ローリング・ストーンズの数多い名曲の中でも、「黒くぬれ!Paint it Black」は特に好きな一曲だ。ここには青春の鬱屈したエネルギーが凝縮されているように思えてならない。8ミリフィルムで自主制作映画を撮っていた頃、この曲を使った映画を、いつか撮りたいと思っていたのだが、その機会はついに訪れなかった。
渡辺啓助という作家の名前をはじめて知ったのは、探偵小説専門誌『幻影城』に再録された「血蝙蝠」という作品によってだった。伝説のモダン・マガジン『新青年』に発表された短篇小説で、作者はすでに歴史の彼方の人物のように思えた。高校時代のことだ。まさか後に、その作者と会うことになり、ドキュメンタリー映画を撮ることになるとは、知るよしもなかった。
「薔薇と悪魔の詩人」と称えられ、鴉に関する博物学的知識を満載したエッセイ集『鴉』や、自らを探偵横丁下宿人と称して綴られた回顧録『鴉白書』などの著書で、鴉へのシンパシーを語り続けた老作家と直接お会いしたのは、四女でイラストレーターとしても知られる渡辺東さんが経営するギャラリー「オキュルス」でだった。啓助先生(と、親しみをこめて表記する)はすでに齢九〇を越えて、自ら「時間外居住者」と名乗っておられたが、月一回開かれる「鴉の会」の集まりには必ず出席し、興味深い昔話などをかなり長い時間にわたって話されることもあった。
カッコイイ老人、それが僕の第一印象だった。かつてのモダンボーイは、枯淡とはちょっとニュアンスの違う、独特なダンディズムに身を包み、飄々とした軽みのマントをなびかせて、時には浅草オペラの一フレーズを口ずさんだりもした。
啓助先生の謦咳に触れるうちに、かつての映画青年の血が騒ぎ、なんとかこれを映像に記録することは出来ないかと考えるようになった。だけど、当時僕はまだビデオカメラを持っていなかったし、和気藹々とした談話の場にカメラを持ち込むことも気が引けた。カメラはある種の凶器でもある。その場にカメラがあるというだけで、対象は硬直し、空気は緊張し、現実を歪めかねないからだ。そんな気の迷いに対して、「撮れよ」と背中を押してくれたのが、原一男監督の『全身小説家』だった。一人の小説家をじっくりと捉えるだけで、こんなにも面白い映画が撮れるのだ。「啓助先生を撮ろう!」と決意した。それがどんな作品に仕上がるか解らないけれど、とりあえずカメラを回さないことには、何事も始まらない。
最初の撮影は、一九九六年六月、オキュルスで開催された先生の個展会場だった。この時、会場には弟の済氏がおり、啓助先生が教員を務めていた福岡八女中学時代の教え子で作家の中薗英助氏も訪れ、貴重な映像を撮ることが出来た。幸先のよいスタートだった。
ビデオカメラは行きつけの電気店からレンタルした。メディアは8ミリビデオだった。制作の過程で、記録メディアは8ミリビデオからデジタルビデオ、そして仕上げはDVDへと変遷した。最大の難関となった編集作業も、最終的にはパソコンで行った。OSはWindows98からVistaへと移行し、まさにこの期間のメディアとコンピュータの発展進化の過程を身をもって体験したことになる。
その次は『新青年』研究会のメンバーとともに先生のお宅にお邪魔して、長時間のインタヴューに応じていただいた。最初は一時間くらいの予定だったが、ご自身の体調が良かったのか、質疑応答は二時間を超えて行われた。後半はほとんど先生の独演会のような様相を呈した。この場面を観たある人は「まるで志ん生の落語を聞いているようでした」と形容したが、僕は先生がお茶を飲む場面で、先代の林家彦六師匠を思い出した。
この時のインタヴューが作品の核となった。特に幼少時に負った顔の火傷のことや、亡きご母堂への想いを問わず語りに語るシーンは圧巻である。編集に当たっては、このシーンを出来るだけノーカットで収録するように心がけた。同語反復も、長めの間も含めて、ひとつながりの時間体験として観客に提供したかったからだ。
このインタヴューの後、自分用にハンディカムを購入し、いつでも撮れる状態になったのだが、一〇〇歳を目前に先生の体力は徐々に衰えてゆき、結局デジタルビデオで撮影する機会は、一回しかなかった。もう少し早く撮影の体制が整っていれば、もっといろんなお話を記録に残せたのにと、くやしく思う。だけど、かろうじてお元気な先生のお姿を撮影出来たことを幸運としよう。
二〇〇二年一月、ウォルト・ディズニーや円谷英二と同年生まれの啓助先生は二一世紀をちょっとだけ垣間見て、永眠された。一〇一歳だった。葬儀はご家族だけの密葬というかたちをとられたが、許しを得てデスマスクを撮影させていただいた。「棺を覆いて定まる」という言葉があるが、この時点でやっと、星雲状態だった作品の輪郭が見えて来た。同年三月に行われた「渡辺啓助先生を偲ぶ会」の模様も撮影し、これを縦軸として、インタヴューや個展の映像を挟み込むかたちで構成を練った。
先生の逝去後も撮影は続いた。関係者の談話、書影等の追加カット、そして専門家だけでなく、一般の人にも渡辺啓助作品の魅力の片鱗が伝わるようにと思い、朗読シーンも撮影した。ナレーションも録音したが、これは使用しなかった。
完成作品の上映時間二時間以内というは、当初からの目標だった。個人的に二時間以上の映画を作りたくないという思いがあった。素材はビデオだけれど、作る側の気持ちとしては、あくまでも「これは映画だ」と胸を張れるものにしたかった。結果、心を鬼にして切り捨てたカットもある。「編集は第二の演出である」というのは黒澤明監督の言葉だったと記憶するが(間違ってたらゴメンナサイ)、ドキュメンタリーに於いては、編集こそが演出そのものだということを実感した。
こうして仕上がった作品は、啓助・温・済の渡辺三兄弟をコンセプトにした「W.W.W.展」(ギャラリーオキュルスにて五月一七日〜三一日開催)での販売を目的にDVD化した。最初に完成作品を観ていただいた時の、ご遺族の喜びの声が、最高の賛辞だった。制作に費やした歳月を自慢するつもりはないけれど、最初の撮影から数えて、一二年の月日が流れていた。感慨深いものがある。
「センチメンタルになってはいけない」と啓助先生は言った。インタヴューの中で、最も心に残ったフレーズだ。「人間のちっぽけなセンチメンタリズムなどというものは、たかが知れたものです」と。この言葉が胸に甦るたびに、自分はやはり青二才だなと思う。すべての行動原理がセンチメンタリズムを基盤としていると思えるからだ。だけど啓助先生、僕はきっと死ぬまでこのセンチメンタリズムに棹さして生きていくのだと思います。渡辺啓助スクール最後の留年組として、補習と追試を繰り返しながら……ね。
余談になるけれど、編集作業の途上で、ストーンズの曲をエンディングテーマに使えたらいいなと思ったことがある。その曲とはもちろん「悪魔を憐れむ歌Sympathy for the Devil」だ。
『LB中洲通信』2008年7月号掲載
黒くぬれ!鴉のように…
『鴉の肖像〜渡辺啓助の世界』制作ノート
八本正幸