仁杉圓一郎氏の資料(2)    トップ 

 仁杉圓一郎氏は長年にわたり仁杉家の歴史について調べて来られ、貴重な資料と論文を提供いただいている。
 しかし、その中で疑問に思われる個所がいくつかあり、その主な点について問い合わせをした。
 管理人が納得のいかなかった主な点は次の3点である。

幸通は北条家臣にあらず 圓一郎氏は「仁杉家の始祖・伊賀守幸通は北条家の家臣ではなく、伊豆国主。北条家の委託を受けて武田領と北条領の緩衝地帯である駿東郡を管轄」と主張している。
しかし、幸通が北条家の家臣であったことは多くの史料、歴史学者が認めている事であり、「伊豆国主」、「駿東郡管轄」などを裏付ける史料は見当たらない。
勝安からの家督返還 幸次死去のとき「源兵衛が幼少だったため家督を一時勝安に預けたが、家督が返還されなかった」と主張されているが、「本朝」「諸氏」でも幸次直系に家督返還されたとある。 源兵衛は幸次死亡の時、すでに28,9歳。家督相続できない年ではない。
仁杉家は江戸時代を通じて駿東郡領有 「裾野仁杉家は江戸時代を通じて駿東郡を領有していた」と主張しているが、この地域は沼津藩、小田原藩、旗本領、幕府領が入り乱れていたが、領有形態ははっきりしている。仁杉家が「領有」していたとする史料はまったくない。

 この3点の質問に対して圓一郎氏から長文のお便りをいただいた。
 
 この回答の中で圓一郎氏は東大資料編纂所にあった仁杉家の家譜(以下東大系図)には誤りが多く、「辻褄合わせ」の系図だとしている。
 東大系図では幸通以前の祖先は伊東氏であるとしているが、圓一郎氏によれば、伊東氏は傍流であり、工藤氏本流の河津系が仁杉氏の祖であるとしている。
 また、東大系図では、幸次が弟勝安に一時預けた与力職は後年、幸次の息子に返還されている事になっているが、圓一郎氏の解釈によれば、系図をうまく書き直したもので勝安が与力職を返したのは幸次の子ではなく勝安の子であるという。
 駿東郡領有に関しては、「言い伝えがすべて」ということである。

 全体的にはこのホームページで本朝武家諸姓分脉系圖に沿った記述をしていることに対して不快感をにじませた回答であった。
 このホームページの内容は必ずしも東大系図が100%正しいとしている訳ではなく、このような史料があるというスタンスで紹介しているつもりである。
 あの百姓の倅の秀吉も家系図になるととんでもない高貴の出になるのは例外としても、江戸時代、武家が幕府に提出した系図は多かれ少なかれ、捏造、作文があったのは確かであろうと思われる。
 圓一郎家に伝わる家系図をまだ見ていないので何とも云えないが、どちらが史実なのか、今になってはわからない。このような場合は両論併記として後世に残すつもりである。
 
 以下、圓一郎氏の解釈、主張をほぼ原文のまま紹介するが、
青字部分は見易いようにHP管理人が追加した。

一杉勝様
                                仁杉圓一郎
 厳寒の候一杉様にはご健勝にてお過ごしの事と存じ上げます。私事ながら同期生の市長選出馬にて多忙を極めご連絡遅くなり失礼致しました

東大史料(本朝武家諸姓分脉系圖)について
幸通以前の家譜

さて書面を拝見いたしましたが、一杉様は、分家与カ仁杉後孫の傍流の作成提出した辻棲合わせの系譜(東大資料)を持って正当であるとして、当本家系譜の工藤本流河津系は、工藤傍流の伊東系と断定されましたが、重大な影響を及ぽす判断と思います。
当然吾妻鏡他資料各種で確認された上での事と思いますが、本家仁杉家の代々伝わる系図書(巻物)・代々の言い伝え・分家与カ家に伝わる系図書並び、与カ幸信の碑文・氏直の朱印状・太閣記韮山戦言己等の文を全て否定する事となります。私も東大資料の系譜の事は知っております。
一見、よくまとまった系譜に見え、第三者であれば簡単に騙される系譜ですが、不目然な点が多々あります。必要以上に説明文が多い点と、偽作挿入の部分の前後の、子を含めた記載が他の子の記載に比べ多い点等である。
東大資料ということだけで信じるは、危険性があります。昔からもっともらしい系譜は疑って見よと言われます。
このまま放って置こうと思いましたが、仁杉一族の中には一杉様からの連絡でホームベージを見ている者もいるので、後世に残る影響を鑑み、誤りに付いては是正の必要ありと思い、少々の説明をしたいと思います。

