他の資料に見る仁杉家出自              トップ

武将系譜辞典
 ホームページ武将系譜辞典の北条氏康家臣概略には家臣団を衆別に記載しており、この中の伊豆衆の項に
伊豆衆 清水氏笠原氏、秩父氏、伊東氏、仁杉氏、山中氏、村田氏、江川氏、高橋氏、鈴木氏

とある。
 さらに北条家人名録(2600人)を見ると下記のように伊東氏に続いて仁杉氏の名前がある。

伊東祐光工藤祐宗子祐光孫祐時曾孫祐経玄孫祐次耳孫狩野家次昆孫維次仍孫維職雲孫八郎左衛門
   祐熈祐光子
   祐春祐熈子
   祐茂祐熈子薩摩六郎
   祐堅祐茂子
   家祐祐堅子
   祐遠祐堅子伊賀
   祐範祐遠子 
   祐実祐範子
   祐員祐実子九郎次郎
   祐尚祐員子九郎三郎御馬廻衆0227.286貫 
   政世15571628祐尚子九郎三郎右馬全英仕徳川家康槍奉行
   時吉政世子
   政次時吉子
   政勝政世子
   祐泰政勝嗣時吉子
   祐信祐尚子
   信重祐信子
   重元信重子
   弘祐祐尚子
   祐久弘祐子

   祐吉弘祐子
   祐信弘祐子祐久嗣?
   祐次祐尚子
   九郎五郎太郎兵衛伊豆衆95貫
   円覚
   祐範延文頃
   安国**1334盛安子祐兼孫家長曾孫祐光玄孫祐清耳孫祐親昆孫工藤祐隆仍孫常陸祐熈?朝高?
   祐明**1358安国子五郎小次郎左衛門祐茂?
   祐朝**1376祐明子左衛門祐堅?
   祐光**1422祐朝子次郎左衛門朝光祐遠?
   祐盛**1454祐光子左衛門祐範?
   祐春祐盛子左衛門仕足利政知
   祐元**1529祐春子太郎左衛門祐光仕伊勢盛時
   祐通**1542祐元子六郎玄蕃

仁杉幸通15211591伊東祐通子六郎伊賀直通伊豆衆60貫
   幸高15511623幸通子与兵衛五郎左衛門宗開
   幸重**1663幸高子八右衛門
   幸勝幸重子与兵衛
   幸■幸通子右近
   幸教幸通子半兵衛
   正通伊東祐通子五郎三郎 御馬廻衆20貫
   定通伊東祐通子七郎左衛門

         資料の中の4桁の数字は生年、没年と考えられる。
 
 これを系譜にすると次のようになり、「本朝武家諸姓分脉系圖」「諸氏本系帳」との相違点はない。
伊東祐元ーー伊東祐通ーー仁杉幸通ーー仁杉幸高ーー仁杉幸重ーー仁杉幸勝
                ーー仁杉幸■(右近)
                ーー仁杉幸教(半兵衛)
          ーー仁杉正通(五郎三郎 御馬廻衆20貫)
          ーー仁杉定通(七右衛門)

 幸通・幸高はともかく、幸重・幸勝は江戸時代になってからの人であり、北条家臣ではない。これは江戸時代になってから編集された資料で、ついでにその祖先や子孫まで書いたものか。
 正通と定通は幸通の弟であるが伊東祐通の子。 何故伊東家のところでなく仁杉家のところに名を連ねているのか?。
 幸通のところに「
15211591伊東祐通子六郎伊賀直通伊豆衆60貫」とあるが、
@幸通の生年について記されている資料は稀。1521年は永正18年で8月23日に大永と改元されている。
A没年はこれまで他の資料では天正20年(1592)9月20日となっており、1年違う。どちらが正しいか?
B「直通」という別名があったことは他の史料に見られない。
資料の中の4桁の数字は生年、没年と考えられる。

古樹紀之房間
 古代史一般や古代中世の氏族系譜を研究する古代氏族研究会のサイト「古樹紀之房間(こきぎのへや)」の「藤原氏概観」の中に下記のように仁杉氏についての簡単な記述があった。

@為憲流
南家の流れで木工助為憲の後というが、廬原国造・伊豆国造・遠江国造・久努国造・和邇部など近隣古族の末流の系がいくつか混入したことも考えられ、系譜は判然とし難い。
 工藤−伊豆、伊勢、甲斐や陸奥の岩手・糠部郡等にあり。工藤一族では、甲斐に石岡、松岡、横溝、渋見など、甲斐工藤の分れで陸奥国岩手郡の厨川〔栗谷川〕、葛巻、田頭、福田、坂牛、穴沢、田所、煙山、飯岡や、糠部郡の名久井、島森など。伊東−伊豆国田方郡から日向に遷住して大いに発展、武家華族(ただし、伊東の系図には疑問もあり、三上氏族を参照のこと)。伊東一族には、相模に早川、信濃に有坂、備前に三石、石見に稲用、播磨に長倉、日向等に田島、門川、木脇、森田、守永、八代、清武、佐々宇津、小松、右松、宮崎、曽井、日智屋、佐土原、深歳など、伊勢国安濃・奄芸郡の伊東一族には長野、分部、石原、細野、雲林院、丸山、川北、中尾、草生、家所など、陸奥の安積郡に安積、片平、大槻、富田、中地、横沢、日和田、郡山、名倉、早水、小原田、前田沢、川田、麻野、窪田など。宇佐美−伊豆住、分れて越後にあり。横溝−甲斐の工藤一族で、陸奥糠部郡に住。久須見〔葛見〕−伊豆国田方郡人。河津、小河、伊豆、大川−伊豆人。仁杉−駿河国駿河郡人。小名−遠江人。越後越中の河田は、伊東祐親後裔と称。
 さらに同HPに 駿河の仁杉氏とその一族 というページを新設、仁杉氏の出自について解説していただいている。
1 貴HPを初めて拝見しましたが、多くの点でたいへん丁寧に調べられておられ、感服しました。これまでご研究の過程で多くのご苦労があったものと推されます。そのため、私としてはあまり参考になることは提示できませんが、以下に感触だけ記すことにします。
 (蛇足的にいいますと、系図記事の読取りにやや難があって、HP上で■となったり若干の誤記が見られるのは惜しまれます。いずれ時間ができれば、■の解消にご協力できるかも知れません。)
 
