独り言


2021.11.27  忘年会
コロナも鎮静化して全国的に飲み会も解禁されたので、「さあ、忘年会」と行きたいところです。
皆さんの周りではいかがでしょうか。
親しい仲間内では食事会や飲み会をやっていることでしょうが、大勢の宴会はなぜか躊躇われています。
多分、日本特有のあの空気が原因ではないかと勝手に想像しています。

人数制限は撤廃されているのに、社を挙げてとか、部署での忘年会となると、「ちょっとマズいんではないでしょうか」とご注進する人が出るわけです。

万が一クラスターにでもなった際には、「ほら見たことか」とバッシングされることが目に見えていて、世間の注目を集めますから。
特に公務員とか医療関係の組織ではメディアの目を相当意識します。

経済を回したいのであれば、国や自治体が率先して忘年会、新年会を開催すべきだと思いますね。

それこそワクチンパスポートやPCR陰性証明とかを最大限活用して、宴会を盛り上げればいいじゃない。 

ただ、このコロナの2年間で大規模な忘年会そのものが不要不急なものであるのかという根本的な問題を提起されているように思えます。
「好きな人同士でこぢんまりやればいいじゃない」
「別に強制されてまで参加したくないし」
という意見が言える雰囲気が醸成されることは一歩前進でしょう。

現在の感染状況を鑑みると感染はかなりコントロールされていると判断されます。
「これまで通り感染対策を行ったうえで」
という条件を付けてのメッセージは何だか責任逃れの印象もありますが、これまで我慢を強いられてきた人たちにはご褒美のようなものでしょうね。
  

うちですか?
やりますよ。

2021.11.23  正解
この人と結婚して正解かしら?
どの科に進むのが正解かな?
どの会社に入るのが正解でしょうか?
誰に投票するのが正解なの? 

学校のテストであれば正答(解答)がありますね。
正解を求めて勉強し、高得点を取れば自信にもなるし、目指す学校にも合格できます。
正答が一つしかなければ他の選択肢は不正解(間違い)というのはテストの常識でもあります。 

昨今の若者と同様に僕らも受験を経験し、正解を求め勉強してきました。
それはあくまでも答えのあるものに対してだと思うのですが…。
しかし、今の若い人たちって、正しい答えがあるのかどうかも分からないような事柄に対しても「正解」を求めすぎるように思います。
しかも、間違うことを凄く恐れるんですね。
特に自分の将来とか世間の動向とかに対して、周囲の空気を読んだり、誰かに(例えば親や友人)忖度しているように見えます。 

彼ら(彼女ら)は失敗しない生き方や結婚相手を選ぶために転ばぬ先に頑丈な杖を用意し、石橋をこれでもかって叩きながら渡っていくように見えます。 

一度でも失敗したらもう元に戻れない、やり直しのきかない社会ってやっぱり不幸なんじゃないかなあ。
「個性を大事にしよう」とか、「多様性が大事だよ」とか世間は言いますが、実はそんなに寛容な社会ではないように感じています。
「自分の能力をわきまえて、分相応な人生を歩みなさい」みたいなメッセージが若者を縛ってしまうのかもしれません。 

「そういう社会になったんだから仕方ないよ」って言われちゃうのかなあ。
「そういう社会にしたのはあんたたちでしょ」って言うのかもしれませんけど。 

専攻する科を選ぶときの僕らの頃を思い出してみます。
「部活の先輩がいるから」
「研修で回ったときに美味しいものを食べさせてもらったから」
「飲み会のノリが良かったから」
「嫌な講師、教授がいるからあそこだけはやめよう」
なんて、今考えるととてもいい加減な理由で将来の選択をしてきたものでした。

一方で、きちんと将来設計を考えて専攻科を決める同僚がいたことは確かですけどね。
結婚だって…。 

いざ、入局してみたら、「大失敗だった」って思うことだってあるわけで、でもそのうちに何とかなっていくこともあるんだけどね。
その選択が正しいかどうかはすぐに判る場合もありますが、ずっと後になって、もしかしたら死ぬ間際になってやっとで判ることだってあるでしょう。
友人や親は良かれと思ってアドバイスしてくれるかもしれませんが、仮にそれが間違いだった時に一生恨みますか? 

