東欧4ケ国;旅の記憶 Bratislava…Part1

(2005.11.4)

スロバギアの首都ブラチスラバを訪ねる






スロバキアの国旗…
紋章には山と十字架が画かれています



地図でもお判りのようにブラチスラバとウイ−ンとの距離は約60kmで首都と首都との距離では世界一短い距離とのことです。

スロバキアは1993年、74年間続いた連邦共和国よりチェコと分離独立した新しい国家で、チェコと袂を分って11年、ようやく民族独立を手にした新生スロバキアの首都プラチスラバは、ハンガリーの首都ブダペストと同じく、ドナウの恵みを受けて栄えた街。

旧市街に建つ聖マルティン教会は、かつてハンガリー王の戴冠式が行われたことで知られます。

旧市街通りを挟んで、テーブルをひっくり返したような、4つの塔を持つ堅固なブラチスラバ城が聳えている。

これは、トルコの侵攻に備えたものと言われている。なお、この城には、ウイーン・ハプスブルグ家の女帝マリア・テレジアも居住していたと伝えられています。

オーストリア・ハンガリーの二重帝国が崩壊した1918年、約千年にわたるハンガリーの支配からも解放され、街の名も10世紀のボヘミア王ブラチスラフ1世からとって、ブラチスラバと改称されました。

スロバキアは人口540万人で日本の1/8(九州の約1.3倍)の国土を持ち国土のほとんどは山岳地帯であり、国土のほぼ北半分を占めており、山岳地帯には美しい自然が残され、動植物の種類が豊富で、夏は登山や避暑、冬はウインタ−スポ−ツなどで国内は元より、近隣の国からも訪れるリゾ−ト地で、そのような自然の中に素朴で古き良きヨ−ロッパの香りが色濃く、中世そのままの町並みを持つ小さな町が点在しています。

一方首都プラチスラバは人口50万人の都市で西南端のオ−ストリアとの国境近くに位置し、なだらかな地形が広がり都市の周囲はほとんどが住宅地と工業地帯、およびぶどう畑などの穀倉地帯となっているようです。

プラハから11月4日朝7:30の国際列車1等車にてブラチスラバ(到着予定12:25)へ約400km5時間の旅でした。

国際列車1等車というので3年前スイスからフランスに行くときのフランス新幹線TGVを想像していたので少し期待外れでした。

日本の寝台列車と反対で右側に通路があり、向かいあって3人づつ6名が一部屋;日本の寝台列車が朝になり寝台をたたんだあとの状況と似たようものです。

外観は格好良く見えますが、内装も華麗さはなく極めて簡素な年代ものの列車と言う感じでしたがトイレはとても綺麗で手入れが行き届いているようでした。

途中車掌による乗車券の検札と税関の係官でしょうかパスポ−トの検査もありました。余ったコルナは全部;列車の売店で使い切った方が良いというので缶ビ−ル2本とwater2本を買いましたが確か缶ビ−ルが100円程度でガスなしwater500mlが200円程度で逆だったと思いました。

列車一車両がほぼ借り切り状態で、3組で一部屋で3名づつ向かいあって、すっかり打ち解けてワイワイガヤガヤで5時間があっという間に過ぎてしまいました。

ブラチスラバ駅に到着したあと僅かな停車時間の間に60個ほどのス−ツケ−スを降ろさねばならないとのことで、入り口付近から廊下に2列に並べ、見事に次の駅への発車時間までに間に合いました。

この辺りからお互い気持ちが通じ合うようになったような気がします。首都の駅としては簡素なつくりの小規模な駅という印象でした。




プラハ発プラチスラバ行き;国際列車



プラチスラバ中央駅


駅前の交差点付近


スロバキア大統領官邸


聖マルティン教会(左の画像はバスの車窓より)




戴冠式の道しるべ
(石畳の上に間隔を置いてはめ込まれていて、
当時王様が歩いた通りを示している)



聖マルティン教会の庭の銅像、
何となく気になりシヤッタ−を切る



ユ−モアのある街
こんなオブジェがところどころに


旧市街を目指す我々のツア−の集団です

ミハエル門と石畳の道


ビルの谷間の奥に聳えているのはにミハエル門です、かつてのブラチスラバは他の多くのヨーロッパの都市と同じように城壁に囲まれており旧市街には3ケ所に城門があったそうです。

これらの城壁門は16世紀から塔式に改築されました、その中でこの門だけが残ったようです。

ルネサンス様式のミハエル門は1511〜13年の建設後1753〜58年に改修されて今の形になったようで、現在は博物館及び展望台として利用されているとのことでした。


ミハエル門から続く石畳の道には,高さの揃った美しい建物が続いている。

デンマ−クの国旗を掲げたビルは大使館だろうか;重厚な立派な建物が軒を並べてびっしりと建っていました 。



ミハエル門をバックに愚妻です


Prahaもそうでしたがヨ−ロッパは歩道まで
丸テ−ブルを置いてビ−ルやらコ−ヒ−を飲む
風景が様になる:平和だなあと思います


バス?タクシ−なのでしょう;1台を連結したものですがゆっくりと走ってました


音楽家リストゆかりの館(左)とモ−ツアルトゆかりの館(右)



バス?タクシ−と出くわした通りに、ハンガリ−出身の音楽家リストゆかりの館とモ−ツアルトの家と言われている右の建物がありました。

モ−ツアルトの館はオーストリア大使館として使われています。

ここにモーツアルトが住んでいたわけではないそうで,6歳だったモーツアルトがこの家の前で演奏をしたことがあり,そう呼ばれているようです。

玄関の右隣の窓の横にはモ-ツアルトゆかりの家であることを示す碑がかかげられておりました。






レストランZI CHY


昼食(ス−プ・ポ−ク・ケ−キ)



食事のあと一行は聖マルチン教会からの道路にはめ込まれている王冠の埋め込みを辿って細い道を通り抜け旧市街の中心フラヴネ−広場を目指す。



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