姓・苗字 |
氏族をあらわす固有の名で先祖から伝えられる。仁杉氏は、工藤氏の支族伊東姓氏のそのまた支族。天正年間、駿河仁杉に居住して仁杉と名乗るようになった。 |
諱(いみな) |
本名のこと。死後に「諱」と呼ばれ、生時はただ「名」と呼ぶ。五郎左衛門の場合は当初幸生(ゆきなり)だったが、後に幸信と改名している。
仁杉家では下記のように代々「幸」という一字が入っている。 これを通字という。
@幸通 A幸高 B幸重 C幸勝 D幸次
E幸光 F幸計 G幸堅 H幸信
5代幸次と6代幸光の間に「当代勤」と呼ばれる勝安がいるが、この人は幸の字が入っていない。直系ではないためか。
有名な武将では織田氏はの「信」、徳川氏は「家」、武田氏は「信」、上杉氏は「景」、朝倉氏は「景」、伊達氏は「宗」、浅井氏は「政」、三好氏は「長」、加藤氏は「清」、前田氏は「利」、毛利氏は「元」、島津氏は「久」、足利氏は「氏」、北条氏は「氏」を通字として代々使っている。 |
字(あざな) |
本名以外につける名。普通は元服の時につけられる。
人を呼ぶ時に諱(いみな:本名)で呼ぶのは失礼にあたり、字(あざな)を使うことが礼儀となっていた。ただし親が子を呼ぶ時や、主人が家来を呼ぶとき、家族や親しい間柄では名で呼ぶことがあった。
字(あざな)は親から子に、あるいは祖先から襲名する事が多く、仁杉家では次のような字(あざな)が何回か使われている。
五郎左衛門 (A幸高、H幸信)
与兵衛 (A幸高、C幸勝、D幸次、,H幸信)
八右衛門 (B幸重、D幸次)
幸右衛門 (E幸光、F幸計)
五郎八郎 (F幸計、G幸堅)
この他にも1回しか使われていない清右衛門、辰次郎、五郎八などがある。
すべての人が途中で改名しており、中には3回も改名している人もいる。
五郎左衛門幸信は、2代幸高の「与兵衛ー五郎左衛門」という改名コースを踏襲した。
八右衛門は分家した八右衛門家の字(あざな)となり、「五郎八郎ー八右衛門」が定着した。 |
幼名 |
文字どおり幼い時に呼ばれる名で、元服までこの名で呼ばれる。
徳川家康の「竹千代」、秀吉の「日吉丸」などは有名であるが、よほど事績があって記録が残っている人でないと幼名は文献にも残りにくい。 五郎左衛門は常松だった。 |
官名 |
従六位以上の大名、旗本などは「大炊頭」や「越前守」などの官名を名乗り、字を名乗ることはなかった。
官名は朝廷の役職名である。 「大炊頭」「主計頭」などは朝廷の京官で各役所の長、「越前守」「上野介」など地方官で、守は長官、介は次官である。
国の規模により下表のように官位との関係が明確に規定され、本来は朝廷から授与されるものだが、江戸時代には幕府の権力者が勝手に任命していた。
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大国 |
上国 |
中国 |
小国 |
守 |
従五位上 |
従五位下 |
正六位下 |
従六位下 |
介 |
正六位下 |
従六位上 |
− |
ー |
五郎左衛門は法衣以上ではないので官名はないが、仁杉家の祖・幸通は伊賀守を名乗っていた。
官名は古くは朝廷が与えていたが、武士の世になると厳密な意味はなく武士の権力者が勝手に任命していた。 |
諡号 |
死後、生前の行動にちなんでつけられる追号。多くの場合は戒名(法名)の最初の三文字、たとえば徳川2代将軍秀忠は「台徳院」と呼ばれる。
仁杉家初代幸通は「大乗寺殿」と呼ばれることになるが、これが仁杉村大乗寺側と問題になった。 |