五郎左衛門は天保9年秋に大坂へ公務出張している。この出張目的は「大塩の乱」の事後処理に関わる任務である。
天保8年2月に起きた大塩平八郎の乱の重要性に鑑み、時の老中首座水野越前守は6月7日、事件関係者のうち主な者についての吟味を現地の大坂城代、大坂町奉行に任せず、幕府の評定所で行うよう指示した。
このため、吉見九郎衛門・竹上万太郎・大井正一郎・大西与五郎・美吉屋五郎兵衛夫妻等が江戸に送られ評定所で訊問されることになった。
大塩一党は肥後熊本藩預かりとなり、熊本藩は留守居役以下物頭、使番、足軽、医師など実に260人の藩士をこの囚人護送に付けて江戸に送った。夜になれば更に90人の提灯持ちをつけたというから熊本藩にとっては大出費だったろう。
評定所の審理は7月7日(森鴎外の記述には16日とある)から始まった。
そのほかの事件関係者は大坂で審問する事になり、評定所留役山本新十郎及び支配勘定白石十太夫を大阪に派遣した。
約1年後の天保9年8月21日、ようやく評定所での審理が終わり判決が決まった。この審理では目付の鳥居耀蔵が中心的な働きをして、主な事件関係者の判決文は鳥居が起草したといわれている。
罪人は処刑のため大坂へ送還されることになり、この警固と検使のため南北奉行所から与力1人、同心4人づつが派遣されることになった。
南からは五郎左衛門が選ばれ、北は谷村源右衛門が選ばれた。両人とも奉行所を代表する筆頭与力で年番方を勤めている。
また南北から同心4人が随行することになり、南からは筧彦七、左川源次郎、大竹彦九郎、大里忠之助が選ばれた。
一行は結審の翌日8月22日に江戸を出立し、9月11日大坂に着いた。 この年の9月は小の月なので29日まで。従って大坂まで18日間かかったことになる。罪人の護送だから普通より日数がかかっている。
大阪市史には下記のように、一行の大坂到着の日、連れて来た罪人引取りのため森口(今の守口か)まで出向いたとあるので、京から大坂には淀川の舟で行ったものと思われる。
大坂市史
戌八月廿ニ日、江戸町奉行所与力両人、同心八人、検使警固相兼出立。 九月十一日当表へ着の積り、何れも肥後候預りの者なれば、候よりも警固大勢附添来り、於森口蔵屋敷より大勢出張し之を受け取り、大坂に連れ来り直に御奉行へ御渡となる。 注)戌は天保9年
|
この罪人は肥後公(熊本細川藩)の預かりだったので、熊本藩からも多数付き添い、更に熊本藩大坂蔵屋敷からも多数の藩士が引き取りのために森口に出向いている。
罪人たちは9月18日、大坂飛田で処刑され、3日間晒された。
藤岡屋日記
天保9戌年8月21日
大坂大塩一件落着
土井大炊頭
青山因幡守
遠藤但馬守
御勘定吟味役 根本善左衛門
御代官 池田岩之丞
遠藤但馬守家来 畑左秋之助
大坂町奉行跡部山城守組同心
吉見九郎右衛門倅 吉見英太郎
河合善太夫 孫 河合八十郎
以上に褒美(内容省略)
跡部山城守組与力 大西与五郎
大西与五郎倅 大西善之進
橋本町壱丁目市五郎店 願人 冷月
同町名主源七代 祐助
(省略)
勢州板鼻村海会寺所家 剛嶽
以上に遠島、追放などの刑(省略)
一、庄司儀左衛門始一味荷担之者共、於大坂表、夫々御仕置、右通申渡、一同其旨可存。
右於評定所、寺社奉行牧野備前守、町奉行筒井紀伊守、御勘定奉行深谷遠江守、御目付鳥居耀蔵立会、備前守、紀伊守申渡之。
右に付、南町奉行、与力・同心差添、大坂江十九日目到着。
名前左の通
北 大草安房守組与力 谷村 源左衛門
同人組 同心 大村 大助
新島 鉄蔵
服部 正之助
南 筒井紀伊守組与力 仁杉五郎左衛門
同人組同心 筧 彦七
