独り言


2025.03.29  年度末
例年、年度末は暇になるはずが、何だか忙しくて仕方なかった今週です。
コロナやインフルエンザや胃腸炎が爆発的に流行しているわけでもないのですが、結構な待ち時間が生じていました。
「入ろうとしたんだけど、人が多くて帰っちゃった」
と、患者さんに言われました。(この方、2日後に受診されたんですが) 

強いてあげれば普通の風邪(身も蓋もない言い方ですみません)が多かったかなあ。
そういう患者さんも全例で検査をすれば、コロナやインフルエンザが検出されたかもしれませんけど。
最近では患者さんも僕もあまり頓着しなくなってきたように感じています。 

 

元気とか感動とか
僕は元来、「元気をもらう」、「感動をもらう」
というような言葉、表現ってどうも苦手でして。 

もしかしたら、大きな事故や災害などに遭って精神的に落ち込んだり、経済的にも困窮して、明日への希望も持てないという状況に陥ったことがないからなのかもしれませんけど。 

そんなものを人から簡単にもらおうっていう魂胆が好きじゃないし、そんなものは自分の内面的な感情、湧き上がるものであって、
そもそも人とやり取りするものではないんじゃないかって思うんですね。
 

「感動を届ける」、「元気を与える」
と言うのもどうかと思っていて、軽々しくそんな言葉を発するのは何だか傲慢だなって。 

「そんなの表現の一種だろ」というご指摘は甘んじて受けいれますが、言葉があまりにも軽く、薄っぺらくてね。 

他にも、「日本中に感動を与える心温まるいい話」とか、「全米が涙した」みたいなフレーズって大嫌いなんですね。
どうですか?ひねくれてるでしょう。
単に大袈裟っていうレベルではなく、そこには商業的な意図がふんだんにちりばめられていて、それにまんまと乗せられるのが嫌だっていう自分がいるわけで。 

多分、「感動」を押し付けてくる感じがするので好きになれないんでしょうね。
もう少し細かく言うと、「みんなが感動しているんだからお前も感動しろよな」って言われているように感じてしまうんです。 

感動する、涙するかはこっちに任せてくれ、あなたに指図されたくないよって。 

 

センバツも決勝戦(横浜と智弁和歌山)を残すのみとなりました。
下馬評通りの強さを見せている横浜が有利と見ていますが、智弁は比較的楽な相手と戦って勝ち上がってきた分、余力残しで一発逆転するかも。(して欲しい)

2025.03.22  お墓参り
今週は突然の雪、冷たい風、そして春を感じさせる暖かい週末に戸惑っていました。 

お彼岸でもあったので、セブンイレブンでお花を買ってお墓参りをしてきたんですね。
車で30分くらいでしょうか、早朝の快適なドライブも兼ねて。
「あと何年かしたらここに入るんだろうなあ」なんて思ったりして。
ただ、お墓参りをする習慣、先祖を祀る習慣って僕らの子供や孫の世代でも脈々と続くんだろうか?
家(イエ)を守る、継ぐというしきたりと言うか、義務感、責任感っていうのは段々希薄になっているように思うんですね。
自分がそうなんですから。(でも、僕を基準にするのは甚だおこがましいのですが) 

僕の本家は九州にありますが、父は末っ子だったため完全に自由の身となっていました。
子供の頃、本家に行くのはそれこそ盆と正月くらいなもので、お盆の暑い最中、みんなでぞろぞろとお墓へ歩いて行ったのは決して楽しい思い出ではないんですね。
本家での一番の思い出は、箕島vs星稜の延長18回の激闘を試合終了まで親戚の叔父さんたちと見たことでしょうか。 

そういう家庭で育ったので、僕にはイエを存続させる、守るという概念が極めて希薄なんだと思っていまして、
自分の子供にも全くそれを強制しようとは考えていないんですね。
 

うちの場合、継ぐような家業もなく、それぞれに家庭を持ち、人生を歩んでいく中でお墓が茨城にあることが子供たちにとっては重荷になるのではないかと。
「お父さんは茨城のこんな田舎に墓を作っちゃって面倒くさいったらありゃしない」って。

もし、うちの実家の墓が九州に残っていたら絶対に迷惑だと思いますもん。
「お墓の掃除をしてください。」
「法要の時期となりました。」
薄情な僕は、
「さっさと墓じまいしちゃおう」ってなるに違いないでしょう。
  

