独り言


2020.06.28  後出し
昨日の午後はお休みをもらいました。
月に1度くらいの割合で休診日を設けておりまして、かかりつけの患者さんたちには大分浸透してきたようです。
昨今の働き方改革のあおりを受けてっていうわけでもないのですが(それも幾分関係ありますね)、自分でも余った時間を有効に使っております。


専門家会議は廃止して新たな組織を立ち上げる。
御用学者の先生たちにはお引き取り頂いて、ズバズバ本音で語り合うメンバーで今後の難局を乗り越えるっていう話であれば良いのですが、どうもちょっと違うような感じです。
全く逆のパターンになるのではないかと危惧しております。
 

これまでの専門家の先生たちは、あくまでも医療、医学的見地から感染症対策について国民に向けてメッセージを出すっていうスタンスだったと思います。
しかし、それがどうも国の上の方々にとってはちょっと都合が悪かったんじゃないかと邪推してしまうのですが、どうなんでしょうか。

最初の頃は臨床医とそりが合わず、現場感覚に欠けるなんてことも言われておりましたが、尾身先生をはじめとしてメンバーの方々は国民の疑問や不安に対し非常に真剣に、誠実に対応してくださっていたと思います。 

それに対し、経済活動の再開に舵を切った政府としては、「もっと忖度してくれよ」、「経済のことも考えてくれよ」って思ったのかもしれません。
僕も常々そう思っていました。
感染対策だけにスポットを当てれば、専門家委員会の先生方の仰ることはごもっともですが、

「そんな生活は楽しくない」って思いました。 

今度は政府の息のかかったメンバーにより、表立って厳しい提言はせずに各部署とのすり合わせをしながら分科会としての意見を上に挙げていくことになるんでしょうか。 


現在の価値観や常識に基づいて過去を振り返って、過去の事を断罪するっていうやり方ってどうよ。
何のことかと言うまでもないのですが、最近の黒人差別反対のデモに纏わる世界で起きている銅像の撤去や映画配信の停止などについてです。

現在の常識とか正義とかが未来永劫続くとは限らないわけで…、勿論人種差別が悪であることは未来永劫にわたり正しいことであり続けると信じていますが、この風潮には違和感を覚えています。
日本人特有の「あの時はあれで仕方なかったんだ」という言い方で全て免罪すべきと言ってるわけでもなく、歴史的な背景や時代的な潮流をしっかりと把握して議論すべき事柄かと思っています。

日本でも各地の小学校にあった二宮金次郎(尊徳)の像がある時期から続々と撤去されてしまいました。
歩きスマホを助長するだとか、歩きながら本を読むのは危険だとか、難癖ともとれるような理由で姿を消していったんですね。

事件当時にはその犯罪的行為を裁く法律がなかったからと言って、後から新たに法律を作って過去の犯罪を裁くことはできないですよね。
銅像を撤去する行為は薬物使用でアーティストが逮捕された後でその人のCDや出演作品がお蔵入りになってしまうのと同じじゃないかって。

黒人への差別問題と銅像の撤去、過去の映像や作品への批判を一緒くたにしてしまって、何か変な方向に向かっているように感じて仕方ありません。
ディズニーのアトラクションに対しても批判が出ているようで、どうもポリコレが行き過ぎているようです。

そんな世の中、息苦しくないですか?
 

2020.06.27  一歩前進
19日から移動の制限が解除されました。
恐らく結論ありきだったと思いますが、ひとまずは良かったと思います。
プロ野球も始まり、町にも賑わいが戻ってきたように感じています。 

診療においても少しずつ変化が出てきていて、45月は電話再診が多かったのですが、今月はちゃんと対面診察してくれるようになってきました。
これが本来の医療だと思っていまして、顔を見る、胸の音を聴く、話をするってことが基本ですね。

一般に医療機関を受診する際にはマスクを着用されることが推奨されていますが、あくまでも推奨レベルであって、うちのクリニックにおいては義務ではありません。
マスクをつけるかどうかは個人の意思、考え方を尊重しています。
有症状であれば着用してくださいとお願いするし、咳込んでいればマスクを提供しています。
だから、無症状であれば着用を義務付ける必要はないと思っているんですね。
中には全くマスクをしてこないでここ
3ヶ月間通院されている患者さんもいますが別に構わないと思っています。 