2 私は長い間、多くの系図関係史料を見てきましたが、仁杉氏の系図について管見に入ったのは、鈴木真年翁の『諸氏本系帳』(東大史料編纂所所蔵)だけでした。ご質問を受けて、真年翁が他の著作において関係する系図を掲載していないかを当たってみましたが、見当たりませんでした。
 
3 仁杉という苗字は、鮎沢川中流左岸の駿河国駿東郡仁杉(現御殿場市仁杉で、御殿場市街地の西北)に起こりますが、苗字発生の時期が相当遅く、鎌倉・南北朝期までの史料には見られません。この地名自体が史料で確認できるのは、江戸期以降のようです(『角川日本地名大辞典』)。
  鮎沢荘から黄瀬川流域のかけての大沼鮎沢御厨を中心に繁衍した大森・葛山一族の苗字のなかにも、仁杉は見えません。貴HPに見えるように、応永の頃の伊東治郎左衛門朝光が実質的な祖先とみられますが、戦国後期に北条氏康に仕えた幸通の代になって始めて仁杉六郎(伊賀守)と名乗ったようであり、系図探究にあっては、それまでの苗字「伊東」とその一族を調べたほうがよさそうです。
  なお、貴HPで比較されている2つの系図のうち、『諸氏本系帳』のほうは世代数が実際より少ないようで、所伝から見ても、『本朝武家諸姓分脈系図』のほうに優れた内容があると考えられます。
 
4 伊豆国の東海岸北部の葛見(久須美、楠美)荘に起った伊東氏についても、その発生段階(平安後期・鎌倉前期)については良本の系図がありません。もともと工藤氏とは別族であったという背景事情からしてやむを得ないとも考えられ、伊東も工藤も、藤原南家為憲流というのは系図仮冒だとみられます。『曾我物語』の記述が『尊卑分脈』などの系図史料と符合しないのも、こうした系図の混乱の現れですが、前者にも既に疑問点があります。
 
5 伊東氏の系図については、手元に具体的なメモはありませんので極めて不確かで恐縮ですが、次の系図史料を当たられると、あるいは何らかの収穫があるかもしれません。
  国会図書館に同名の『本朝武家諸姓分脈系図』という系図集(B)があります。これは、貴HPに引用される史料編纂所所蔵のもの(A)との異同を詳しくできませんが、Aが五冊の系図集であるに対し、Bは多数の冊数(全体が何冊あったかメモにありませんが、300冊ほどか)があり、昭和八年八月十日根岸信輔氏寄贈と記されます。このBのほうの系図集にいくつか伊東氏関係の系図が記載されており、少なくともその第170冊に伊東(伊東祐清後裔)、第254冊に伊藤、第273冊に河津(伊東祐信後裔)といった系図があったとメモに残っております。

そのほかで、何か分かることが出てきましたら、またHPのほうに掲上したいと考えています。
  (03.11.27 掲上)


伊達家遠祖の出自論で「仁杉系図」に言及
伊達一族の起源に関する論文の中で「仁杉系図」が言及されている。
伊達氏の遠祖・八田氏と仁杉氏の遠祖伊東氏の関係に触れたもので、伊東祐親の兄(祐経の父)祐継の母が八田氏の出であるという注釈に注目している。
下記に一部引用する。  
   http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keihu/datekei/date2.htm参照
2 伊達氏の遠祖と出自についての試論

(前略)
ここまでの認識があれば、また新しい資料に気がついてくる。それは、鈴木真年翁編の『諸氏本系帳』四(東大史料編纂所蔵)に所収の「仁杉系図」であり、仁杉氏は伊豆の伊東祐親(曽我兄弟の祖父)の子、伊東九郎祐清の後裔から出ている。同系図では、祐親の兄の伊東武者所祐継(工藤祐経の父)の註として、「母八田七郎藤宗基女」と記される。八田七郎藤宗基という者については、他書に見ないが、氏名からみて宇都宮座主宗円の一族ではないかと推される。これに、工藤祐経の外曾祖父という世代を考えれば、十二世紀前葉ごろの人で、宗円の兄弟くらいの位置にあったとみられる。宗円の子、八田宗綱より前に八田氏を名乗る者がおり、しかも藤原姓を称していたということの意味は大きいものと考えられる。
(後略)