さて此の系譜は誰が作成し幕府に提出したかが問題となります。与カ仁杉(ひとすぎ)家の系図巻物には、祐光の次の代より、幸通の前の代迄の記載(12代、360年間)は全くありません。
何故なのでしょうか、偽作と知っていたからだと思います、後世になって幕府への提出系譜が人の目に触れると思わなかったのでしょう。
系図巻物の筆跡から、後世に前の系譜より書き写されたと思います。
武門に在っては家紋は重い意味を持ちます、現在の我々が想像する以上です。使用家紋届けに伴いその家紋に合致する家系であるとする系譜も届けると聞いております。
与カ仁杉(ひとすぎ)家系譜は、伊東系、家紋は丸に亀甲花形とありますが、いつの時代より伊東姓となったのか、又いつの時代より丸に亀甲花形となったのか不思議です。(時代記戴無し)家紋で家系が判るのです。
家紋が子持ち亀甲紋に変わるのは、本家(当家)より言い渡されて、正紋の庵木瓜紋より裏紋の亀甲紋に変わるのは、幸次の弟勝安の代からでありその記載も無い。
祐光を伊東としてますが、そうすると史実とは全く違うことになります。
呼び名を変えられ(ひとすぎに)、家紋を変えられた与カ勝安が本来は分家初代となるのです。
勝安の子が跡を継ぎ、男子に恵まれずは婿養子で繋いでも、男子を以って継承しており、工藤為憲以来800年以上連綿と続いている家系であると思わさしめる作られた系譜です。

家紋ですが、藤原為憲改め工藤為憲の定めし正紋庵胃額(もっこう)裏紋丸に二重亀甲花角紋は、代々伝わり工藤太夫家継(祐隆とも言う)従五位下、河津狩野久須美領、その子に父の名を一字ずつ付け、祐家・祐継を名乗り、祐家は工藤太夫又は伊東四郎とも言い従五位下、その子祐親は河津二郎又は伊東二郎と言い従五位下で平家に与し、その子祐清は河津九郎又は伊東九郎と言い、その子祐光河津三郎へと伝えられる。
祐継はその子祐経の代、源氏頼朝の臣となり工藤本流は我であるとして、工藤祐経と名乗り庵胃額の家紋を用いるも、祐経は建久四年祐清の兄の子祐成・時政兄弟に討たれる。
しかも、建久五年三月頼朝が伊豆願成就院に於いて、工藤祐親と大庭景親の供養をした時、狩野家にて養育せられていた祐清の子、狩野四郎を召し出し、父祐清の跡を継ぎ工藤本流を継ぎ工藤と名乗るを許され、祐光の名を賜り工藤祐光を名乗り、家紋も工藤本流の正紋庵胃額裏紋子持ち亀甲紋を使用せよと許され、河津庄を賜り従五位下信濃守に任ぜられたのである、尚工藤祐経の子祐時・祐長等には工藤姓の名乗るを禁じ、かつ家紋の庵胃額の使用を禁じられる。
河津を賜り河津三郎と名乗り、工藤三郎祐光となった翌建久六年三月、頼朝南都東大寺供養の上洛に従う、供奉人の先陣御随兵三騎相並ぶ行列の中に、十八才と思うが工藤三郎祐光の名が見える(吾妻鏡)。
我が仁杉家は工藤本流河津系であり、伊東系ではないのです。伊東家は他家。
家紋は庵木瓜(胃額)紋であり、此の家紋は祐光一祐種河津三郎道五位下掃部介―祐家河津三郎従五位下伊豆守掃部介と代々続き、幸通従五位下伊賀守へと伝わる、幸通の家紋も庵木瓜(胃額)です、幸通墓に刻んであるのを見られたと思います、幸通より代々続き幸次、幸次嫡子源兵衛へと継承され、現在の当仁杉本家家紋として正副紋として伝わっております。
数々の系譜蓄を見ましたが、祐光の子には家長・祐家・祐政等は見られず、伊東祐継の系に祐兼・祐政があり、同じ伊東祐経の子に祐兼があり、北条早雲に仕えた祐遠系でもなく、諸説の中の一つに祐清の子でなく祐清の弟と記し祐光四郎左衛門尉一祐朝伊東九郎一朝高伊東八郎左衛門尉(日蓮預る)一説にこの系備中伊東の祖とある。
伊東姓は祐継・祐経系、二階堂系、日向系その他数多くあり、歴史家でも諸説あり不明です、多くの専門家は系図は安易に信じ用いるは危険也と言っております。
祐光を伊東姓にして、伊東系を組み合わせたと考えられます。

