独り言


2014.09.28  果たして効果は?
秋の気持ちの良い風と金木犀の香りに誘われてウォーキングに出かけていました。所々でジョギングも交えたため、膝が痛くなって予定より早めに戻ってまいりました。
日ごろから患者さんには「運動しましょう」と言ってる割に自分は全くやらないというのも気が引けるので、これからは休みの日ぐらいは(天気が良くって、何も用事のないとき)運動せねば。
やけに限定的やなあ。

以前から何度か運動療法(散歩にちょっと毛が生えたようなもの)を行ったことがあるんですが、なかなか持続できませんでした。
夏の間はいいのですが、秋から冬になってまいりますと、「今日は雨が降ってるから」、「今日はちょっと寒いから」などと理由をつけて、
毎日欠かさず歩いていたのが、週に
4日、3日と減っていき、いつの間にやらやめてしまっていました。
今度は週に
1日からスタートして徐々に増やす作戦で行ってみよう。(効果あるんだろうか?)

効果があるのかどうかわからないものとして、個人的には「早期英語教育」を挙げたいです。
英語を小学校で教えることによって国際的な人間に育つとか、コミュニケーション能力が付くなどとまことしやかな説明がなされているようですが、絶対に違うと思っています。
英語が話せる、理解できることは英語ができない人に比べれば大きなメリットになります。しかし、大事なことはその内容であることがなぜか議論からは抜けているように思えるんですよね。
ただ、話せればいいのか?その辺のアメリカ人とフランクに芸能人の話やらスポーツの話やら、道案内ができればそれで英語圏の人たちと十分なコミュニケーションがとれたと言えるんだろうか?
そんな能力を得るために小さいころから英語を勉強させるのかなあ?
それより日本の文化、歴史、伝統、芸術、教養、自分の確固たる考えなんてものを下手な英語でもしっかり伝えることの方が国際人として認められると思うんですけど。
そのためには幼少時は本を沢山読んだり、論理的な思考能力がつくように自然科学や数学を勉強し、地理、歴史を学び、正しい日本語、漢字、道徳などを身につけておくことが重要だと思います。
日本人のすべてが第二母国語として英語を身に着けることでどんなメリットがあるんだろうか?
外国に行ったときに便利?2020年のオリンピックの時に外国人旅行者と流暢に会話できる?
ふーん、そんなもののために小、中、高の12年間を辛い英語の勉強に費やすのはごめんだね。と考える人は大勢いると思います。
「グローバル企業では英語が必須です。」と言われてもなあ。
全ての人がグローバル企業で勤めるわけではないしねえ。例えば、将来、アメリカの植民地になって英語を話せなければ生活できないというなら別でしょうが。
グローバル企業に入ることで高い収入が得られ、幸せになると言われても・・・。楽天やユニクロに入ることが幸せか?と言われるとちょっと首を傾げてしまいます。
日本には1億人がいて、日本語の識字率はほぼ100%の島国では日本語が話せれば生きていける状況です。
テレビも新聞も本も日本語ですし、英語の必要性はごく一部のエリートや特殊な職業の人に限られてくるわけです。
だから、英語でコミュニケーションが取れる人って全人口のたかだか5%くらいいれば十分なんじゃないかと思うんですね。
そういう人はこれまで通り中学生からの英語教育で十分養成できるんじゃないかな。

推進者のもう一つの意見として英語を話せないことで世界に取り残されるというものがあります。
ドイツ人やフランス人も同じように考えるかなあ?
日本人は常に自分たちは世界より遅れている、劣っている、だから追いつかなくてはならないと思っている節があります。
そして追いついて、追い抜いてしまうとまた、何か足りないところを探してキャッチアップしようとするようです。
永遠のナンバー2という状態かな?でもそれに満足していて、ナンバー1になるとどうも落ち着かないっていう感じ。
世界のリーダーになるとどう振舞っていいのかわからない、っていうどこか自信なさげな態度が日本人の特徴だと思います。
だから、英語教育についても日本人が国際的に遅れているのは英語が話せないからだ、英語を自由に操れないからだという議論が起きてくるのかもしれません。
英語を話せる人の前では卑屈になる、帰国子女をやけにありがたがる(能力に下駄をはかせる)なんていう状況が生まれるのも日本人ならではなのかな?