ただ、医療スタッフは僕も含めマスクをしています。
これは自分が移されたくないというよりも来院された患者さんへの配慮っていうのかな、医療スタッフは感染症のリスクが高いと思われているので、その疑念を少しでも下げましょうっていう目的なんですね。
手話でコミュニケーションを図っている患者さんは僕の口元を見ることで話の内容を理解することができます。
だからできるだけマスクを外して大きく口を動かして会話しています。 

今回のコロナで改めて問われたことは、自分で考え判断する、行動に責任を持つということでしょうか。
上が決めたことを守るのはとても大事、でもそれはとても簡単な事でした。言っちゃ悪いけど子供にもできることです。
しかし、強制力がないものに対して自分で考え、決め、その責任を負うというのは非常に難しいものです。

そして一番厄介なものは「他人の目」という同調圧力ではなかったかと思います。 

自分の意志で自粛すると決めたのであればその決定に従って行動すればいいし、それを人に強要するべきではないと思うんですね。
自分と同じように行動しない他人を非難するのはどうかと思っています。

 

また、自分で考えるのが面倒だからいっそのことお上が全てを決めて欲しい、自分はその通りに行動するからって考える人が多いみたいです。
その方がとても楽だもん。
これってニーチェの言う「畜群」って奴なんでしょうか。


先ごろ行われた
NHKの世論調査の結果には驚きでした。外出禁止や休業を強制できる法律の改正が必要と答えた人が62%もいたんですね。
そんなにお国に私権の制限をしてもらいたいの?
多分、自分はちゃんとしているのに自由気ままに行動して、自粛していない奴らが許せないっていう正義感溢れる方がこの
62%の中にある一定数いるんだと思いますけどね。 


沈没船ジョークっていうのを目にしたことがあるかもしれません。
豪華客船に色んな国の人が乗っていて、乗客を海に飛び込ませるためにどう声掛けをすればいいかっていう話。

アメリカ人には「今飛び込めばあなたはヒーローになれますよ」と伝える。
イギリス人には「こういう時にこそ紳士は海に飛び込むものです」と伝える。
イタリア人には「海に美女が泳いでいます」と伝える。
ドイツ人には「規則ですので飛び込んでください」と伝える。
フランス人には「決して海には飛び込まないでください」と伝える。
そして日本人には「みなさん飛び込んでいますよ」と伝える。
というものです。

僕が委員として末席を汚している市の会議は一向に開催される気配がありません。
最初になし崩し的に会議の中止を決めてしまったものだから今度は再開催への基準がないんですね。
どうなったら中止、こうなったら再開という基準がないまま、「こういうご時世だから」という理由で集会の禁止を打診されたことが思い出されます。
当時、担当者に強く不満をぶつけたんですが…、広い会議室で窓を開けっ放して数人で会議することに難色を示した人たちは今度どういう基準で再開の話を持ってくるのか見ものです。
あれだけ安全な方法(今でいう「新しい生活様式」とやら)を提示したのにそれを拒否したのだから、ウェブ会議以外に方法はないと思っていますが、さてどうなります事やら。

2020.06.20  完全な形
この定義がいつの間にか変わってきているらしいです。
定義っていうものはそんなに簡単に変わるものなんでしょうか。
またそう簡単に変えてもいいものなのでしょうか。 

周りの状況が変わったんだから変わって当然だっていう意見を否定するものでもありませんが、あまりにもご都合主義なんではないだろうか。
なんの話かっていうと、オリンピックの開催に伴う誰かさんの勇ましい発言に対してです。
 
まあ、いつものことなんで、驚くことでもないんですね。
「ああ、またか」って。 

全ての競技を完全な形で行うっていうのは、
選手、観客を何の制限もなく会場に集めて開催するっていうことでしょうに。 

しかし、ここにきて何だか予防線を張っています。
開会式や閉会式を簡素化する、競技や観戦の規模を縮小するなんて言い出しましたから。
全くもって言葉が軽い、というか前言を翻したり整合性が合わなくなったことに対して何の躊躇いや疚しさを感じていないところに本当に尊敬してしまいます。
自分にはできない所業です。
まだまだ修行が足りないようです。
 

