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仁杉家の系図は現在までに次の4点が確認されている。
本朝武家諸姓分脉系圖(以下「本朝」)も諸氏本系帳(以下「書氏」)も幕府が直参旗本、御家人各家に提出させたものである。 双方の系図から仁杉家が伊豆半島の土豪であった伊東氏の支流であることがわかる。 この系図の成立時期については、9代目五郎左衛門の前代までは詳しく書かれているが、五郎左衛門についての記述は少量で、且つ、その子などについての記述がない事から、五郎左衛門が家督相続した初期、おそらく享和または文化初期に提出したものと考えられる。 家蔵のものでなく幕府に提出されていた「本朝」と「諸氏」を中心に比較してみる。 平安時代
伊東氏を祖先としているので伊東氏の系図をそのまま写している可能性があり、そのため両系図 はほとんど同じであるが、唯一「諸氏」には家継と祐親の間に祐家が入っている。 本家・伊東氏系図では家継(家次)と祐隆は同一人物としており、その後祐家、祐親と続いている。
ところが幸通の2代前でまた一緒になるという奇妙な一致を見せている。 「諸氏」で祐兼の次代としている朝高は「本朝」では祐兼の嫡子であるが、建長8年11月に鎌倉合戦で討ち死にとなっている。「諸氏」ではこの家系が仁杉氏であるとしているが、「本朝」ではこの朝高の弟・盛安の家系を仁杉家としている。 「本朝武家諸姓分脉系圖」の仁杉家系譜の中に「伊東氏」の家系が併記されている。 これは祐清の次の代から分かれており、弘業とその先代光種は伊豆守となっており、明らかに仁杉家より「格上」の家系である。しかし何故か伊東弘業の代で途絶えている。 この家系が仁杉家の家系図に併記してあるのは何故か、仁杉家とどういう関係があるのかはわからない。 なお、この伊東氏の家系図は下表のように、これまで石巻仁杉家に伝わるとされる系図に似ている部分がある。仁杉圓一郎氏作成の系図によれば歴代の当主は下記のとおりあり、伊東家の系図に登場する名前と共通する名前が多い。 ただしその順序はかならずしも同じでない。
尚、伊東氏の家系の中に弘業という人がいる。本朝武家諸姓分脉系圖には
仁杉宰司氏(圓一郎氏の父)の調査資料にも弘業について同じような記述がある。 昭和50年5月20日、調査結果を大乗寺住職に報告した手紙の中に
永正8年は1511年であり、幸通が生まれたのが1520年頃と考えられるから、弘業が幸通の父であるということは年代としては合っている。 しかし、兄隆業が夭逝とあるが、「本朝」では隆業は伊東新四郎掃部介越後守という立派な官命を名乗り、夭逝していない。 しかも弘業の孫にあたる。 このあたりは史料によって記述がまちまちであり、本当のことがわからない。 弘業が「大内義興の寵童」という記述は興味深いが、男色はこの時代の武将にはよく見られ、珍しいことではないので、公文書の系図にも記述されるのであろうか。 |