「これが人生の王道だ」という確固たる正統なルートがあって、そのルートを踏み外さずに人生を歩めるという人にはなかなかお目にかかれません。
多くの場合、色々な選択肢があって、完全なる○(正答)であればいいのだけれど、ちょっと減点があったり、部分点しかもらえないような答案(人生)です。
 

いつも満点がとれればそれに越したことはないけれど、正解を追い求めるだけの人生ってとても窮屈じゃないかと思っています。
これまでも分岐点がいくつもあって、そのたびに自分なりに選択してきたんですね。
そんなに意識していない場合もありますが、振り返ってみると、非常に重要な選択だったこともあったわけで。

「あの日に戻りたい」という願望は誰しもが抱いていて、絶対に叶わない願いですが、それでも受け入れてここまで来ています。
試験では一つの正解(正答)しかなくても、人生にはたくさんの正解(らしきもの)があることを知って欲しいなあって思った次第です。
今まで選んだ道が百点満点の選択じゃなくても、寄り道をしながらも部分点を重ねていくことで百点に近づいてきて、何故か120点になることだってあるかもしれないし。

身近な人の話を聞いて最近思ったことでした。

2021.11.20  秋深し
朝晩の寒さが強まってまいりました。
これから冬が来るって言うのにこれしきの寒さに音を上げていられません。
しかし、朝新聞を取りに行ったり着替えたりする時の寒さがちょっと辛くなってきました。 

11月も半ばを過ぎると年末に向けて色々と忙しくなってまいります。
今年は幸いなことにインフルエンザワクチンも順調に進んでおりまして、一度も休止することなく接種できています。
この分で行くと12月途中で終了の見込みです。
そしてかかりつけの患者さんをお断りすることなく接種できそうです。 

昨年を思い出すと、土曜日には50人待ちとか、駐車場が一杯になったり、スタッフの残業が2時間なんて日もありました。
人の心は移ろいやすく、そして心を読むことは難しいものです。
ここまでの所、小児の接種希望者が少ないんですね。
他院で打ってくれていればいいのですが。 

年末に向けて院内清掃やワクチンの出張接種だとかもあるし、休みの日も野暮用があったりで、いよいよ忙しさが増してきます。 

そして、今週の話題としては、ボージョレ・ヌーヴォー解禁でした。(自分だけ?)
ひと頃のブームも鎮静化しているのですが、今年も2本購入しました。
ボージョレは毎年購入して、一人で飲んでいるんですが、味に関して去年との比較は全くできません。
だって、去年のものは既に飲んじゃってここにはないし、元来そんなに物覚えが良いわけでもないので、飲んだ端から忘れちゃってます。 

しかし、物覚えが良い人って時々いますね。(執念深いと言うと怒られちゃいますね)
「あの時、あんなこと言ったよね」
「その話、2回目だよ」
「あそこで、ああして、こうして…、もう忘れちゃったの?」

忘れてあげるというのも優しさだと思ったりして。
僕の場合は認知症なのかも。

2021.11.13  中流意識
かつて一億総中流と言われた時代が日本にありました。
うちの親は頑なに「うちは中の下だ」と言っておりました。高度成長期の波にも乗り損ねていたし。
自分を中流とみるか、上流とみるか、はたまた下流とみるかは結局は他人との比較によるものですよね。 

昨今、格差社会だ、中流崩壊だと言われておりますが、「ザ・中流」という生活レベルは何を指標に判断すべきなのでしょうか。
11台スマホを持ち、時々外食をしたり、ディズニーランドへ遊びに行ったり、アウトレットでお買い物したり。
食うや食わずの生活をしているわけでもなく、電気やガスを止められるわけでもなく、隣の人たちと大体同じくらいの生活レベルを保っていると自覚できる人は
「自分は中流」
と感じているのだと思います。

格別上流階級の生活を望まずに、そこそこ人並みの生活を送ることができれば十分と考えるのが精神衛生上も良いのでしょう。 

例えば、普段60点取っていた学生が50点に成績が下がった場合を考えてみましょう。
この時、自分のクラスの平均点が50点から40点に下がれば、「まだ自分は上位じゃないか」と安心できるんですね。
しかし、他のクラスの平均点が50点のままだったら。
また別のクラスの平均点が60点に上がっていたとしたら。

中流意識というものは所詮相対的な感覚であって、周りも同じくらいのレベルで衰退していけば自分はいつまでも人並みだって許容できるまやかしのようなものだと思っています。
ただ、統計学的、社会学的に見れば、中流階級が総じて下流化し、上下の格差が拡大しているのが明白なんですけどね。
それに日本では所得の再分配機能が十分に働いていないことも指摘されていて、格差は拡大、そして固定化しています。
分厚い中間層を形成することは国が発展するためにはとても重要だと思っているのですが、多くの国民が中流を自認していたら実は下流だったことに気づかされ、
「時すでに遅し」ってことにならなければいいですね。

2021.11.06  妥当性
今週から新しい医療事務さんが勤務しています。
初々しいというか、ぎこちないというか、みんなで暖かく見守っています。
以前も医療系のお仕事をしてたのですぐに慣れると思います。

「コロナの感染対策のため店員がブックカバーをかけるサービスを休止しています」
という理由を、
「そんなものが感染対策になるんだろうか?でもまあ、仕方ないかな」
と渋々納得し、
「じゃあ、コロナが終息したらまたサービスは再開してくれるんだろうな」
と期待していたら、(実際に店員さんに確認したものです、この対応は9月一杯ですって)
「コロナ対策で店員の人数を減らしていますので、店員がブックカバーをかけるサービスを休止しています」
という表示に変わっているのに気づいてしまった時の怒りとも違う、言いようのない失望感。 