さて、来週になればペナントレースが始まります。
既にチケットは取ってあるし、ナナコにもチャージしてあるし、準備万端です。

2025.03.16  随筆集
患者さんから一冊の本を頂きました。
彼にはこれまでもちょくちょくご自分でお書きになった作品を頂戴していたんですね。
一編ずつ丁寧にビニール袋に入れて。
そして、その集大成を一冊の本にして、先日くださりました。(自費出版です) 

元々は理系の研究者だと思うのですが、文学的、文化的な教養が豊富で、研究熱心で、
非常に控えめで、それでいて確固たる信念をお持ちの方です。
僕らの世代はどちらかと言うと、軽薄短小、軽チャー路線で学生時代を過ごしてきましたが、
教養主義の世代を過ごしてきたこの方の書く文章の根底にはきちんとした分析、裏付けがあります。
使う用語もきちんとしていて、診察の合間、そして自宅に戻ってから読んでおりました。 

随筆集と銘打っていますが、僕は随筆とエッセイの違いがよくわからなくて。
何となく、男性は随筆、女性はエッセイかな?(凄く乱暴ですね) 

ネットで調べてみると(この辺が雑なんですが)
随筆:本当にあった出来事の伝聞や感想を自由に描いたもの
エッセイ:出来事の描写ではなく書き手のパーソナルな心の様子を描いたもの
ですって。
でもよくわからん。 

彼にはこれからも健康で、酒を飲み、楽しい随筆を書いてもらいたいと願っております。 

 

退職金課税の見直しの議論の中で、僕が抱いている違和感について。
「雇用の流動化」というお題目が掲げられていますが、
転職したいんだけれど転職に踏み切れない人って、別に退職金が欲しいからいつまでも会社にしがみついているわけではないと思うんですね。
そんな人は自分のスキルを磨いてどんどん転職を重ねていけばいいわけで。
退職金が満額欲しいから嫌な会社で嫌な仕事をひたすら我慢して定年まで勤め上げるという考えの人がどれだけいて、
それが会社や社会にどれだけの悪影響を与えているかの調査を見たいんですけど。(調べれば存在するのかな?)

この職場が好きだ、定年まで働きたいと思っている人だって一定数いることを忘れちゃいけないと思っているんですね。
今回の議論にはこの層の思いが抜けているように感じられます。
今でこそ少なくなってきたと思いますが、「愛社精神」を持ち続けている人は今回の改正を改悪(増税)と捉えるでしょうね。 

そして、こういった改正を考える人はどっち側の人間なんだろう?っていつも意地悪く見てしまうのが自分の悪いところだと思っていまして。 

結局、
「今更転職してもつぶしがきかないんだよ、定年までここにいて退職金を満額貰おう」
と思っている人から税金を取りたいだけでしょ。 

最後に。
センバツ高校野球が始まります。
大阪万博同様、どうも盛り上がりに欠けていますね。 

今回、僕の地元から久々に出場します。
地元も地元、通っていた小学校区にある学校ですから。(通っていたのは柳ヶ浦小学校)
プロで活躍した選手も輩出していまして。
横浜、巨人に在籍していた山口俊と巨人、西武に在籍していた脇谷が有名かな。
少年野球時代に同校が初の夏の甲子園大会に出場が決まった際に、
「皆さん、頑張ってきてください」みたいなこと言わされました。

開幕試合では二松学舎にボコボコにやられてしまう予感。

2025.03.08  記念日
古くは86日、89日、815日の戦争に纏わる日、他には大災害の起こった日は
「あれから〇〇年」といった論調でテレビ、新聞で取り上げますが、その日を過ぎれば全くいつもと同じ毎日となります。
今年も311日が近づいてまいりました。
もう10年以上経ちますが、テレビも新聞もこの日だけは神妙な面持ちで臨んでいます。

そして、一連の報道が終われば
「さあ、次、次」
「美味しいグルメの話題ですよ」、「評判のお店紹介ですよ」
声のトーン、表情も一気に明るくなります。 
いつまでも暗い顔をして報道する必要もないんでしょうが、あの豹変ぶりにはいつも嫌悪感を抱いております。 

形式的に、儀式として報道する、
「我々はまだ忘れちゃいませんよ」
と、義務を果たしているだけのように見えちゃうんですね。 

国もその日だけ「やってますアピール」をするけれど、明日になれば忘れちゃうんでしょうか。
能登にしても、福島にしても復興なんてどうせできないよ、できれば諦めて欲しいと願っているかのような無策ぶりですもん。 