僕は日本語の多様性というものに英語にないものを感じています。
英語の1人称、「 I 」は「私は」となりますね。1人称を表す単語は唯一、「 I 」だけです。誰が話しても同じです。2人称は「 You 」だけです。
日本語の場合は、1人称で表現される単語としては、私、僕、俺、ワシ、小生、拙者、あたい、うち、わたくし、オラ、おいら、自分・・・、色々あります。
2人称の単語も、あなた、あんた、お前、おぬし、てめえ、貴様、君、ユー、等々。
また、状況によって使い分けもしますね。目上の人に対して話す場合、怒った時、友達同士の会話、武士を演じたい時、風大左衛門を演ずる時。
母親が子供を諭す場合、自分のことを、「お母さんはね」と言ったりしまして。英語では「 I 」と言うしかないんですが、場面による使い分けが可能です。
幼い子は自分のことを「さっちゃん」って言うし。
女性が男性にものをねだるときには、決して「私は○○が欲しい」なんて言わないと思います。
「●●(女性の名前)は○○が欲しいの」って、英語だと「 I 」なんでしょうけど。

英語教育が不要というわけではなく、全ての国民が英会話能力を身に着ける意義は低いと。
そのための英語教育は時間の無駄ではないかと思っているんですね。
英語は必要な人が必要な時に学習するべきで、そのほかの多くの日本人は教養、自然科学、歴史、文化、伝統といった教育にもっと時間とお金を使うべきだと思うわけです。


ちょっと意地悪な考えを思いついたので記しておきます。
この早期英語教育の導入には経済界からの要望が大きかったと思います。
日本人に英語を覚えさせることにより、多くの英語圏の人が入ってきたときに日常会話が可能な日本人が沢山いることになります。
そうすると、多くの外国人労働者が日本でも不自由なく働くことができる、これは移民対策にも好都合。
介護職に多くの人手が必要になることが予想されています。その時に外国人の日本語能力がネックになりますが、日本人が英語を理解できていればそれもクリアできる。
ちょっと飛躍しすぎた考えでしょうが、財界人は日本語だけのコミュニティーは金儲けには不便だと考えているのかもしれないな、とふと思いました。

先日、来年のカレンダーが送られてきました。パラパラっと捲ってみると、来年は5月のゴールデンウイークのほかに9月にも4連休があるんですね。
ちょっと楽しみです。

2014.09.23  掃除日和
爽やかなこんな日に暮れの大掃除の下準備としてちょこっと掃除をしていました。
12月だと水も風も冷たくなりますので、かえってこの時期の方がいいのかも。
衣類も夏物と秋冬物の入れ替えをやったり、久々に家で過ごす時間が多い休日でした。

ついでに昼間っからビールを飲んで、音楽を聴いて、本を読んで。

2014.09.15  敬老の日
昨年に比べて秋の訪れが幾分早いような気がしてなりませんが、このまま冬になってしまうのはちょっと寂しいですね。
昨日今日と連休になっていまして、来週も飛び石連休と、秋の行楽にはもってこいです。
とは言っても、特にやることもなく、ぶらぶらしてるだけなんですが。
 
今日は敬老の日で、新聞にも国民の四分の一が
65歳以上の高齢者になってしまったというニュースが出ていました。
これをどう解釈するのか。

1)大人が多くて成熟した社会になったなあ。
(2)高齢者が多くなって社会保障が大変だなあ。

少なくとも(1)でないことは確かで、ほとんどの人々は(2)と感じているのではないでしょうか。
ということは、老人はこう言っちゃ悪いのですが、「邪魔者」扱いされていると言ってもよさそうです。

この時ばかりは、「老人を大切にしましょう」、「いつまでも元気で」とか言ったり、テレビ番組で
90100歳のスーパーおじいちゃんの紹介をやってはいますが、
どちらかといえば「高齢化問題」として捉えているのではないかと思います。

高齢化「問題」と言うところからして、高齢化は「厄介なこと」、「迷惑なこと」というニュアンスが感じられます。

日本は元々、国際的には中福祉中負担だったと思うのですが、いつの間にか、低福祉高負担にシフトしつつあります。
非常に悲しいことですが、日本が「グローバルな国家」になろうとしていくのなら仕方のないことなんだろうと思っています。
国はアメリカのような低福祉低負担を目指していたのですが、選挙で高齢者向けの政策を打ち出そうとすればどうしても福祉にも目を配らなくてはなりません。
そうすると、

「高福祉は何とか保証します。しかし、お金がちょっと足りなくなりますので皆様もご負担くださいね」
と言います。
これだと、「もしかして、高福祉高負担の北欧を目指すのか?」なんて勘違いさせます。
しかし、そうは問屋が卸さないのが実情で、「介護保険が持ちません」、「介護認定の適正化や介護老人ホームへの入所基準の適正化、介護の効率化を行います」
(この時の適正化、効率化って言うのは大体が厳格化、サービスの縮小化を意味します)となってきました。
元気な方は自立してください、家族の絆を大事にしましょう、助け合いの精神です、自助努力が必要です・・・、等々。
(ここでいう「絆」というのは、国は責任持ちません、家族間でなんとかやってね、ということですから)