左川 源次郎
大竹 彦九郎
大里 忠之助
但、8月22日出立也
|
森鴎外の「大塩平八郎」にも下記のような記述がある。
大塩平八郎が陰謀事件の評定は、六月七日に江戸の評定所に命ぜられた。大岡紀伊守忠愛(たヾちか)の預かつてゐた平山助次郎、大阪から護送して来た吉見九郎右衛門、同英太郎、河合八十次郎、大井正一郎、安田図書、大西与五郎、美吉屋五郎兵衛、同つね、其外西村利三郎を連れて伊勢から仙台に往き、江戸で利三郎が病死するまで世話をした黄檗の僧剛嶽、江戸で西村を弟子にした橋本町一丁目の願人冷月、西村の死骸を葬つた浅草遍照院の所化(しよけ)堯周等が呼び出されて、七月十六日から取調が始まつた。次いで役人が大阪へも出張して、両方で取り調べた。罪案が定まつて上申せられたのは天保九年閏四月八日で、宣告のあつたのは八月二十一日である。 |
餞別
この大坂出張の折、五郎左衛門は出入りの商人から50両の餞別をもらっていると、5年後、天保13年3月の判決文の中で指摘されている。
「そのたびたび受用致し」とあるから大坂出張は一度だけでなかったのか。
前略
又大阪表え出立之砌、為餞別金五十両相贈候を、其度々受用致 (後略) |
五郎左衛門が出張したのは東町奉行所。この時の東町奉行は跡部山城守良弼、天保改革を推進する老中首座水野忠邦の実弟である。
跡部は水野の改革を支持する立場であり、水野の指示で大坂の米市場に流通する米を大量に江戸に回送したが、大坂にも米不足に困窮する餓民が多数おり、これらを救済する事が大坂町奉行の本務であると東町奉行所の大塩平八郎らが主張し対立した。 これが大塩の乱の原因のひとつとなった。
元和5年(1619)大阪城京橋口の近く(現大手前合同庁舎1号館の付近)に東西両 町奉行所が並んで置かれ、1か月交代で執務した。享保9年(1724)の大火後、西 町奉行所は、天神橋の近くに移った。
なお、9月1日付けで評定所メンバー(寺社奉行 牧野備前守 、青山因幡守
、町奉行 筒井紀伊守、大草安房守 、勘定奉行 深谷遠江守)から事件関係者に「骨折に付き」賞金が授与されている。 史料「浪華姦賊罪案」によれば大坂まで出向いて審理した山本新十郎には金弐枚、白石十太夫には金十五両下されたとある。
大塩平八郎の乱
大塩の乱は大坂で起きた事件だが、全国規模の影響を与えた大事件であり,幕府、江戸町奉行所にとっても他人事ではない出来事だった。
五郎左衛門は事件の翌年の8月、この事件に関連して大坂へ出張しているが、江戸にあっても評定所での吟味にかかわり、下記のように町触にも関わっている。
天保8年(183)2月19日早朝、大坂東町奉行所の元与力で陽明学者であった大塩平八郎中斎が、飢饉の最中幕府の役人と大坂の豪商の癒着・不正を断罪し、摂河泉播地域の窮民救済を求め、幕政の刷新を期して決起した事件。
奉行所の与力・同心やその子弟、近隣の豪農とそのもとに組織された農民ら約300人を率いて「救民」の旗をひるがえし、天満の自宅から大坂城をめざしたが、わずか半日で鎮圧された。
乱による火災は「大塩焼け」といわれ、市中の5分の1を焼失した。
当時配布された「檄文」は大名から民衆まで密かに伝わり、また、乱の情報は、大塩父子がしばらく潜伏し手配されたため、全国に広く伝わった。
事件に関与したと嫌疑を受けたものは数百名におよび、大坂与左衛門町の牢屋敷内に新牢を建てなければ収容できなかったという。乱の参加者はほとんど捕らえられ、獄中で死亡した者が多かった。
大塩決起の報は4日後の2月23日には早馬で江戸にも伝えられた。
