原一杉家         トップ

 沼津市には全国の市町村の中でもっとも多く一杉姓が集中しており、全国428世帯のうち実に102世帯が沼津市に住んでいる。 特に旧原町三本松という地域に集中しており、旧東海道の宿場町の面影を残す原の街を全国の一杉さんの4人に1人が歩いていることになる。

三本松地区

旧東海道と東海道本線が交差するあたり

 「原ルネッサンスの会」と「原地区コミュニティ推進委員会」が平成11年に共同刊行した小冊子「原の屋号」によれば、三本松地区には全部で18軒の屋号を持つ旧家があるが、そのうち12軒が一杉姓を名乗っており、まさにこの三本松は一杉氏のメッカとも言える地である。
 「原の屋号」に三本松が次のように紹介されている。

三本松地区は、大塚本田、大塚新田との三部落で大塚町を構成していた。
明治22年、大塚町は原宿(東町、西町)、一本松新田、助兵衛新田、植田新田と共に合併して原町となった。
古くは、かって三本松地区内にあった清原庵に宛てた永禄元年(1553)の今川義元の朱印状などには駿河国阿野庄大塚郷と記されており、また神明宮内にある元禄6年(1693)の庚申塔の中には駿東郡阿野庄三本松村と刻まれ、享保3年(1803)の東海道分間延絵図には出村 三本松新田 (街道の)南側15軒、北側10軒と記されている。
江戸時代に入り、原宿の整備・新田開拓に伴い、行政面では大塚町に属しながらも、分離・独立した大塚町の出村としての三本松村を形成していたと考えられる。
部落内には三本松の氏神である伊勢神明宮(享和14年創建)がある。
地名由来は、昔、街道松並木の中に3本の老大木があったことによるという。
平成に入ってからの三本松地区の世帯数321、人口は1079人である。

大正時代と現在の三本松地区  

 下は大正年間と現在の三本松地区の家並を示す図である。  
 大正年間の図は三本松出身で大一製菓(神奈川県茅ヶ崎市)の創業者となった一杉和一氏の自叙伝 「古希」に掲載されている大正時代の三本松地区の家並である。
 南北が反対になっているが、なんと海側22軒のうち14軒、山側20軒のうち13軒が一杉さんである。現在よりもっと一杉さんの比率が高かい集落であった。
 現在の家並図は住宅地図の一杉姓の家または店を黒く塗りつぶした。大正年間の図に合わせて南北を反転させている。
 東西に走る旧東海道に沿って多数の一杉さんが住んでおり、今も「一杉さん」の密度が高い地区である。

大正10年ごろの家並
現在の三本松地区 (上の地図と比較しやすいように上が南、左が西になっている。)

三本松の一杉家
 三本松地区の古い一杉家を家紋別に表にまとめた。 中には菩提寺に元禄期あるいは天保期からの墓誌が残る古い家系もある。
 その出自についてはさまざまな言い伝えがあり、定かではない。鳥谷から移って来たという家、仁杉家からの分家、水戸藩から沼津藩に輿入れした姫様のお供で来た侍の子孫だと言い伝えがある家もある。

原一杉家の旧家系統表    出典「原の屋号」平成11年

  家紋  屋号  当主    屋号由来・歴史 菩提寺

抱き茗荷

西一杉 西本家

一杉俊忠 ミエ子 元禄年間より続く一杉姓の古い家系 光厳寺
満州屋 一杉亘 12代前(安政年間?)に要右衛門が俊忠家から分家した。長義家とルーツが同じ。 光厳寺
一杉長義 一杉亘家とルーツが同じ、西一杉から分家。4代前に更に分家。光厳寺檀家総代 光厳寺
豆腐屋 一杉 敏 先代が昭和20年ごろまで豆腐屋をやっていた。現在の一杉酒店。一杉亘家からの分家、2代目 清梵寺
一杉利明 明治38年頃沼津市今沢の一杉房吉家より祖父金蔵が出た。原行園と親戚関係 清梵寺
一杉幸雄 祖父金作が明治期、満鉄に勤務していた時、中国人に金運に恵まれる良い名前と言われ、帰国後はじめた店(酒、煙草、菓子)に苗字と名前から一字づつとってつけた。 光厳寺

