独り言

2016.06.26  離脱しちゃだめなの?
イギリスのEUからの離脱が決まった件について。
国民投票が始まる直前の予測は残留有利だったようでしたが、いざ蓋を開けてみると離脱派が過半数を占めてしまいました。
この結果を世界の多くは「残念」という論調で評していますが、本当にそうなのかあ?って感じたのも事実です。

EU離脱は「排外主義」、「ナショナリズム」という論点に持っていき、トランプ氏の考え方やヨーロッパの極右政党とダブらせてしまっていますね。
今回、離脱票を投じたのは高齢者層ともいわれています。
この人々は本当に右翼的な思想を持っているのでしょうか?

EUの理念というのは欧州を統合することで、戦争を繰り返していたヨーロッパを平和にしたい、経済活動や人の移動を自由にしましょう、というものだと認識していますが、
後半部分については所謂、「ヨーロッパをグローバル化」するってことですね。
グローバル化することで経済活動は活発になります。金儲けするには関税や規制なんて取っ払うのが一番ですからグローバル化はとてもありがたい。
しかし、当然のことながらみんなが儲かるわけではなく、失敗するグループ、恩恵を受けられないグループも出てくるんですね。
貧富の差(格差)の拡大が広がり、中流なんていなくなってしまいます。これは日本でも見られる現象です。

こういったEUの理念に反対するのは反平和主義の人々ではなく、反グローバリズムの人々だと思います。
それがイギリスでは過半数に達してしまったと。
そういうことなのではないかと思っています。
もし、恵まれていない、不遇を味わっている人に対し、少しでも分配したり、格差を小さくするような施策がなされていれば結果は違っていたのかもしれません。
また、イギリスはもともと共通通貨のユーロを導入していなかったり、ドイツ中心のEUの運営を快く思っていなかったりで、国民も深層では離脱してもいいかな、と思っていたのかもしれません。

国家だとか国民性だとかを無視した形でのグローバリズムより、イギリス人としての誇り、伝統を守りたいと思う人々を、「ナショナリズムだ」と一緒くたにするのはちょっと違うのかなあって。
離脱に票を投じたのは高齢者が多かったというのもなんとなくわかる気がします。
ナショナリズムと言うとどうも「右翼」と結びつきますが、本当は「保守」と呼ぶべきではないのだろうか、と思ったわけです。

それと、今回の結果を日本のマスコミが一斉に批判するっていうのも何か違和感を覚えています。
世界経済を混乱に陥れるから?円高株安になるから?
何でも経済、金の面でしか考えない(考えられない)って悲しい気分にさせられます。

2016.06.18  新加入
今週から新しいスタッフが本格的に働いてくれています。
「本格的に」と書いたのは、先週まではどちらかというと研修期間みたいなものでしたから。
古株さんがつきっきりで教えていましたが、「もう子供じゃないんだから」ってな目で見ている自分がいたりして。

しかし、うちの場合、限りなくアナログなシステムなものですから電子カルテに慣れた人にとっては結構大変かも。
ものの在処、細かい記載方法、掃除の仕方、片付け方等々、いちいち面倒くさかったのではないでしょうか。
で、今週から独り立ちでしたが、まあ、この時期は患者さんも少ないのでそれほど狼狽えることなくやって行けたように感じました。

前回の新入りさんの時は10月のインフルエンザの予防接種時期と重なりましたので・・・。
今思い返すと、彼女はえらく大変だったんですね。それでも飄々とこなしていましたけど。

今回スタッフの加入により、従来のスタッフの勤務体制が少しだけ緩和されていまして、かかりつけのある患者さんは、
「いつもいるはずのあの人がいない、やめちゃったのかな」と本気で心配していたようです。
なにぶんスタッフも年をとってまいりましたので休みを多くしないと疲れちゃうんですね。良いパフォーマンスを保つためにはリフレッシュも必要でしょうから。

そんなこんなでうちも11年目が終わろうとしています。

2016.06.11  可哀そうな山羊
梅雨入りして早1週間。しかし、雨が降ったのは1日だけで、水不足のニュースも聞かれます。
そして、院内もエアコンを付けないとあちこちから苦情が出てくる今日この頃です。
寒いより暑いくらいの方が好き、というわけではありませんが、個人的にはこの時期ってそれ程嫌じゃないです。
なぜかって?
それは日が長いから。
朝も明るいし、帰る時も明るいです。これが精神的にとても良い効果があると思っています。
夏至を境に日が短くなるのは少し寂しい気もしますが、できるだけ太陽の光を浴びて良眠を貪りたいです。