全国への波及を恐れる幕府は不穏分子の摘発にやっきとなり、江戸でも多くの者が捕らえられた。
江戸の町触
長引く飢饉で世情が騒然としるなかで、幕府は江戸での同調者の騒乱を恐れ、町奉行、寺社奉行、勘定奉行などに警戒を強めるよう指示した。
事件発生から10日後の2月28日、月番の南町奉行所は町役人を集め、年番の仁杉五郎左衛門から「米穀などの手配もしており、各地から追々廻船が入港することになっている。下々にいたるまで安堵するよう周知せよ」という指示を言い渡し、江戸町民の不安を抑えている。
「大塩の乱 資料館」HPの「塩逆述」巻之三その8にその町触原文の記載があるが、その内容は下記の通りである。
江戸町触
この節大坂大火に付、混雑の義もこれあり候哉、所々風説これあるべき哉、 それに付、猶又入津の米これあるまじき哉など、下々懸念致し申すべき哉、米穀そのほか積廻し方等差支の義これなき様、かねて夫々
手当もこれあり、諸国よりも追々米穀廻船入津致し候事に付、 下々安堵致し居り候様、小前の者に至る迄、よくよく申し諭すべく候事、昨廿八日、この段伊賀守様御番所にて、御年番仁杉五郎左衛門殿より仰せ渡され、畏み奉り候
二月廿九日 小口年寄 彦太郎
西河岸 清左衛門 |
注釈 藤岡屋日記の記載ミス
2005年2月以前は、この五郎左衛門大坂出張を天保8年8月としていた。これは藤岡屋日記の天保8年の項に
前 略
右に付、南町奉行、与力・同心差添、大坂江十九日目到着。
名前左の通
北 大草安房守組与力 谷村 源左衛門
同人組 同心 大村 大助
新島 鉄蔵
服部 正之助
南 筒井紀伊守組与力 仁杉五郎左衛門
同人組同心 筧 彦七
左川 源次郎
大竹 彦九郎
大里 忠之助 |
とあったからである。 更に天保9年の項に
八月廿一日
大塩平八郎一件、御仕置被仰付、囚人大坂まで送りとして南与力仁杉八右衛門、同心4人、北は谷村源右衛門、同心4人、廿二日出立 |
とあるので、天保8年に五郎左衛門が、天保9年に八右衛門がそれぞれ大坂に出張したと解釈していた。
しかし、出立が両方とも8月22日で、19日目に大坂に到着、同行者も同じ北町与力の谷村源左衛門と同心8人と何もかも似ていることが不思議だった。
その後の調査で、評定所から南北奉行所の与力を大坂に派遣したのは天保9年8月の1回だけであり、藤岡屋日記でその記述を天保8年のところに記載したのは大塩事件の発生とその決着に連続性を持たせるためであることがわかった。
藤岡屋日記では事件が起きた時にその事件の内容を記し、後にその事件がどう決着したかを、事件の記述のところに書き足すことが多い。 これを知らずに天保9年の出張を天保8年と解釈してしまっていた。
天保9年の「八右衛門」というのは「五郎左衛門」の記載ミスと考えられる。五郎左衛門の大坂出張については後年、五郎左衛門に対する判決書でも触れており間違いないと思われる。
「大塩の乱」 天保白露より
この年の2月19日早朝、大坂東町奉行所の元与力で陽明学者であった大塩平八郎中斎が、奉行所の与力・同心やその子弟、近隣の豪農とそのもとに組織された農民ら約3百人を率い「救民」の旗をおしたてて決起した。
大塩平八郎は寛政5年(1793)大坂町奉行所の与力、大塩平八郎敬高の子として大坂天満の組屋敷で生まれた。幼名文之助。両親とも病弱で父を七才、母を八才で失い、祖父の政之丞成、祖母のきよに育てられた。
平八郎は祖父、祖母に極めてきびしく育てられ、文化3年(1806)に与力見習として出仕した。文政元年(1818)、26才の時に祖父がなくなり家督を継いで、東町奉行所の本勤の与力となり、「定廻り役」に任命された。この年、町人の娘であった橋本ゆうと結婚した。
