Pekin−5


北京の旅8/14⇒天安門広場・故宮(外朝=太和殿・中和殿・保和殿)


早朝ホテルの窓からの朝日;とても綺麗だっ

天安門広場




南北880m、東西500mの世界最大の広場(約440,000m2)。

東京ド−ムの敷地面積が約46,000m2なので約10倍、敷石は花崗岩を使用、広場の中は、南から正陽門(前門・箭楼)、毛主席記念堂、人民英雄記念碑、その西側に人民大会堂、東に博物館と革命記念館があります。

これは太陽の昇る方角を過去(東)、沈む方角を未来(西)として配置したようであります。

天安門広場は最大で50万人を収容でき、国家行事や歴史上の大事件の舞台となってきました。

周囲の歩道の敷石にまじって長方形の鉄板が敷かれている部分があり、下に水を流せる架渠構造になっているので、大規模な集会の場合は非常用として鉄板をはずして周囲を天幕で覆い、臨時のトイレとして使用できるようです。







瑞門から南は下の略図を参照、国旗は広場の北の端、
天安門広場の文字の門の辺りだったと思います。





五星 紅旗

道路を挟んだ天安門前の広場の北の端では毎日、五星 紅旗が、朝日が昇ると同時にかかげられ、夕日が沈むと同時に下ろされる。

高い五星紅旗ポールの両脇には兵士が2人 立っていて、ピクリともしない、交代までの4時間もこのままのようです(赤い階段の横に人影が)。

門のア−チ型の入り口が5個見えますが、その入口に沿って5つの金水橋という大理石で造られた橋が架かっています。

更に広場と橋との間にかなり広く交通量も多い道路が横切っていて。

入口はすぐそこにあるように見えますが入り口から結構離れて広場が広がっています。

五星 紅旗はこの写真のもう少し手前に位置します。














箭楼(ヤロウ)と正陽門


箭楼(ヤロウ)と正陽門、左が正陽門の入り口です、そこから右は広大な天安門広場になっています。
帰途バスの後部座席より撮影。ヤロウとは矢を射るやぐらのこと。







日傘の女性の影になっていますが、傘の右横の塔が人民英雄記念碑で更にその背後に記念堂があります。

更に進むと広場の最南端に箭楼(ヤロウ)と正陽門が配置されています。








広場西側の人民大会堂広場


広場東側の中国歴史博物館・革命博物館


故宮

天安門の北側に位置し、世界遺産に認定されている故宮は1406年に明の永楽帝が建設し14年かけて竣工しました。

清朝最後の皇帝薄儀まで約600年にわたり皇帝の居城であり、政務をおこなった場所でもあります。

東西約750m、南北約960mに及ぶ広大な敷地(約720,000m2)は高さ約10mの城壁と幅約50mの濠に囲まれ、この中には多くの宮殿があり(部屋数は合計9千以上あるという)中国古代建築が完全な形で残されています。

初めは「紫禁城」(しきんじょう)と呼ばれていましたが、清王朝が崩壊し、1912年に孫文によって中華民国が成立したときから「昔の皇宮」という意味すなわち「故宮」と呼ばれるようになったそうです。

1949年より故宮博物院として公開されています。1987年世界遺産に指定されました。

中国では最大の博物館です。中国の歴史には疎いが1417年に南京にあった都を北京に移設したのが始まりで明と清の皇帝24人が暮したところで最後は満州国の皇帝となり日本とかかわりのあった愛親覚羅薄儀(ふぎ)が最後の皇帝となりました。

1912年に孫文により中華民国となり現在の1949年毛主席の中華人民共和国が成立した。
新生中国2008年には北京でのオリンピック誘致も決定したとのことで激動の中国はますます栄えていくでしょう。




いずれも故宮、入場時の半券です



午門に入る前にビデオで、向かいに見える建物の名前は解りません?

午門


天安門、瑞門をくぐると世界最大といわれるコ字型の午門が見えてきます、高さ38m、壁の厚さが36mもあるということでトンネルの中のような薄暗いところをけっこう歩きました。

正面に入り口が3ケ所、コの字の左右に1ケ所。広場に出ると、左右の出口は正面出口の左右に並び、正面は5ケ所の出口になるようです。前の広場では鞭打ちの刑が執行されたということです。

故宮のみで20万坪、天安門広場は約13万坪、合わせて33万坪(東京ド-ム約25個分)の広さは行ってみなければ実感できません。

広場の周囲には火災のための大きな水がめがかなり並べてあり、広場はすべて隙間なくレンガを敷き詰めてありますがそのレンガは地下何層にもなっており地下を掘って地下から敵が侵入できないようになっているというガイドさんの説明でした。