祐光嫡子左衛門尉家長について
建暦三年和田義盛の反乱蜂起に出陣し尽(ことごとく)軍功有りと記してあるが、祐光が頼朝に召出されるのは建久五年十七歳の時であり、祐光十八歳で妻帯し翌年男子誕生したとしても、建久六年より建暦三年迄は十六年なので、十六歳で出陣し軍功多く有るだろうか、二十歳の子なら十四歳の少年である、特に此の戦い激しく双方で二干人以上の死者傷者が出ている。
健保六年六月二十七日の、実朝の鶴岡参詣に従行した左衛門尉に叙された家長の名が有る(吾妻鏡)
承久元年七月十九日、藤原道家公の患子の鎌倉下向時の迎えの後陣随兵に、左衛門尉家長の名がある。(吾妻鏡)
系譜に記されている和田の乱に出陣した左衛門尉家長、実朝に従行した左衛門尉家長、道家公息子後陣随兵としての左衛門尉家長、はいずれも伊東姓でなく中條姓であり、中條姓で没し嫡子が跡を継いでいる。
上記年月日の行事に伊東左衛門尉家長の名は無い、中條家長を祐光の嫡子として組み入れた系譜である。(挿入偽造)

家長弟祐家について
祐光の子と記されてる伊東七郎祐家が、建暦二年正月十一日頼朝御前での正月弓初めに、二番射手として出たと有るが記載は無い、記録(吾婁鏡)では、二番射手は海野小太郎幸氏と、藤沢四郎清親となっている。
弓上手の十人の無双の精兵によりと記してあり、一人十五射の弓始に十三才か四の又は十才か十一;才の非カの少年がでたとは思えない。
名前も違うし年齢も合わない、これも組み入れた系譜である。(挿入偽造)

家長嫡子祐兼について
伊東八郎左衛門祐兼が寛元四年八月頼嗣八幡宮参詣従行とあるが該当者無し、伊東六良陸衛門原祐盛の記載あり(吾妻鏡)(変名)

以上の事から、祐光の子と記されている家長・祐家・祐政は全くの別人である。
祐光は伊東四郎とは名乗っていず、養育先の狩野四郎より、河津の庄を賜り河津三郎工藤祐光となります。
拓光を伊東四郎としての記載より系譜の誤りがあります、伊東系を組み込んで作成したと思われます。
おそらく此の系譜を作成したのは、江戸後期の幸根か幸雄であろうと思います。
幸信で切ってあり奉雄へと系譜は続くように記してある。
盛安以降についても実在かを含め、詳しく見てゆけば不合の部分があると思える。
朝光〜祐元迄の子の記載が無い。
朝光〜祐通迄は北条記の戦いの記録を抜粋記しただけ。
朝光一鎌倉公方三代管領足利満兼・四代持氏に仕えるとあり、軍功が有ったのか江戸豊島を二階堂賜るとあり、二階堂系伊東であろうと思うが、十二代に亙り組み込んだのか。北条記には伊東姓の北条家臣あり。
朝光賜駿州仁杉邑(むら)とあるは、系謝乍成上の加筆。
祐元一氏満自害とあるは鎌倉公方二代管領氏満なら年代合わず。
祐通一四代前より仁杉(人杉)を領有しているなら、祐元か祐通の代には人杉を名乗っていても良いのではないか?
祐通は江戸豊島を氏綱より賜ったように記してあるが、朝光と同じ地である、系図巻物こは氏康より賜るとあり違う。
祐元・祐通の墓寺の記藪が無い、祐元は浄士宗、祐通は禅宗の法名で寺が違う。此の十二代は鎌倉を中心に住んでいたようであり、碑文にある代々豆州に在りとは違う。
祐清一祐光一家長一祐兼
の系譜を正当とする一杉様の見解を求む。

祐通の子の五郎三郎が氏康に属し六十貫とあるが、氏康の作成した小田原役帳では十五貫であり、六十貫は幸通となっている、系謝こ基づけば小田原役帳は誤りとなる。この点は如何?
本家・分家の系図書こは、五郎三郎は幸通の子として記載してあるが、祐通の子としてある?、
幸通の弟で、右近太郎兵衛=水戸家書院番勤、と右近武右衛門=水戸家郡奉行勤(右近は名でなく職称で書院番勤、右近太夫は組頭)が、五郎三郎正通と七郎左衛門定通と入れ替わっており、東大系譜では抹消されている?一杉榛は確認されてるはず。
幸通の子は、右近と半兵衛となっているが、幸通の子は幸高と五郎三郎と半兵衛である。
なぜ、祐通の前四代の子の記載が無いのに、祐通の子にのみ仁杉で生まれると強調してあるのか、なぜわざわざ出生地を記したのか不自然である。ひと杉の地に前から居た事にしたい為と思う。
又、子の名が記されてなかったり、幸通の子と記したり繋がりが系図と違い、此の祐通の代は作為的に挿入記載したものと判断せざるを得ない。
祐通が実在の人物として、祐通没時のときは大乗寺は九十年以上前に人杉に創建されて居り、子が仁杉で生まれたとする以上、大乗寺に葬られてなければならないが、その記載が無いし法名が浄士宗で無い。

