江戸城火災(天保15年)での活躍

天保15年(1844)5月10日未明、本丸大奥から出火、たちまち本丸をほぼ全焼する大火災があった。
この火災の報をうけて、当時普請奉だった川路左衛門尉聖謨、馬に乗って江戸城に駆けつけ、火災の状況と、城内建物の罹災状況について、つぶさに記録した日記を残している。

「五月雨のかがみ」と題するこの日記は、変体がなを多用した川路独特の古文調の文章で、なかなかの難読文である。
 この中に、仁杉八右衛門の獅子奮迅の働きぶりを紹介しているくだりがある。

 これによると、川路は現在の飯田町にあった屋敷で寝ていたところ、近くにあった火防屋敷(火消役旗本・戸田中務)の物音(太鼓の音)に目覚め、2階に登って見たところ、江戸城の火災と知り、取るものもとりあえず江戸城へ駆けつけたとある。
 川路は、急いで馬を走らせ、堆子橋御門の辺まで行き、平川御門から城に入ろうとしたが、猛火で常に通っている経路をとることができないため、大手門から登場した。 前述のように川路は普請奉行の役にあったため、まず本丸御殿内の普請奉行の殿席である芙蓉間席に向かった。 そして焼火の間の辺りで、若年寄の大岡忠国と本城道貫に出会い、将軍が避難したことを確認した後、和田蔵門付近にある自分の配下の普請方走小屋に向かった。
 そして、当直の一人を残して諸事を任せ、自分は将軍家慶が西桔橋から避難したことを聞き、そこへ向かった。 途中で老中真田幸貫と出会っている。
 この途中、大奥の女中たちが裸足で吹上の御殿へ逃げ、将軍は瀧見という休息所にいることを知り、その他多くの人々が避難していた御成御門の辺りで、目付の坂井右近に逢い、再び将軍の安全を確認し安心した上で、普請方定小屋に戻ることを告げて、戻った。

川路聖謨 五月雨のかがみ 抜粋
             学習院大学 蔵
    当日の川路の城内ルート   
                 NHK古文書講座テキストより         
前略)弁慶やぐらの火の元へ出、そはかうとみえける時、火につまれぬ、先にたそ退き走らめなとひしもあれど、町奉行の与力仁杉八右衛門といふの、火をことのならずば、死するまでの事也、いざや死なむとひけるに、人々励されて、軒端はさら也、うちよりも焔吹出ぬるほどに、火しかりしをもひに消えて、ほど近き御宝庫も火をのがれ、かしこりける古きおほん宝も、つゝがなかりけるなど、或者つたえ給ふ(後略)

 戻る途中、紅葉山の下辺りで老中堀親害と会い、蓮池御門を過ぎる頃には、将軍が普段いる本丸御座間辺りが焼け落ちているのを見た。御宝庫に程近い弁慶櫓という高どの(場所不明)や蓮池金蔵の前まで行くと「御厨前の御台所」三重櫓に火が移って二の丸が危なくなったため、大奥女中2、30人が西の丸の方へ逃げるところへ出会った。 そこを過ぎて、百人番所のところに来たところでようやく空が明るくなりはじめたが、本丸玄関「遠侍」などいう辺りはことごとく焼失していた。
 蔵には、南北の町奉行、十人火消の人々がのぼって消火活動をしており、公儀の荷物を運び出し背負って走る人など大混乱の中、川路は、群衆をかろうじて押し分けつつ、もと来た大手門の前に出、馬を静かに歩ませて、和田蔵門の普請方定小屋に向かった。
 普請方走小屋で指図するうちに、同役の村田矩勝が来たので相談して、将軍の御機嫌を伺おうということになり、西の丸に登城した。 その時一緒だったのは浦賀奉行、日光奉行、羽田奉行、林大学頭であった。
 ややあって、今日の将軍の御機嫌を伺うようにと目付の人々から言われたため、奏者番の方々に御機嫌伺いを申し上げた。 しばらくして、今日当直でない者は帰るようにと大目付が伝えたので、村田は帰ったが、川路は城内にとどまり、老中の方々に御目通りした。 
 そのため、帰りが黄昏近くになってしまった。 自宅では、父母をはじめ皆無事を待ち続けており、将軍家の無事、また自分の過ちもなく無事に帰宅できたことを喜んだ。
 はじめ、火事が起きたのを見た時、もし普請小屋から出火したのであれば責任をとらなければならないと覚悟を決めていたので、大奥へつとめに出ている娘(けい)に、火元を尋ねたが、くわしいことはわからなかった。

 大奥の娘の方へ日常的に行き通いする男が来て、出火したのは「身分の高い老女の梅渓(広大院付)とか姉小路(家慶付)の部屋だ」と人が言うのを聞いたと語った。 こちらからも遣わした従者も同様のことを言って、娘けいが無事西の丸へ避難したことも伝えられた。 
 ここで、大奥にいる娘も無事で、自ら預かる普請定小屋から火も出さず、身にも過ちがなかったのはこの上もないことだと安堵している。

火災翌日- 西の丸への登城
 翌11日、将軍家慶と世子家禅の機嫌伺いに尾張斉荘はじめ、お目見えの許しがある者は、西の丸へ登城した。 中の間にて老中へ向かい、将軍の御機嫌を伺い、芙蓉の席にて右大将(のちの13代氏将軍家定)へ御機嫌伺いをした。
 そこで、話題になった話を川路は以下のように書き残している。
「南北の町奉行が語ったのは、火を消した勇猛な配下の者たちの話だった。
とりわけ、南町奉行の与力仁杉仁右衝門が決死の覚悟で当たり、御宝庫も火を逃れ、古い宝も焼けずに残ったといい、それぞれの役所で、持ち出したものもあったが、焼けてしまったものも多かったということや、まして女房達は、逃げるのが遅かったので着の身着のまま、銀の簪の一つでさえ持ち出せなかったこと。しかし、このようなあわただしい時ながら'将軍は孝養深きお方なので、前将軍夫人広大院が御輿で避難されたことを聞いてから、吹上御庭に避難されたのは立派なことである、等々。
 また、小納戸鵜殿重八右衝門(重郎左衝門か)が、将軍の仰せごとを人々に誤りなく伝えようと走り廻った際に、長刀が抜けて股を貫く傷を負ったが、傷を括って杖をつきながらも皆に伝えたことは、若いのに感心なことである、と話題にしていta.

 江戸城に火災は多いが、本丸が炎上したのは明暦の大火(1657)以来で、実に約200年ぶりの事であった。