精錬潔白の与力として大坂の町民には人気があったが、奉行や与力仲間とはその硬骨漢ぶりでそりが会わない事も多かった。
文政6年(1823)には私塾洗心洞を開いて与力や同心、町人、農民など幅広い塾生を集め、経典を説いた。
文政10年(1827)、町内でのキリシタン摘発に尽力して奉行所より厚い信任を得る。
文政12年(1829)に東町奉行・矢部定謙より不正無尽の探索を命じられたため、被害が及ぶのを憂慮して妻と離縁する犠牲を払ったが、無尽疑惑のひとりであった同僚の大坂西町奉行所与力・弓削新右衛門の逮捕にこぎつけ、結果、弓削を自刃に追い込んでいる。以後も活躍は続き、翌年には破戒僧の摘発などを行い、大坂市中にその名を知らしめた。
文政13年(1830)矢部の江戸転任と新奉行の跡部山城守良弼の着任を機に平八郎は養子の格之助に家督を譲り、与力を引退、洗心洞での門人の指導に注力した。これまでの講学だけでなく弓術、槍術、剣術の修練も加えた。
天保になって隠居の身となった後は洗心洞にて門下の指導に注ぎ、当時は京都の文学者・頼山陽とも交流した。
天保7年(1836)、飢饉が大坂にも蔓延、奉行所にも難民救済の訴えが続出した。しかし,富商らは米を買い占めて暴利を得る一方、町奉行は窮民の救済策をとる事もなく,米不足のおりに,大坂の米を町奉行みずから大量に江戸に回送していた。
これを見た平八郎は私物の書籍を売り払った金で自ら窮民の救済に努めた。 折しもこの頃、瓦版にて犬目村兵助らの甲州騒動の事件を知り、強い影響を受けた。
翌年2月17日、平八郎は当時、巨額の利益を得ていた一部の幕閣関係者による不正汚職の告発をしたためた密書を三通、水戸藩主・徳川斉昭、大学頭・林述斎、筆頭老中・大久保忠真宛に送った。
そして19日、救民」と「五三の桐」の紋旗を掲げて窮民救済のため門弟の武士や貧農などの同志ら三百名を動員して武装蜂起したのだ。
天満の自宅から大坂城をめざし、豪家・米穀商を襲撃するなどの打ち壊しを行うと共に、町々に火をつけていった。 この火事は後に「大塩焼け」といわれ大坂全体の約四割を焼き払う大火災となったが、決起そのものは城代・土井大炊頭利位、東町奉行の跡部ら幕軍に一日で鎮圧され、敗走した。 平八郎親子は潜伏を続けながら、先に送った密書に一縷の望みをかけて日々、江戸の動きに注意を払っていたが一向に変化はなく、3月27日、潛匿していた油掛町の美吉屋五郎兵衛の隱宅で西町奉行与力・内山彦次郎らに発見されてしまった。
平八郎は自刃する養子格之助の介錯した上で爆薬を使って自害して果てた。 善を尊んで悪を憎む典型的な剛直さを備えた人物であった。
平八郎が望みを託した三通の密書は、3月4日頃、配達途中で病を患った飛脚の代理人に託されたが、金子を物色しようとして勝手に開封された末、伊豆山中に棄てられた。
この手紙を拾った者が伊豆の代官・江川太郎左衛門(坦庵)に届けたが、坦庵はすぐに宛名のところに届けなかったため、大塩の願いはかなえられなかった。
後に、遺体が公衆に晒されたが大塩親子本人であるのか明瞭に判別出来ない程だった事から、当時は民衆の間で「大塩生存」の噂が絶えなかったという。
大坂という重要な直轄都市で,幕府の元役人であった武士が主導して,公然と武力で反抗した事は,幕府や諸藩に大きな衝撃をあたえた。 その波紋は全国におよび,国学者が大塩の門弟と称して越後柏崎で代官所を襲撃したり,各地に大塩に共鳴する一揆が起こるなど,不穏な動きが続いた。