祐光の次の代〜祐通の代までの十二代は、他家の人物を組み入れたリ、伊東家の人物を組み入れたりで作成。
幸通が従五位下の位階と、伊賀守の官職を賜るが、並大低では官位を得られず、此の大事な賜った事由が一言も記されて無いのはなぜか。祐明、尊氏に仕え将軍より叙、左衛門尉と明記。
言い伝え=書い伝えは真実が正しく伝えられることが多い。他にも、語り伝え、唄い伝え、舞い伝え等、親から子へ師から子へと正しく伝えられると同じ。
一杉家のことも、言い伝えられて釆たから判明。
当本家言い伝えに、京部から来て足柄の近くに住んだとの言い伝えと、幸通が北条氏康に託され、管轄する駿州領と一部甲州領の記と、その為人杉に移り住む故家号を、仁杉と為すと記してある幸信の碑文との一致する点を、一杉様は否定し誤りであるとされましたが、幸信がこれ程明記するには、納得し信ずるに値する確たる資料があった上で墓前碑として石に刻んだのである。
言い伝えと、碑文が符号するのは否定できない。
太閤記・韮山城戦記の工藤二郎三郎の記は、一杉榛は誤りとし否定されますが如何。
幸通、居城地名を以って仁杉と改めるとあるが、城は無い、北条記にも仁杉城無し。
幸通没、浄士宗大乗寺に葬、号大乗寺殿と記してあるが、此の号は後に江戸喜運寺で付けた冒、大乗寺号は篤心榮輝大禅門。
幸通妻とある元和九年没の珠寶榮玉禅定尼は、幸高の妻である、誤り。
幸通妻は天正十九年没大乗寺葬桃蔭和玉禅定尼。

氏直朱印状について=北条家臣なら、武将間に於ける一揆帳の約束は不要。
文面は対等の言葉使い、家臣なら命令調でよい。直接命令でよいのに触書なのはなぜか。日限や他を指図さるべしと指図を求めているのはなぜか。

小田原城の西の守りは山中城だけなのに、幸通は近い山中城援軍として命令を受けなかったのか、何故韮山城なのか。

与力返還について

幸通以降についても、子の記載が系図と違う、幸高・幸重の代の子の記載が無いのも不自然で、当家系図こは早世だが没年月日・法名・寺の記載あり。幸光の子新吉郎は天折と子供で没したのが記してあるのにである。又幸勝と幸光の代の記載が不自然に多い。
幸次の子へ、一時与カを預かった勝安が継がせたとする記載を正しいとして、家の言い伝えである、弟与カを返さずは嘘である、として否定される一杉様は、代々の言い伝えを否定される事になる。
言い伝えは言い伝えとして真実であり、特に武家の身分を離れる悔しさは末代まで伝えられて当然であり、与カを返さぬ勝安家こは、分家として名字を「ひとすぎ⊥に変えさせ家紋も裏紋に変えさせたのは当然な事である。
記載通り実子幸光へ与カが継承されれば、家紋は庵木瓜の表紋そのまま使用のはず。この事も家紋は嘘をつかない。
本家は武家を離れても苗字帯刀御免の家として、別格扱いの家格として代々継承されるはご存知の通りである。
故仁杉博様が言われる通り、先祖の墓は三島の近くに運んだとの事、場所が知らず墓参りも出来かねております、の言は幸高より幸次迄の墓石が本家墓所に運ばれた事を意味し、言い伝えどおり与カは返されず、分家が与カを継いだ事を証明している。
幸光の与カ、此の項も、与カの家系を嫡流継承の正当性を主張せんとして、作為的に変えられてある。(別紙参照)