こんな70万m2という広大な敷地に只敷き詰めるだけでも大変なのに本当に驚きました。

このとてつもなく広い広場には不審者が侵入してもすぐ判るように眺望をさえぎる樹木が皆無でした、砂漠のように日陰がなく何か異様な雰囲気でした。

とにかくその広さと建物の豪華さデカサに圧倒されます。

権力を誇るため民から集めた税金でよくもこんな贅沢なものを建てたものと感心というよりあきれるばかりでした。
コの字型の右の部分です



午門(正面の建物)を出て太和門へ向かう,掃除のおばさん丁寧に掃除をしてました


橋を渡る前の太和門の右端の部分と、その前の獅子の像です 太和門の入り口、ここから太和殿に向かう




大和門の左の角の部分、もうすぐ太和門の入り口です、おじさんがポ−ズです





上の写真の更に左の部分の風景です、この右が太和門の入り口になります




太和門東側 昭徳門、太和門入り口の右側の角の部分です



太和門に辿り着き、その階段より、振り向いて、午門の出口、全景(北側)を撮影

3枚の画像を連結、不自然ですがイメ−ジだけでも;太和門よりの大パノラマ



左が
和門を示す額、左は和殿を示す額



大和殿内に故宮の日本語ガイド

殿内に中国語・英語などのガイドかあり、日本語があり、みなさん歓声を上げていました。

ホ−ットしました、嬉しかったですね(*^_^*)




大和殿(幅が63mもあります)



故宮最大の宮殿であり、故宮の正殿となっています。

また、現存する中国最大の木造建築物でもあるようです。

太和殿は大きな式典を催す場所として、明や清の時代には皇帝即位の詔書の発布をはじめ、皇帝の婚礼、軍隊の出征命令などをこの場所で発布した。

祝日の祭典、政令の発布など重要な儀式が行われた所であり、また毎年元旦、冬至、皇帝の誕生日にあたる万寿の祝日にはここで祝賀会を催したりした、
中央奥に皇帝の座所が設置されている。

太和殿の前庭は写真でもわかるように広大である。太和殿の北側に三大殿の残りの二つ、中和殿、保和殿が順に建っています。

建物は幅11間(約63m)、奥行き5間、高さ35mで面積は約2400u。

殿内には金の柱や龍などの装飾をあしらった天井が施されていて、その豪華絢爛な建築は故宮の中で最も壮観なものといわれていますわれています。

殿内中央、6本の金色の柱に囲まれた高さ2mの台座の上には金色の玉座と屏風が置かれています。

その上方、ちょうど玉座に座った皇帝の頭の上の天井部分には「藻井」と呼ばれる華麗な彫刻が施された部分があり、その中央部分から口に珠を銜えた
蟠龍が下に向かって浮き彫りになっています。





太和殿(幅が63mもあります)

動物の瓦

中国の宮殿建築にはよく見られるが動物の形をした瓦が置かれている、これは魔よけの目的らしい、宮殿は3層の壇上にあり、「丹陛」という最上壇が最も広く、そこに銅製の鶴亀や石造の日時計、度量衡が置かれていた。

殿内に香炉を配し、式典の際には、音楽や香木が燃やされた。香煙が立ち込める中、号令と共に静寂と敬意の念に包まれた。

前庭だけで1万坪あり、国家的式典などもここで行われたようです。




日時計


太和殿の観光客




丹陛

太和殿の『丹陛』という最上壇の壇上より、ボ−ズを取りみなさんカメラに収めていました。
背景に北側に隣接する真四角の屋根の中和殿が見えます。





太和殿前にて記念撮影です




太和殿内部


内部はかなり豪華な内装ときらびやかな調度品や装飾品で飾られておりました肉眼での識別は付きましたが撮影するには、写真のように薄暗く、ギリギリの状態でした。でもどうにか写ってました。









中和殿

中和殿は太和殿の後方に建つ、故宮三大殿のひとつである。

皇帝が太和殿において式典を催す際、まずこの中和殿にて休憩をとり、役人や衛兵などからの拝謁を受けた。

保和殿

保和殿は中和殿の後方に建つ、故宮三大殿のひとつ。清朝の時代からは、毎年旧暦の1月1日と15日に、皇帝がモンゴルや新疆など外藩の王公を招いて保和殿にて宴会を催すようになった。

また、18世紀後期からはこの保和殿において殿試(科挙試験の最終段階)が行われるようになったそうです


科挙制度

6世紀、隋の時代に始まり清代末期の1905年まで、1300年間にわたり行われた官史資格試験制度。

科挙に合格するには、物心つく前から四書五経を始め膨大な儒教文献を暗記し、童試→郷試→会試→殿試の4大難関に挑戦しなければならない。

「童試」に合格すれば秀才で3年に一度行われる「郷試」の受験資格を得ることができ、「郷試」に合格し、挙人となれば終生官職につくことができた。

さらに「郷試」には、「会試」の試験資格が与えられ、それに合格すると最後に皇帝が行う「殿試」の試験を受けることができた。

「殿試」に合格すると「進士」となり高級官史になれた。


中和殿(左手の建物)と保和殿(奥)は太和殿と直線に並び、「三大殿」と呼ばれています。

保和殿までを外朝といって皇帝が政務や儀式を司ったエリアで、この次のエリアの乾清門からは私生活のエリア(内廷)としていた。







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