従業員を減らすことがコロナ対策になるという論理は果たして成り立つのだろうか?
従業員が大勢いると密になる?
5人を4人にするとか、4人を3人にすることが劇的に感染のリスクを低減できる?
普通は、お客さんの数を減らす(入場制限をする)ことで密を防ぐというのが理にかなっていると思っています。 

飲食店も従業員、バイトの人数を減らしました。
それは感染対策ではなく、理由は人件費と売り上げの関係からでしょう。 

コロナで売り上げが減ったから(お客さんが少なくなったから)人件費を減らすために従業員を減らしています。
人数が少なくなればこれまでのようなサービスを維持するのが難しくなります。
だから我慢してください。
とでも言ってくれた方がもやもやしなくてもいいのではないかと思った次第です。 

そして、「この店では雑誌は買うけれど本は絶対に買わない」と、心の中で誓ったのでありました。
だからでしょうか、「カバーはどういたしますか?」と聞いてくれる蔦屋や未来屋書店にどうしても足が向いてしまいます。 

何が言いたかったかと言うと、できない理由をあれこれと理屈の合わない、納得できない論理で説明するのではなく、
正直に話してくれるほうが誠実な印象を与え、人心が離れませんよっていうお話でした。

2021.11.03  学会近し
今年も秋の早慶の2戦目(最終戦)をテレビで観戦していました。(31日の日曜日)
昨年は蛭間くんの劇的な逆転ツーランで早稲田が勝ちましたが、今年は慶応の終盤の粘りで引き分けに持ち込み慶応の優勝で終わりました。
別に親族に早慶卒業生がいるわけでもないのですが、ずるずると見ておりました。
プロに比べると、ピッチャーのコントロールも甘いし、バッターの打ち損じも多いけれど、日曜の昼間のだらけた時間、真剣勝負の面白さを堪能しました。
特に、慶応の2番の子(渡辺くん)、プロに入っても結構やれるかも。
早稲田の徳山くんはもう少しコントロールの精度を上げないとプロじゃ厳しいぞ。
と、無責任な感想を抱いて観ておりました 

今日みたいな平日の休み(祝日)はとてもありがたいものです。
休日の前夜は深酒ができる(外で飲める)というのもグッドです。
緊急事態宣言も明け、時短営業も撤廃されたためおひとり様を満喫できるんですね。
久々に代行を利用しました。
翌朝は寝坊しても誰にも咎められず、買い物や昼食にも行けるし。 

「日曜日っていう堂々とした休日があるじゃん」
というご指摘はごもっとも。
しかし、日曜日という当たり前の休みに比べ、祝日は何だか「特別感」、「お得感」を抱かせてくれます。 

本来は明日から神戸で学会のはずですが、今年もオンライン参加が可能となっていまして、診察の合間に講演を覗くことができます。
これまで木曜日を休診にして神戸に行き、美味しいものを食べて日帰り旅行を満喫するのが定番だったのですが、
診察室にいながら学会に参加できる(参加したことにできる)のはコロナがもたらした最大のメリットです。

現地に行くとなると、朝早くの電車で東京駅へ、そこからのぞみに乗ると、神戸に着くのがだいたい11時前。
シャトルバスに乗って会場に入り参加登録をして、会場と神戸市内をぶらぶらしてからとんぼ返りすると夜9時過ぎに自宅へ。

年を取ると結構辛くなるものですね。
出張慣れしていればどうってことない行程でしょうが、普段電車に乗ることも滅多になく、
都会の人混みにもまれながらあちこち移動するという非日常的な行動は田舎育ち、田舎暮らしの自分には強いストレスでした。

今年はハイブリッド開催(オンラインでも現地に行ってもOK)となっていますが、今後もその形式になることでしょう。
まさか現地に行かなきゃ専門医の点数をあげないという意地悪はしないと思っているんですね。
主催者側もだだっ広い会場、宿泊者用のホテル、シャトルバス、大勢の現地スタッフを確保しなくてもいいんですよ。
オンライン配信のシステムにかかる経費を差し引いても大きなメリットになると思います。

行きたい人は行けばいいし、行きたくない人はオンラインで参加すればいいし、そういう選択の自由が増えることはとても良いことだと思っています。 

結婚して姓を変えるか変えないかも他人が強制するものではないと思っていて。
結婚して同姓にしたい人はすればいいし、変えたくない人はそのままでいいと思っているのですが、
頑なに「変えちゃいけない」と同姓に拘る人は変えたくない人にどんな迷惑をかけられるんだろう?
自分が何か不利益を被るのであればそれを教えて欲しいのですが、決してそれを教えてはくれません。

家族の絆が、日本の伝統がなんちゃら、という上からのお題目を聞かされても、
「それで、あなたに何か不都合があるのですか?」

自由である、あらゆる選択肢がある、というのは幸せだと思います。
この道しかない、これを選ぶしかない、というのはやっぱり不幸極まりないです。



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