検証=呼称の次郎右衛門が五郎兵衛に変る事はあるが、勝武が勝安に名を変えることがあるだろうかと疑念には思っておりましたので、与カ仁杉家より送られてある資料を改めて見てみますと、「与カ、始め次郎右衛門勝武(武と記してある)、幸次病死により与カ相続五郎兵衛勝安」と記してあり「幸次に男子二人女子四人有り」と明記。
しかし、幸次の子の欄こは子の記載なし、男子駿州駿東郡へ移住の記載も無い。
子は幸光以外屠ないかの如く記してある。
幸次の弟の一人の次郎右衛門勝武(政)が、元禄六年前北条安房守組へ、兄に代わり与カとして入り、元禄十四年〜十六年退勤し甫斉と号す。この十四年幸次は八右衛門(与カ)を返し與兵衛となる、此の一〜二年に同じく弟の五郎兵衛勝安が与カとなる。
この元禄年代の末、目付けや奉行とどのような取り決めがあつたのか不明だが、勝武より幸次へ返上で済むところ、さらに勝安が与カを継ぎ、名目上は幸次の子へ与カを返すとして、自分の子を与カにした。
表面上は世襲であるとしたのである。でないとお役召し上げの恐れあり。
また一度与カ職を得れば、手離すは無理だろう。
幸次妻長寿院は当家記載では、勝安婁となっており幸次妻で無い、江戸で没した事にしてある。長寿院は勝安妻である。
当代勤は勝安のみでなく、勝武も当代勤になるが記載無し。
当本家への分家与カ家よりの資料で、幸根が婿養子であるは知っておりましたが、義父幸堅も婿養子であるは知りませんでした。
幸計の娘の婿養子が幸堅で、幸堅は男子次々早世の為、長女に婿養子を迎えた幸根である。その後五男幸信が成長したので同じく与カを継がせる。
幸堅の子の代で、与カが二家になるのである、この為二家で与カ本流の継承をめぐる確執があったのではないだろうか。
嫡男継承を以って嫡流とするのが正しいのである。
しかし、娘へ迎えた婿養子の記載が、娘と離して記してあり一見すると嫡男と間違う記載である、しかも幸信は弟の如き記し方でその後の記載無く、与カ家は幸計一幸堅一幸根一幸雄と一家のみで、しかも男子を以って継承しているかの如く記してある事が判る、上手く書き直してある。
勝安以降の分家系譜を、本家系譜の如く書き直し提出したものであり、一杉様はこれを仁杉本家系譜と誤認したのでしょう。
正しくは、勝安が分家初代となるのである。
婿養子の件は、系譜提出より遠くないことなので、正直に記したのであろう。

駿東郡領有について

一杉様は仁杉家が駿東郡を領有していた事も疑問に思われ、資料に無いから嘘だろうと考えておられるが、領有していたのは事実であり、士地の人々も同じく言っており、これも言い伝えだが事実は事実である。この言い伝えも否定されるのか。
東京在住の仁杉くめ子様は、若い頃、晴れた目東京より富士山を見て、親や親戚より富士山の手前の山全てと、その向こうの士地全て仁杉の士地だと蓄われたとの事、これも事実である。
仁杉半兵衛が水争いを収めたのは、沼津代富が収めきれずとあり、領有地や水の管轄は代宮の職務の一つでもある。
私の知人で、静岡市西の干代氏は安倍川以西の見える範囲の山は全て私の山です、士地も昭和二十年迄全てわたしの士地でした、農地解放で田んぽは三町歩だけとなりましたが、山は今でも全て私の山です、と現実に有る事です。
言い伝えは真実であり、何人もこれを否定すべきではありません。

一杉家出自については、私の知りえる事はお伝えいたしましたが、仁杉家出自については、仁杉(にすぎ)・仁杉(ひとすぎ)・一杉の総本家である当家が掌握し、その柱となるのであり、当家系図が全てであり、言い伝えがすべてであり、墓地がすべてである。何人も否定できず。干渉すべきでない。
第三者が十分な検証もなく、文字や字句に安易に振り回され、軽々に判断すべきでなく、断定すべきでない。責任を負えますか。
三代前ですら詳細に判らないのに、何代も前や何百年前の事を、重箱の隅を穿る様にしても判るものではない。

分家勝安系の弟や婿養子で繋いだ家系を、男子嫡流を以って継承された本家系図として書き変え、工藤河津系を伊東系に変え、家紋も裏紋に変えられた分家の作成する系譜を正当とするならこれ以上の説明は無用となります。
               平成15年2月25日
                        累代六十九代仁杉姓十四代
                           総本家当主仁杉圓一郎記

 残念ながら論点は噛み合わなかった。 このホームページでは公正を期すために、異なる意見、解釈がある場合には、そのひとつだけを採用せずにその両論を掲載することにする。 例え管理人が信じることができない主張でも。               管理人