いつのころからでしょうか、オリンピックには全く興味を失ってしまいました。
メダルの数がどうだ、日本選手がどうした、感動をありがとう、っていうところに嫌気がさしてここ2,30年は見ていないような気がします。

日本ではナンバーワンだけど世界にはこんな凄い選手がいるんだという、言わば世界の運動会というのがオリンピックの位置づけで、
それを見る楽しみだったのに、日本選手が負けたらそこでその競技は終了っていう放送が主流となったあたりから見る気が失せてしまいました。

多分、商業主義のオリンピックと自国第一主義のメディアにより僕のオリンピックに対する興味はゼロとなってしまったんですね。
オリンピックに背を向けるのは非国民だ、皆で盛り上げていくべきだなんていう論調、世の中の空気っていうものがどうも気持ち悪くて。
選手には何の罪はないんですが、オリンピックに群がる有象無象(この際いっちょ儲けてやろう、甘い汁に与かろうっていう輩)に対する嫌悪感って言うのかな、
例えば〇〇とか、△△とか、××とか。


オリンピック発祥の地であるアテネに固定してもらうほうがすっきりするんですけどねえ。 

当初とは形を変えた「完全な形」でのオリンピックはどういうストーリーを作ることで「大成功」との大団円を迎えることになるのか、ちょっと興味が…、うーん、全く興味が沸かん。

2020.06.13  どうすれば
「私がどうして怒っているのかわかる?」
と問い詰められた時、どう答えるのが良いのでしょうか?

 実際に僕が経験した事例ですが、
「運転手さん、ここは一時停止の標識があるんですが、見てなかったんですか?」
と聞かれたことがあります。 

ここで、「見ていませんでした」と答えると、
「注意義務違反だね」って言われます。 

そして、「見ていました」と答えれば
「どうして見ていたのに止まらなかったの」と言われてしまいます。
結局どっちにしても怒られて反則切符を切られるんですけどね。 

どう答えればよかったんだろう。 

最初に戻ってみましょう。
どうして怒っているか?
「わかりません」って言えば、
「どうしてそんなことも判らないの」、「もっとよく考えなさい」って怒られます。 

怒っている理由を正しく言えば、
「判ってるのにどうしてそんなことするの」ってやっぱり怒られます。 

自分としてはさっさと怒られたいのに、相手はわざわざ疑問を投げかけたうえでこちらを責めようとするのは何だか面倒くさいです。
相手の顔色を見ながら、答えを探しながら、お伺いを立てながら、思いっきり下手に出ながら叱られるのを待つんですね。
まっ、世のお父さん、お母さん方は決してご自分のお子さんをこんな風に叱らないでやってください。 


梅雨に入りました。
突風と豪雨、およそ梅雨とは思えないような雨の降り方で少し面食らってましたが、体感は梅雨そのものでした。
この後、1ヶ月あまりは鬱陶しい季節と付き合うことになります。
換気はしなくちゃならないけれど除湿もしなくちゃならないし、一体どうすればいいの? 

という話をちょっと別の角度から見つめてみました。

2020.06.07  授業再開
 遠い地平線が消えて、
 深々とした夜の闇に心を休める時、
 遥か雲海の上を、音もなく流れ去る気流は、
 たゆみない 宇宙の営みを告げています。
 


昔、と言っても40年ほど前でしょうか、雑音混じりのラジオから流れてきていたのが
「ミスター・ロンリー」の曲とこのナレーションでした。
(全てを文字起こしするのは憚られますので冒頭部分だけにしました。)
最近はテレビを見ることも少なくなっているので専らyoutubeの映像や音楽です。
受験勉強の真っただ中に聴くこの番組は何物にも代えがたい至福の時(ご褒美)でした。
懐かしい日々が蘇り、暫くぼーっと聴いておりました。 

深夜放送を聴いていたのは中学生から高校生のほんの56年間だけでしたが、親や先生や友達からは決して得られない情報、外の世界がそこにはありました。 

海外旅行が一般的ではなかった時代にニューヨーク、サンフランシスコ、ハワイなどの情景を音楽とともに紹介してくれる日本航空提供の「ジェットストリーム」。
バリトンの城達也さんの声、想像するだけで旅行した気分になれた少年時代にタイムスリップし、昨今の疲れた心の治療薬として役立てています。 