核家族化を推し進め、個人主義が横行し、共同体の崩壊が進んだ今、在宅で看取れ、在宅介護が理想的だ、長期入院は許すまじ、なんていう政策は低福祉路線まっしぐらです。
で、残ったのが高負担だけとういう状況でして、まだ、アメリカの保険制度が導入されていないのがせめてもの救いでしょうか。

「できるだけ負担は少ない方がいい」、「でも老後の心配はしたくない、国が面倒見て欲しい」、多くの国民にはそういう感情があるでしょう、勿論、僕にもあります。
しかし、成熟した大人ならば、そこはぐっと我慢していくべきでしょうけど・・・。
と、ここで(1)が否定されていきます。
国が施してくれるものは何でももらおう、こっちは税金を払ってるんだから、なんて思う国民が大多数になれば国にいくらお金があっても国は持ちません。
ほどほどでいいよね、困ったときはお互い様だよね、と思える人が今より少し増えていけば今よりちょっとだけいい社会になるんじゃないかと思っています。 

うーん、まとまらん。

2014.09.07  こんな雨の日曜は
音楽を聴きながらコーヒーを飲んで、読書をしてゆっくりと過ごすというのが格別に贅沢な時間の使い方です。
普段、運動不足の患者さんには、「休みの日には運動しましょうね」などと指導?しているんですが、
自分は休養しているという矛盾は重々承知しております。

9月に入りましたが、あとひと月もするとインフルエンザワクチンが始まります。そうなると外来も急に慌ただしくなり、あっという間に12月へ。
と考えると、一年なんて短いです。
内科は例年今の時期が一年のうちで最ものんびりできる充電期間となっておりまして、
つい最近まで専門医更新のための問題を解いておりました。
しかし、これが結構難しくて・・・、自分の専門の分野なら比較的楽ですが、血液、神経内科、膠原病の分野などは参考書と首っ引きでした。
やはり知識のアップツーデートが必須であることを改めて感じました。

2014.09.06  女性閣僚
今回の内閣改造で5人の女性が閣僚入りしました。
「女性が輝く社会」を目指して「先ず隗より始めよ」
ということらしいです。

人事の発表からこれまでの報道を見聞きしてやっぱり何だか嫌な気分になるのはなんででしょう?
男の嫉妬?
一応、否定しておきます。

自分自身、女性の閣僚が多くなることに対しては特に不満も何もありません。
しかし、その選ばれ方がちょっとなあ・・・、と感じてしまうわけです。

これまでの実績や本人の資質が優れている人であれば、男性でも女性でもその地位に抜擢されるべきで、
ただ「女性」という理由だけで選ばれたとしたならば、これまでの「派閥人事」、「お友達内閣」と同様に非難されるものではないかと思っています。

現代は「男女平等」とはいえ、これまで「女性」という理由で低く見られていたというハンデキャップもあるでしょう、
出産、子育て、家庭のことで、自分のやりたいことを犠牲にしてきた女性も大勢いるでしょう、
そして、男社会では女性の方が何かと不利な状況であることは間違いないと思いますが、
「女性」だからということで下駄をはかせるような登用の仕方っていうのはやはりフェアじゃないと思うんですけどね。
登用された女性にとっても、「私の実力を正当に評価してくれたわけではなく、私がただ単に女だったから選ばれたの?」
という感情を抱かないかと、いらぬ心配もしてみたりします。

海外の大学入試では、人種によって初めから基礎点が上乗せされている制度もあるようで、
黒人だとプラス○○点、ヒスパニックだとプラス△△点とか。
個人の能力以外のところで下駄を履かされているのはどうも納得がいかないですね。
ただ、そういう制度を導入した根拠は解らないでもないのですが。

相も変わらず、マスコミの報道では、これまで国政に携わってきた事や専門分野などの紹介はそっちのけで、赤い服が好きで、クローゼットには赤いスーツが一杯、
なんてことを言ってまして・・・。
そんなこと、「政治とは全く関係ないでしょ」、と思ってしまうわけです。
「今後、どんな政策を実現させていきますか?」、「現状の課題と解決策についてご自身のお考えは?」
なんてことを聞いてほしいのに、
スポーツのヒーローインタビューのような感じで、「今、どんなお気持ちですか?」みたいなことでお茶を濁し、
子育てをしているから子育てしながら働いている女性の思いが解りそうとか、
女性の目線で新たな展開を、なんて・・・。
答える方も、原稿を読みながら、自分の言葉は何もない。

願わくば、女性の目線でも男性の目線でもなく、もっと広い視野に立って、50年、100年先の国家を俯瞰することのできる政治家であってほしいな。
幸い、日本は官僚がしっかりしているからとんでもない失言でもしなければ大きな問題にはならないかもしれませんが、閣僚人事なんてやはりパフォーマンスのような感じがしてなりません。
雛壇に勢ぞろいしたシーンで首相の周りを5人の女性閣僚が囲むといった絵もちょっとね。



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