また、この国の偉い人たちって、新しいもの、新しいことを始めるに関しては凄く積極的だけれど、
古いものを作り直す、修理するという作業には非常に後ろ向きです。

上下水道、道路、橋などの維持ってとても重要だと、事故が起こるたびに認識させられるものですが、
そこに予算を回すことを忌避しがちな我々の意識も変えていく必要があると思っています。
 

 

そして、1か月くらい先に大阪で何かのイベントが始まるようですが、どうなりますことやら。
大成功してほしいですね。(笑) 

大阪にいる知り合いに、
「ねえねえ、万博行くの?」って聞いてみたんですよ。
そしたら、
「うーん、興味がないなあ、周りでも行くっていう人いないもん」
だって。 

実は僕だって地元で開催された1985年のつくば万博にはお義理で1回行ったきりでした。
行かなかったのは、
「勉強で行く暇がなかったから」
ではなくって、
「麻雀ばっかりやってたから」
ではないかと。 

どうして行くことになったかって。
その年、母校の修学旅行の行先がつくば万博になったんですね。
僕の学年で筑波大学に進学したのが3人(非常に珍しいでしょ、九州の片田舎の公立高校からだもん)、
そしてもう一人、万博のコンパニオンになった女子がいたんですね。
同級生4人(卒業生)が母校の修学旅行の生徒さんと引率の先生をお出迎えしましょうってことで、万博会場に足を運んだってわけです。

僕はパビリオンを見たわけでもないので、つくば万博の思い出は全くありません。
コスモ星丸グッズの一つや二つ買っておくべきだったかなあ。

今、思い返せば、「きちんと見ておくべきだったなあ」と反省しきりです。 

だから、何かと不評の大阪万博も、将来振り返った時に、
「行っておくべきだったなあ」
って後悔しないとも限らないわけで。(どうかな?)

2025.03.01  拍子抜け
このところ土曜日は混雑していたのですが、今日はいつもの半分くらいの疲労度でした。
暇で暇で死にそう、てなことはないんだけれど。
患者さんも「今日はどうしたんですか?」と。
こっちが聞きたいくらいです。 

昼は外に食べに行くため来週の準備を型どおり済ませていたところ、とんでもないトラブルが。
今週、長年使っていたパソコンを処分して新しいものを購入して、業者さんにデータの移行もやってもらっていたはず…。
ところが、大事なソフト(給与計算ソフト)がなくなっていて真っ青。
 「このままじゃ職員の勤怠管理や給与計算ができなくなっちゃうよぉ」
と、半分泣きながら机の抽斗からCDROMや説明書、パスワードのメモを探し出し、ネットで問い合わせること約3時間。
やっとの思いで復活できまして…、お陰で昼食抜き。 

暇な午前の診療で余ったエネルギーを、全て午後からの作業に費やしてしまい、疲労度としてはいつもと同じでした。 

 

「総合的」
この言葉、個人的にはあまり好きじゃないんです。
文科省では「総合的な学習」、厚労省では「総合診療科」なんていうのがあります。
結局、何がしたいの?
という気持ちがふつふつと湧いてくるんですね。 

全体を網羅する、把握する、グローバルで全方向的な視点で物事を考え、思考を深めていく。 
と言うのが本来の狙いではないかと思ったりもするんですけどね。
そう思い通りになっているかどうかは少し疑問ですけど。 

似たような言葉で、
「総合的に判断する」
というのがあります。

最近ではフジテレビのCM中止に纏わるそれぞれの企業のコメントで顕著に見られました。
独自に判断したわけじゃなく、横並びというか、雪崩を打ったようにという感じ。 

「総合的に判断する」って、これは思考停止した状態ではないかと思っています。
点数化できないから、論理的に、正確に判断できないから、といった側面がありまして。 

結局のところ、
好き嫌い(情実)や忖度を働かせ、
理由を明らかにせずに、
詳しく説明したくない、
その上で、物事の決定をあいまいにしたい時に、
「総合的な判断」をするんでしょうね。
そして、誰もリスクを取らなくて済むんです。
だって、総合的に判断したんだから。 

「私が最終決定したわけではなく、みんなで意見を出し合って、総合的に決めたんです。」
って言い逃れができちゃう魔法の言葉でもあるわけで。 

あっ、でも僕も職員採用の時は「総合的に」決めたかも。



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