この年「大塩の乱」に影響されて備後で800人が、越後では国学者生田萬が「大塩門弟」を名乗って農民らと共に、更に摂津農民2千人を引き連れた山田屋大助らが蜂起した。
当時配布された「檄文」は大名から民衆まで密かに伝わった。また大塩父子が事件後しばらく潜伏していたため、人相書が各地に手配され、大塩決起の情報は短期間のうちに全国に広く伝わった。
江戸には早飛脚で4日後の2月23日には伝わった。
長引く飢饉で世情が騒然としていたため、幕府は江戸での同調者の騒乱を恐れ、町奉行、寺社奉行、勘定奉行などに警戒を強めるよう指示した。
結局江戸では大きな騒乱にならなかったが、浅草寺の僧侶など六人が、この関連で捕らえられ、照寛、尭月、吉蔵の三人が江戸払い、無宿者の恵隋が入墨追放、湯島六丁目平右衛門店の忠兵衛、神田小柳町源六店の柔八郎こと八右衛門が急度叱の処分となった。
しかし、大塩事件の影響は大きく、「大塩父子はまだ死んでいない。」、「京で見つかった遺体は替え玉」、「八丈島に渡り、再起を図っている。」などのデマが流れ、各地でこれを真似た蜂起が頻発した。
幕府は大塩事件が単に大坂の事件にとどまらず、幕府の根幹を揺さぶるような大事件である事を認識し、六月七日、大坂の町奉行所ではなく、江戸の評定所一座にこの一件の吟味を命じた。
評定所は勘定奉行、寺社奉行、南北町奉行、それに目付が加わり、重要な案件を吟味する、いわば最高裁判所のような機関であった。 この審問にあたったのは間部下総守、井上河内守、筒井伊賀守、大草能登守、内藤隼人正、池田将監等であった。
7月16日から召喚された関係者(大岡紀伊守忠愛が預かっていた平山助次郎および大坂から送られて来た7人)の審問が始まった。
大坂から押送されて来たのは吉見九郎右衛門、同倅栄太郎、河合八十次郎、大井正一郎、安田図書、大西与五郎、美吉屋五郎兵衛、同妻つね達であり、これらの者達の道中には大坂町奉行所の与力、同心20余人が厳重警固に充てられた。。
この他、西村利三郎を連れて伊勢から仙台に往き、江戸で利三郎が病死するまで世話をした黄檗の僧剛嶽、江戸で西村を弟子にした橋本町一丁目の願人冷月、西村の死骸を葬った浅草遍照院の所化(しよけ)堯周等も呼び出されて取調をうけた。
次いで評定所から評定所留役(山本新十郎および白石十太夫)を大坂に派遣して、江戸、大坂両方で取り調べた。
罪案が定まって老中に上申されたのは翌年の天保9年閏4月8日で、江戸に送られた罪人に宣告のあつたのは8月21日であり、ただちに南町奉行所年番方与力仁杉五郎左衛門外9人の与力・同心が伴って大坂に護送された。
大坂にいる罪人への判決書も江戸から大坂に送られ、9月18日大坂町奉行所で申渡された。 その総数は500人にも及んだ。
死罪、磔、晒しなどの処刑は飛田で行われた。
なお、9月1日付けで評定所メンバー(寺社奉行 牧野備前守 、青山因幡守
、町奉行 筒井紀伊守、大草安房守 、勘定奉行 深谷遠江守)から事件関係者に対し、「骨折に付き」ということで賞金が授与されている。
史料「浪華姦賊罪案」によれば大坂まで出向いて審理した山本新十郎には金弐枚、白石十太夫には金十五両下されたとある。
事件に関与したと嫌疑を受けたものは数百名におよび、大坂与左衛門町の牢屋敷内に新牢を建てなければ収容できなかったという。乱の参加者はほとんど捕らえられ、獄中で死亡した者が多かった。
江戸にも波及して多くの者が捕らえられた。江戸の奉行所にっても大きな事件であり、幕藩体制にも大きな衝撃を与えた。
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