞くに、水戸家より沼津藩へ息女が嫁入りしたとき、一杉某なる者が共侍として同行し沼津へ移り住んだとも伝えられるが、いつの時代か分からない。
駿河一杉家
幸高に兄弟二人あり、仁杉五郎三郎と仁杉半兵衛である。
半兵衛は徳川家臣を経て後、駿河忠長公の先手物頭役を勤め元和3年同心20人支配となり、やはり一代名乗りの後一杉姓となる。
仁杉五郎三郎は北条氏直の小姓勤めるとだけあり、北条滅亡後の動向の記載が無いので、天正14年没の仁杉五郎三郎であろう。
推測であるが氏康が幸通に駿東郡の管轄を託するに、幸通伊豆国旧主なので反乱を恐れ、嫡男五郎三郎に氏康嫡男氏政の馬廻り役(小姓)をせしめたのであろう(扶持15貫文)、後に氏直の小姓を勤める事となり、氏直高野山にて没した時五郎三郎の位牌も高野山に納められる。
仁杉姓三代幸重よりの兄弟の記戴なく不明。
幸重も徳川家御先手寄騎を勤め大阪冬夏の陣へ出陣する。
2代幸高3代幸重は徳川家臣として御先手寄騎を勤めていたので、それぞれ以前よりの家臣を抱えており、駿東郡の収入は家臣達にも当てられていたであろうと思われる。
幸高・幸重の代は家臣の中の伊倉氏、勝又氏等に領地を管理させていたと思える。仁杉近辺には伊倉勝又姓が多い。
原一杉家
4代幸勝の代に至り、戦いの無い時代になり御先手としての役目もなくなり、江戸町奉行所与カとなり、抱える子弟や家臣もそれほど必要としなくなり、子弟の中より領地駿東郡に移住させ、管理を為さしめたのではないかと思う、
これが原一杉の祖と思える。
一杉家の古い先祖の墓並び法名が有るとすれば、元禄時代の前後からであろうと推測される。
なぜ一杉姓なのであろうか
巨木杉の伝説のある現御殿場市仁杉(ひとすぎ)の地名が、苗字の起源となるので「ひとすぎ」であるが、現在の地名仁杉(ひとすぎ)となったのはいつの時代かは御殿場市にても不明で、「ひと杉」「人杉」「一杉」のどれが本来の記なのかも不明。
今より約450年前の弘治年間、工藤幸通が北条氏康より駿河国駿東郡の管轄を託され、駿東郡北部のひと杉に居を構えたことで苗字を名乗るのだが、その時点での地名が仁杉(ひとすぎ)であれば、朝廷や将軍家に関係なく、仁(ひと)は天皇の御名なので仁(に)と読むとするとすれば、以後の全ての子弟に仁杉(にすぎ)を名乗らせることが出来、現代までには相当数増えていたと思える、
やはり言い伝えの通り、この当時の地名は人杉であろう。
駿東郡資料には、
「里人の伝えに曰く、昔里に大木の古杉あり、樹齢幾百年か知らず、伐る事七日に及ぷも伐る事能はず、聖徳太子この杉で地蔵を彫る、この杉囲りは7囲り半(12m)で車馬が隠れる程で、高きこと数十丈(150m位)にて雲や霞を貫く程で、タ日に向う時の影は20畝(600坪)程の広さの影を作ったという、この杉精霊ありて美少年と化し、村娘へ通いしに伐らる、これを一木杉(ひとつすぎ)と言う」とあり。
ここから「一本杉」の精霊を持った「人杉」と言うことから、地名を名乗る苗字として「一杉」となったのではないだろうか。
又、後世に作られた「一本杉残根(のこりね)を得るの記」に同じような事が記され、さらに「昔駿東郡の仁杉に大木あり「一杉」(ひとつすぎ)と言われ、年の暮れの寒さが彫り刻む樹影が、仁のある高貴な人の顔に見えることがあり、「老楓は天女になる」と言うのであれば「老杉は仁のある人となる」ということになる、これが仁杉村の村名の由来ではなかろうか」とある。
幸通は朝廷や将軍家よりの信任もあり、移住先の地名「ひと杉」と苗字を名乗るに、朝廷より仁(ひと)の字を賜わるか、許しを得たのであろう。
畏れ多いので仁を(に)と読み仁杉(にすぎ)と名乗るとしたのであろう。
故に仁杉姓が増え、万が一にも家門を汚す者が出るは朝廷を汚す事になるので、直系一家のみに仁杉姓を名乗るとしたのではないだろうか。
これらの事から、ひと杉に由来する家系は、一つ杉の如く、天高く伸び、広く深く根を張り、末永く家門の栄えるを願い、幸通は直系一家以外は全て、地名の「ひとすぎ」の一杉と名乗らせるようにしたのではないだろうか.。
この幸通の命(訓)は驚くべきことに、以後代々守られ280年問に及ぶ江戸期末迄続いた。
仁杉(にすぎ)本家は直系一家しか仁杉姓を名乗れずとあり、昭和生まれの14代圓一郎にも伝えられている。
幸通より5代幸継迄の130年間は一家のみの名乗りであり、6代源兵衛より仁杉姓は二家となり江戸期末迄の150年間続き、四民平等の明治期より仁杉姓は少しずつ増えてきつつある。
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