今週も舛添さんが火だるまになっています。
東京という一つの地方の知事の不祥事を全国ニュースで延々とやるのは如何なものか、いっそのことNHKの関東ローカル枠やMXテレビあたりでやればいいんじゃないかなあ、なんて思ったりもしていますが。
あれって、東京の一極集中主義がマスコミにも色濃く出ているのかなあって思うんですね。
果たして九州や北海道の人に対してもトップニュースの価値があるのかなあって。
東京のマスコミが、「都知事の不祥事は全国民に対しても非常に重要なニュースであるので心して見るように」って、なにか勘違いしているように感じています。
例えば、仮に九州や四国のある知事が同じことをした場合、果たして今回の舛添さんのような報道のされ方をしただろうか?
多分、答えは否でしょう。

それよりいつの間にか政治活動を再開した不眠症の方の追及の方が重要ではないんだろうか?あれはあっせん利得罪(あっせん収賄罪)だもん。
国会が閉幕すると同時に不眠症が治ってしまうなんて、そんな都合のいい患者さんは・・・。
そういえば、毎朝腹痛で学校に行けなくなるのに夏休みに入ると同時におなかの痛みがなくなってしまう学生というのは見たことがあります。(ストレス性胃腸炎の類ですね)
決して舛添さんの肩を持つわけではないんですが、何だかスケープゴートにされたような感じがしてならないんですね。


今週から近くの学校の内科検診が始まりました。
僕の担当している学校は人口増加地区(子供の増加が著しい)ですので、毎年生徒数が増えていき、今年は1日に1学年ずつしかこなせなくなりました。
学校側としては他の行事との兼ね合いもあって日程の調整が難しくなるのですが、僕としては少し楽になっています。
昨年までは時間内で9〜10クラスやっていたのが、今年は6〜7クラスになったので。
そして皆さん一様に礼儀正しく、静かに診察を受けてくれます。
こういうお子さんがいるこの地区は教育環境、住環境といった面でもとても恵まれたところと言えるんじゃないかと思っています。

2016.06.04  寛容な社会へ
躾か虐待かで揺れた北海道の事案ですが、何はともあれ見つかってよかったです。
しかし、見つかった場所が何ともマズかったんではないかと思います。
自衛隊の施設内に自由に入れることが公になったことで、「セキュリティはどうなってるんだ」、「テロリストに狙われたらどうするんだ」なんて非難が沸き起こるかも、といらぬ心配をしておりますがどうなりますことやら。
小さな子だと普通は親の車を追ったり、その場で泣き叫ぶなんてことが予想されますが、そうじゃなかったことに驚きです。

僕も振り返ってみると、子供を感情的に叱ったことってあるんですよね。そういう場合っていうのは自分の思い通りにならない子供に苛立っただけでして、若かりし頃を反省しております。
おそらく、論理的に説明する言葉を持ち合わせてなかったり、「なぜ?」に対する正しい答えが自分でもわからなかったのではないかと思いますが。
所謂「常識」とされる事は先人、両親からの受け売りだったり、ただ「空気を読む」ことだったりするわけで。
改めて自分の頭で考え、自分の言葉で説明したことのない事柄をなんとなく、「そんなの常識だろ」って片づけていたんですね。
だから、それを真正面から反発された場合、ぐうの音も出なくなってしまうんですね。自分の「常識」を完全否定されたことに対して、説得するのではなく、怒りで反応してしまう。

子供が悪いことをしたときに、一貫性のない叱り方をしてしまうと、子供につけ込むチャンスを与えてしまったりします。
「あの時は何も言わなかったのに、どうして今日は怒るの?」
「妹も同じことをしているのにどうして僕ばかり叱られるの?」
などと。
親として子供を叱るような時期はとうに過ぎてしまいましたが、子育て中の躾っていうのは本当に難しいものだと思います。
だって、自分も決して完璧な大人ではないんですから。人間としてはまだまだ未成熟な面が多々ある中で、核家族化した家庭で一人の親として子供を正しく育てることは困難極まりないと思っています。
それに、最近の社会って寛容性に欠ける、冷たいコミュニティになっている気がしてなりません。
大学生のうちは「学生さんだから」という、何か免罪符みたいなものがもらえていましたし、社会人でも20代のうちは「まだ若いんだから」、「新人さんだから」といって何かと許されていました。
しかし、今の世の中は常に一人前の大人として、企業人として自己責任を問われて非常に息苦しいものとなっているようです。
周りの大人は助けてくれず、自分のことで精一杯といった感じですね。
もう少し、寛容な社会になるといいんですけどね。

今回の件も、お父さんの謝罪する姿を見ると、非難する気にはなれません。
ここで、虐待じゃなかったのかと責め立てるより、「大変だったね、良かったね」とそっとしてあげることが、社会の寛容性ではないかと思います。


躾か、それとも虐待か、その線引きは非常に難しいですね。
そこは、今流行りの、
「第三者の厳しい目で」、「新しい判断」をしていけばいいってもんじゃありませんが、
親へ教育とお節介な社会と充実した福祉政策が虐待を防ぐ手立てとなるのではないかと思っています。



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