系図の比較       トップ

 仁杉家の系図は現在までに次の4点が確認されている。

本朝武家諸姓分脉系圖 東大史料編纂所   所蔵
諸氏本系帳 東大史料編纂所   所蔵
仁杉氏 系図 世田谷仁杉家   所蔵
仁杉家 系図 * 石巻仁杉家    所蔵
              (*仁杉圓一郎氏が作成した系図。 但し現物は確認できていない。) 

 本朝武家諸姓分脉系圖(以下「本朝」)も諸氏本系帳(以下「書氏」)も幕府が直参旗本、御家人各家に提出させたものである。
 双方の系図から仁杉家が伊豆半島の土豪であった伊東氏の支流であることがわかる。
 この系図の成立時期については、9代目五郎左衛門の前代までは詳しく書かれているが、五郎左衛門についての記述は少量で、且つ、その子などについての記述がない事から、五郎左衛門が家督相続した初期、おそらく享和または文化初期に提出したものと考えられる。

 家蔵のものでなく幕府に提出されていた「本朝」と「諸氏」を中心に比較してみる。

平安時代 

本朝武家諸姓分脉系圖 為憲―時理―時信―維永―   維職―家継―祐隆―   祐親ー祐清
諸氏本系帳 為憲―時理―時信―維永―維景―維職―家継―祐隆―祐家―祐親ー祐清
仁杉氏系図 為憲―時理―時信―維永―維景―維職―家継―   祐家―祐親ー祐清
石巻仁杉家 系図 為憲     (6代略)      家継   ー祐家ー祐親ー祐清

 伊東氏を祖先としているので伊東氏の系図をそのまま写している可能性があり、そのため両系図
はほとんど同じであるが、唯一「諸氏」には家継と祐親の間に祐家が入っている。
 本家・伊東氏系図では家継(家次)と祐隆は同一人物としており、その後祐家、祐親と続いている。

鎌倉から戦国時代まで
本朝武家諸姓分脉系圖 祐光―家長―祐兼―盛安―安国―祐明―祐朝―朝光―祐盛―祐春―祐元―祐通―幸通
諸氏本系帳 祐光―祐兼―朝高―祐守―祐X−祐茂―祐堅―祐遠―祐範   ―祐元―祐通―幸通
仁杉氏系図 祐光       ― 省略                      ―幸通
石巻仁杉家 系図 祐光ー祐種ー祐家ー種家ー曽阿ー興光ー勘解由ー氏澄ー隆業ー光種ー弘業ー隆載ー幸通
    
 祐光以降、鎌倉時代から室町時代の系図には「本朝」、「諸氏」それぞれ別の名前が続き、まったく別の家系に見えるほどである。
 ところが幸通の2代前でまた一緒になるという奇妙な一致を見せている。

 「諸氏」で祐兼の次代としている朝高は「本朝」では祐兼の嫡子であるが、建長8年11月に鎌倉合戦で討ち死にとなっている。「諸氏」ではこの家系が仁杉氏であるとしているが、「本朝」ではこの朝高の弟・盛安の家系を仁杉家としている。 
        
「本朝武家諸姓分脉系圖」の仁杉家系譜の中に「伊東氏」の家系が併記されている。
 これは祐清の次の代から分かれており、弘業とその先代光種は伊豆守となっており、明らかに仁杉家より「格上」の家系である。しかし何故か伊東弘業の代で途絶えている。  
 この家系が仁杉家の家系図に併記してあるのは何故か、仁杉家とどういう関係があるのかはわからない。 
 なお、この伊東氏の家系図は下表のように、これまで石巻仁杉家に伝わるとされる系図に似ている部分がある。仁杉圓一郎氏作成の系図によれば歴代の当主は下記のとおりあり、伊東家の系図に登場する名前と共通する名前が多い。 ただしその順序はかならずしも同じでない。

       本朝武家諸姓分脉系圖 諸氏 本系帳 仁杉圓一郎氏の系図
    仁杉家  伊東家
為憲
時理
時信
維永
維職
維継

祐隆(狩野四郎太夫)
祐親(伊東久次郎)
祐清(伊東久郎)
祐光(伊東四郎)
家長(伊東小太郎)
祐兼(伊東八郎左衛門)
盛安(伊東・駿河静岡)
安国(伊東 常陸?)
祐明(伊東五郎)
祐朝(伊東左衛門佐)
祐光(伊東治朗左衛門)
祐盛(伊東左衛門尉)
祐春(伊東左衛門佐)
祐元(伊東左衛門尉)
祐通(伊東太郎玄蕃元)
幸通(伊東六郎、仁杉伊賀守)




 祐清までは左と同じ



祐光(狩野、伊東四郎)
祐兼(伊東八郎左衛門)
祐信(伊東次郎三郎)
祐種(伊東三郎)
曾阿(為僧時宗坊)
某(伊東又次郎)
某(伊東勘解由)
光種(伊東次郎三郎掃部助伊豆守)
弘業(伊東次郎三郎伊豆守)
興光(伊東次郎三郎)
隆業(伊東新四郎掃部介越後守)
隆載(河津三郎)
氏澄(河津二郎利丞)
吉大夫   
 この後の記述なし

為憲
時理
時信
維永
維景
維職
維継
祐隆
祐家
祐親
祐清
祐光
祐兼
朝高
祐守
祐X
祐茂
祐堅
祐遠
祐範
祐元
祐通
幸通
為憲
 6代略




家継 ・
祐家 ・
祐親(伊東二郎)
祐清(伊東九郎)
祐光(狩野四郎 信濃守)
祐種(河津三郎、掃部介)
祐家(河津三郎 伊豆守)
種家(河津三郎)
曽阿
興光
(又次郎)河津四郎
勘解由(河津二郎)
氏澄(河津二郎)
隆業(越前守)
光種(河津二郎三郎)
弘業(河津三郎伊豆守)
隆載 夭逝)
幸通
        
 尚、伊東氏の家系の中に弘業という人がいる。本朝武家諸姓分脉系圖には  
仕大内左京大夫義興為寵童十六歳 永正8年8月24日於洛陽船岡山軍仍有戦功賜西郷三百町任伊豆守
とあり、京都で大内義興に寵童として仕えたが船岡山の戦いで功をあげ、西郷(どこか特定できず)に300町を賜り、伊豆守に任じられたという。

 仁杉宰司氏(圓一郎氏の父)の調査資料にも弘業について同じような記述がある。
 昭和50年5月20日、調査結果を大乗寺住職に報告した手紙の中に
幸通の父は伊豆守弘業にて永正8年8月24日の洛北船岡山の戦いに16歳にて功を樹て伊豆西郷三百町を賜り伊豆守を拝命せりとあります。兄の隆業ありたるも夭折し、其の妻は鎌倉東慶寺に入りたる様子です。
とある。
 永正8年は1511年であり、幸通が生まれたのが1520年頃と考えられるから、弘業が幸通の父であるということは年代としては合っている。
 しかし、兄隆業が夭逝とあるが、「本朝」では隆業は伊東新四郎掃部介越後守という立派な官命を名乗り、夭逝していない。 しかも弘業の孫にあたる。
 このあたりは史料によって記述がまちまちであり、本当のことがわからない。

 弘業が「大内義興の寵童」という記述は興味深いが、男色はこの時代の武将にはよく見られ、珍しいことではないので、公文書の系図にも記述されるのであろうか。