独り言


2025.03.08  記念日
古くは86日、89日、815日の戦争に纏わる日、他には大災害の起こった日は
「あれから〇〇年」といった論調でテレビ、新聞で取り上げますが、その日を過ぎれば全くいつもと同じ毎日となります。
今年も311日が近づいてまいりました。
もう10年以上経ちますが、テレビも新聞もこの日だけは神妙な面持ちで臨んでいます。

そして、一連の報道が終われば
「さあ、次、次」
「美味しいグルメの話題ですよ」、「評判のお店紹介ですよ」
声のトーン、表情も一気に明るくなります。 
いつまでも暗い顔をして報道する必要もないんでしょうが、あの豹変ぶりにはいつも嫌悪感を抱いております。 

形式的に、儀式として報道する、
「我々はまだ忘れちゃいませんよ」
と、義務を果たしているだけのように見えちゃうんですね。 

国もその日だけ「やってますアピール」をするけれど、明日になれば忘れちゃうんでしょうか。
能登にしても、福島にしても復興なんてどうせできないよ、できれば諦めて欲しいと願っているかのような無策ぶりですもん。 

また、この国の偉い人たちって、新しいもの、新しいことを始めるに関しては凄く積極的だけれど、
古いものを作り直す、修理するという作業には非常に後ろ向きです。

上下水道、道路、橋などの維持ってとても重要だと、事故が起こるたびに認識させられるものですが、
そこに予算を回すことを忌避しがちな我々の意識も変えていく必要があると思っています。
 

 

そして、1か月くらい先に大阪で何かのイベントが始まるようですが、どうなりますことやら。
大成功してほしいですね。(笑) 

大阪にいる知り合いに、
「ねえねえ、万博行くの?」って聞いてみたんですよ。
そしたら、
「うーん、興味がないなあ、周りでも行くっていう人いないもん」
だって。 

実は僕だって地元で開催された1985年のつくば万博にはお義理で1回行ったきりでした。
行かなかったのは、
「勉強で行く暇がなかったから」
ではなくって、
「麻雀ばっかりやってたから」
ではないかと。 

どうして行くことになったかって。
その年、母校の修学旅行の行先がつくば万博になったんですね。
僕の学年で筑波大学に進学したのが3人(非常に珍しいでしょ、九州の片田舎の公立高校からだもん)、
そしてもう一人、万博のコンパニオンになった女子がいたんですね。
同級生4人(卒業生)が母校の修学旅行の生徒さんと引率の先生をお出迎えしましょうってことで、万博会場に足を運んだってわけです。

僕はパビリオンを見たわけでもないので、つくば万博の思い出は全くありません。
コスモ星丸グッズの一つや二つ買っておくべきだったかなあ。

今、思い返せば、「きちんと見ておくべきだったなあ」と反省しきりです。 

だから、何かと不評の大阪万博も、将来振り返った時に、
「行っておくべきだったなあ」
って後悔しないとも限らないわけで。(どうかな?)

2025.03.01  拍子抜け
このところ土曜日は混雑していたのですが、今日はいつもの半分くらいの疲労度でした。
暇で暇で死にそう、てなことはないんだけれど。
患者さんも「今日はどうしたんですか?」と。
こっちが聞きたいくらいです。 

昼は外に食べに行くため来週の準備を型どおり済ませていたところ、とんでもないトラブルが。
今週、長年使っていたパソコンを処分して新しいものを購入して、業者さんにデータの移行もやってもらっていたはず…。
ところが、大事なソフト(給与計算ソフト)がなくなっていて真っ青。
 「このままじゃ職員の勤怠管理や給与計算ができなくなっちゃうよぉ」
と、半分泣きながら机の抽斗からCDROMや説明書、パスワードのメモを探し出し、ネットで問い合わせること約3時間。
やっとの思いで復活できまして…、お陰で昼食抜き。 

暇な午前の診療で余ったエネルギーを、全て午後からの作業に費やしてしまい、疲労度としてはいつもと同じでした。 

 

「総合的」
この言葉、個人的にはあまり好きじゃないんです。
文科省では「総合的な学習」、厚労省では「総合診療科」なんていうのがあります。
結局、何がしたいの?
という気持ちがふつふつと湧いてくるんですね。 

全体を網羅する、把握する、グローバルで全方向的な視点で物事を考え、思考を深めていく。 
と言うのが本来の狙いではないかと思ったりもするんですけどね。
そう思い通りになっているかどうかは少し疑問ですけど。 

似たような言葉で、
「総合的に判断する」
というのがあります。

最近ではフジテレビのCM中止に纏わるそれぞれの企業のコメントで顕著に見られました。
独自に判断したわけじゃなく、横並びというか、雪崩を打ったようにという感じ。 

「総合的に判断する」って、これは思考停止した状態ではないかと思っています。
点数化できないから、論理的に、正確に判断できないから、といった側面がありまして。 

結局のところ、
好き嫌い(情実)や忖度を働かせ、
理由を明らかにせずに、
詳しく説明したくない、
その上で、物事の決定をあいまいにしたい時に、
「総合的な判断」をするんでしょうね。
そして、誰もリスクを取らなくて済むんです。
だって、総合的に判断したんだから。 

「私が最終決定したわけではなく、みんなで意見を出し合って、総合的に決めたんです。」
って言い逃れができちゃう魔法の言葉でもあるわけで。 

あっ、でも僕も職員採用の時は「総合的に」決めたかも。



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