三階松

 

きくや 一杉真城

先祖は水戸より沼津藩水野家に輿入れした姫君の供侍としてきたと言い伝えがある。屋号は藩籍奉還の後、煙草屋をしているときの店名。
原に多い一杉姓の最初の家だと伝えられている

光厳寺

下がり藤

 

東の隠居 一杉常春 屋号由来は江戸時代、本家の西一杉(一杉俊忠家)から本家の東の土地を分けてもらい、隠居分家したことによる。 光厳寺
タネヤ 一杉忠利 昭和初期、蚕の種を販売していたことに由来。江戸時代鳥谷より移住し、8代目。 光厳寺
隠居屋 一杉 保 天保年間、柏原から養子に来た初代が本家(一杉忠利家)より養親とともに隠居分家。 光厳寺
境道 一杉勇治 屋敷が三本松と今井の境にある 光厳寺

丸に橘 
 

油屋 一杉栄一 明治時代、初代が油屋を営んでいた。現在4代目 昌源寺

元三共製薬常務の一杉安廣氏は先代がタネヤから分家。元大一製菓会長の一杉和一氏は隠居屋の出。

原一杉家のルーツ? 一杉申平家

 上記「きくや」の一杉真城家では、@祖先は沼津水野藩の家来だった、という言い伝えがあり、さらに
 A水戸家から沼津水野家に輿入れした姫君に供侍として付いて来た。
 B明治5年に国民全員が苗字を持つ事になった際、苗字のない部落民が一杉申平家にならって  皆「一杉」姓になった。
という伝承もある。
 そこで沼津水野藩の家臣名簿を調べたところ水野藩の一杉氏で紹介するように、沼津水野藩が明治維新の時に上総菊間に転封となった際に作成された菊間藩転籍者名簿に「一杉申平」という家臣名が確認され、「きくや」の伝承@が正しいことがわかった。
 しかし、水戸家から供侍として沼津にやってきたという伝承は水戸側からも沼津側からも確認できなかった。 但し水戸家に「仁杉」姓の家臣が江戸中期まであった事は事実である。
       水戸中納言に仕えた仁杉家
参照

 苗字を持たない部落民がこぞって一杉を名乗った、という伝承Bが本当かどうかわ判断が難しい。
 江戸時代、武士などの特権階級以外は名字帯刀を許さないことが幕藩制度の根幹となる身分制度の象徴となっていた。
 しかし、明治新政府は四民平等の社会を実現する方針に転じ、明治3年(1870)9月、農民や町人も名字を許す太政官布告を出した。
 さらに翌明治4年4月には戸籍法が制定され、政府はその方針にもとずき明治5年2月から戸籍作りに着手した。明治5年が壬申だったため、このわが国最初の近代戸籍は壬申戸籍と呼ばれている。
 これまで名字をもっていなかった人たちも含め、すべての国民が名字を持たなければならない事になった。
 この時、名字をもたなかった三本松の人たちは、何姓を名乗ったら良いかわからず、村の中で唯一、名字を持っていた「きくや」の「一杉」姓にならい、「うちも」、「私も」と一杉姓になったという説である。
 「きくや」は沼津水野藩の侍だった一杉勝治が、廃藩置県後開業した煙草屋と伝えられる。
 これは、先般訪問した沼津市原地区センター内の図書館の係員が昔聞いたことがあると話してくれた推測である。
 ありうる話ではあるが、江戸時代の庶民の名字について調査をしてみると、農民や町人がかならずしも名字を持たなかったという事ではないようだ。
 農民などが名字を名乗ることが許されていなかったのは公式の場、文書などであって、実際には「名字を持っていない農民は例外」(武光誠著 名字と日本人 文春新書)であったようだ。
 各地に残る寺の本堂普請の寄進帳、富士講の名簿、神社の奉納者名簿などには殆どの農民が名字を名乗っている。役所などに提出する文書には名字を書かなかったが、これはお上をはばかっての事であり、上記の寄進名簿など私的目的の文書には堂々と名字を名乗っていた、というのが真相のようだ。