これまで分散登校だったのが明日からは通常授業になるらしいです。本当に良かったと思います。
しかし、色々な感染対策が講じられているようで、生徒、先生、保護者の皆様には多くのストレスがかかるでしょうが、
これが完璧な対策の最終版ではないと思っていたほうが腹は立たないと思います。

対策が足りないと思えば追加すればいいし、不要だと思えば削除すればいいわけで、試行錯誤が重要だと思っています。

先日、養護の先生から感染対策のプランを見せていただきましたが、非常によく考えられています。
「ちょっとやりすぎじゃない?」、「これじゃ学校生活が楽しくないんじゃないかな?」と思わせる事項もありましたが、
まずはやってみて、臨機応変に対処すればいいのではないかと思いました。

過剰に恐れては何もできなくなるし、油断すれば感染の爆発に繋がります。
まずは学校の対応を信頼して見守っていくことが大事だと思っています。

2020.06.04  ソーシャルディスタンスよりも
6月になって少し空気が変わったかな?って思ったら湿った風が顔に当たってただけでござったよ。
クリニックの前の芝生の草を刈ってもらったとたんにダンゴムシやらワラジムシさん達が玄関へご来院。
スタッフに言われるがまま駆除の薬を撒いたところ、毎朝20-30匹くらいの死骸が横たわっています。
「また殺生をしてしまった」と心の中で呟きながら箒で履いております。 

プロ野球もJリーグも開催日程が決まり、いよいよと思った矢先にコロナ感染者が出てしまいました。
特にジャイアンツは中心選手の坂本、大城っていうところが痛いですね。
それにしてもPCRの「微陽性」って初めて聞きました。最初、「ビヨンセ」って言ってるのかと思いましたもん。
ウイルス量が非常に少なくなっているっていうことでしょうけど、「凄く軽症ですよ」って強調したいっていうのが手に取るようにわかる公式発表でした。 

罹ってしまったものはああだこうだ言ってもしょうがないと思っています。
「無事でよかったね、重症化しなくてよかったね」って言ってあげることが大事であって、
「どこで罹ったんだ、皆に迷惑をかけたから謝罪しろ」と非難するべきではないと思います。

もし、不幸にして自分が罹ってしまった時、当然それを(同じ言葉を)受け入れる度量がある人であれば別でしょうが。
 

ブルーインパルス飛ばしたり、ビルやタワーを青くライトアップしたり…、個人的にはあの意義(ありがたみとも言うのかな)を感じないんですね、済みません。
自分がコロナの患者さんを診療していないから、
修羅場を経験していないから、
感染するかもしれないという恐怖感を味わっていないから、
巷で言われているような凄い差別を味わっていないから…、
なんだろうか?
 

飛行機を飛ばす予算は他のことに使ってほしい、
布マスクを配る予算を倒産しそうな事業者に分けて欲しい、
パソナや電通に中抜きされる事業費を失業しそうな国民に配って欲しい、
そんなことを切に願っています。


国民の税金は誰かさんの、誰かさんによる、誰かさんのための事業に使われようとしているのがどうしても見えてしまいます。
違うというのであればきちんと、それこそお得意の「丁寧に」根拠を示してほしいのですが、政府は何故か隠蔽しちゃうんですね。

「何も問題ない、ご批判には当たらない」っていうわけです。 
 

「人を見たら泥棒と思え」
という言葉をふと思い出しました。

昨今では、

「人を見たらコロナ(かもしれない)と思え」という嫌な世の中になっています。 

それにも増して、「自分は人からコロナ(かもしれない)と思われているんだな」
ということを受け入れなくてはならないというのは非常に屈辱的であります。
世間の方々は果たしてそれを甘受しているんだろうか。 

「このご時世だから」といってはあまりにも悲しい、寂しい気持ちになります。 

人と距離を遠ざける以上に心をも遠ざけてしまっているように思えます。 

これまでは自由に訪問してきていたのに、「訪問を控えさせていただいております」といって、勝手に自粛し、安全なところに籠っていた営業マンを
果たして自分は快く迎え入れることができるかどうか自信が持てなくなりました。



戻る