寺坂棚田の歩み
資料提供(横瀬町振興課)
〜概要〜
埼玉県秩父郡横瀬町の棚田は、秩父盆地の東部にあります。
荒川支流・横瀬川とその支流曾沢川との合流点の右岸、武甲山麓から北へ4q程に位置しています。
標高は、230m〜270m、下段の曾沢川と上段の丸山林道との標高差は、40mで東西400m、南北270mに広がっており、面積は5ha、正面に武甲山の雄姿を望む見事な景観です。
〜歴史〜
寺坂の地形は古く、2万年前の最終氷河期以前に形成されたと言われ、棚田の南北には縄文遺跡があり、寺坂遺跡と呼ばれています。遺跡の地形は、東に続く高篠山から流れる扇状地で、昭和55年に発掘調査が行われました。高篠山には、御荷鉾緑岩類が多く、磨製石斧の未完品と製作剥片が多出されたため、遺跡は磨製石斧の製作跡と考えられています。
鎌倉時代には、すでに当地で稲作が行われていたとされ、最盛期には、360枚を数える田があったと伝えられています。
寺坂棚田の景観は、長い年月をかけて先人が開発した貴重な遺産です。
〜棚田復元までの道のりと今後の寺坂棚田の在り方について〜
昭和50年ごろまでは、大部分の田で稲作が行われており、昔ながらの田園風景でした。しかし、時代の流れとともに減反政策や後継者不足などの理由から耕作放棄地が年々増加し、平成10年頃には、地権者約50戸の内、耕作する者はわずか4戸となり、雑草・雑木が生い茂り荒れ果ててしまいました。
武甲山を望む里山地域の無残な姿に、昔のようなきれいな寺坂棚田を復元しようという気運が、田の所有者たちの間で高まり、平成13年、埼玉県の中山間地域ふるさと事業で棚田の復元方法について農家や行政関係者などで話し合いを行いました。その結果、復元は農家だけでなく学校という形をとって都市住民とともに行っていこうという結論に至りました。あわせて、地元農家が中心となり、寺坂棚田復元に当たって、草刈りや抜根など、荒れ果てた田の整備から取り組み始めました。
平成14年、寺坂棚田学校を開校し、田の所有者を中心とする農業者19名が先生となり、応募による32名の参加者(生徒)とともに、有機無農薬、手植え、はぜ掛けでの天日干しなど、昔ながらの方法で稲作を始めました。
同学校の活動が定着し、実績が認められるにつれ、鉄道会社、TVや新聞などによる広報の力もあって、多くの人々の共感を得るようになり、現在では、毎年10名程の新加入者が加わり40名を超える県内外の都市部の住民が生徒として参加しています。卒業生を対象としたオーナー制度も行われ、ほぼ全ての田が再生されました。
こうした棚田学校の運営は、企画立案、雑草・雑木刈り、用水路・畦畔補修などの裏方作業を行う地域住民たちや、棚田指導者、地権者等の理解や協力をはじめ、多くのボランティアの方々の尽力で成り立っています。
資料協力 横瀬町歴史民俗資料館
多くの棚田が耕作されていた1987年(昭和62年)6月
資料協力 横瀬町歴史民俗資料館
一部の棚田が耕作されていた1996年(平成8年)6月
資料協力 横瀬町歴史民俗資料館
一部の棚田に樹木が成長していた1998年(平成10年)5月