 「きくや」以外の三本松の一杉家が江戸時代に苗字を持っていたかどうかが、この伝承Bが事実かどうかの解を与えてくれる。


菩提寺の光厳寺
 
沼津市鳥屋の光厳寺は三本松の多くの一杉家の菩提寺となっている。
 光厳寺はもともとは根古屋にあったが、北条早雲が興国寺城を拡張するにあたって、鳥屋に移転させられ、その後、家光の時代に荒原(あわら)と呼ばれていた現在の地に3000坪の土地を拝領して建立されたという。
 菩提寺といっても多くの一杉家の墓地は寺の中には少なく、三本松の海岸にある防風林の近くにある。
  光厳寺で江戸前期より伝わる過去帳を調べたが一杉家の起源を知る手がかりは得られなかった。

我国最初の国勢調査
 我国の近代的な統計手法による国勢調査の草分けとも言える人口調査が維新直後に沼津と原で行われ、その資料が国立国会図書館に保管されていることがわかった。
 維新直後の三本松一杉家の起源について何か手がかりが得られるかと思ったが、調査原票の所在がわからず、統計結果だけしか残っていないため手がかりはなかった。
 しかし、この明治2年の原町人口調査の対象となった町民約2500人のうち少なくとも1割以上は一杉姓であったことが推定されるので、統計結果を掲載しておく。

駿河原政表の概要
 この表記は駿河国沼津、原二箇所の人別調べなり。徳川氏の駿遠に移り新政を施すに際し明治2年、先生の建議に因りて実行し漸次全封に及ぶを期せられしものにして我国現在人別帳の濫觴と称すべき今や諸政欧州の制度に著々進歩するも国勢調査所謂センサスに居たり手は未だ実行の期を見ず。然るに三十年前封建割豫の遺習未だ除かざるの時に当り仮令一小部分の調なりと雖も実地に之を施行せられしは其識見の卓偉なる。あに賛嘆せざるを得んや乃ち此に附載して其典型を示すと■り。
 沼津政表    略

 原政表     概要
駿河国駿東郡原

   町数  3
明治2年6月22日より同28日までの調
男   1273        男百人に女の比例
女   1259      98人9分
0−4 5−9 10代 20代 30代 40代 50代 60代 70代 80代  合計
 105 128 289 238 142 177 104 59 19 1273
 126 132 198 217 139 155 102 63 23 1259
 10代  20代  30代  40代  50代  60代 70代 80代 合計
妻ある男   1   79   96   134   71   33   8   1 423
夫婦
20才以上の未婚者 離縁せしもの 再縁せし者 配偶者死せし者  計
107 14 31 36 188
74 40 34 111 259
原の生まれ 駿河国内 伊豆 遠江 甲斐 武蔵
1159 12
1162 12 16
 
宗教宗教 禅宗 時宗 日蓮宗 浄土宗 真言宗 合計
1221 237 929 15 127 2529
 
家屋の状況 地持家持 借地家持 借家 空家 合計
140 279 21 440
            一戸につき5.74人
 主僧侶      農      工          商     他
  神主   3
  僧侶尼 18 
 自作 188
 小作 216
     23     108    32  
   入稼      出稼
  男     10       12
  女      7       17

我国の統計学の開拓者、近代的統計調査の先駆者、そして統計教育の先覚者といわれる杉亨二は大政奉還で徳川宗家が駿府に転封となったのに従い、慶応4年、駿河に移住した。
ここで日本の国勢調査の草分けともいえる「駿河国人別調」を行った。
沼津奉行の阿部國之助、静岡奉行の中臺伸太郎に献策して、明治2年(1869)に家別票(「世帯票」)を用いた「駿河国人別調」(人口調査)を実施した。
日本の国勢調査の草分けともいえる調査だったが、藩の重役による「封土人民奉還の後であるから朝廷で為さらぬ事に当藩で斯様な調べをするのは宜く無い」という妨害があって中止のやむなきに至った。しかし、調査対象が少なかった沼津と原の分だけが集計され、「駿河沼津政表」「駿河原政表」という形で国会図書館に残っている。
この調査は宗門改帳という家別のデータをまとめたものである。
この原票があれば明治維新の時代に原に居住していた一杉家の全容があきらかになる。方々の機関に問い合わせているが、残念ながら所在はまだわからない。