とめふで 2 |
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何時とはいわん。此先は朝の六時から、夕の六時まで、世界は蚊の鳴くごとく、天はぐらぐら鳴き出す出す。地○○○○○○さけて○○○(いずれも○字は伏せ字)。 柏手〔異伝に【拍手】」の音がする、声はすれども姿は見えぬ。柏手の音がしだしたら、もうあかんのやで。真暗がり、夜やら昼やらしれんで。三六二五朝の六時、東方でどんという、どんというたら、それがさかえや、はっというたら、うんという間もない。今までは病というは医者、薬、皆々気を使ってしたなれど、これからは如何な難しい病でも息、手踊りで助けする。此先はどんな難しい事でも、真実なれば息で助けする。思案せよ、病というて更になし。身にさわり付け、神が寄せるで。神の道、教え手引きなるぞや。のぼせ、かんしゃく、目まい、立ちくらみ、胸のつかへ。のぼせ目は神の手引きや、用むきなり。 さあさあこれまで永らくの間、だんだん運び尽くした理は皆神が受け取りてある。年限永らくの間、ようこそついて来た。もう今に見えて来る誠の道。これ迄運び尽くした種〔異伝に「これ迄尽し運びた理」〕をくさらさぬ様へらさぬ様けさぬ様にだんだん運び、修理と云う肥を運んでこそ実がのるのやで。もう永い間通ってくれとは云わん。〔異伝に「尽くせとは云わん」〕、たゞ二十年祭も済んで七十年と云ふ。あと五年、その間、艱難、不自由、難儀、苦労、艱難の道をようとうれ。考えてみよ、世界一列と云う様な事もあるやろう。又、甘露台と云うて天よりさがる露をいたゞくのやで。どうでもこうでもいたゞかねばなろうまい。その時は誠しらべ、真実やで。 さあさあこれ迄さとしおいたる一日といふ、一日は一日と云ふておいたのも、みなみなさしづの中にあるある。よう思案して心定めて真実を定めるがよい。なかなか人を助けると云う事よういならん。誠、これはこれは我が身助かる元やで。ようよう心定めて助かるが台〔異伝に「助けるが台」〕、と云ふ事が要やで、かんじんやでやで。しっかりしっかり心定めて本真実、尽くしかた運びかた、尽くした種を掘りさがさぬよう、さがしてくさらかし、不自由と思えばけしてしまうもおなじこと。せっかく種まきをしたものを掘りかやさぬよう、かやしていまい、ほんになあなあ何をしたのや分からぬ様な事は神がざんねんでならん。種のみのらん種まきをしてはなろうまい。しっかり誠の心を定めて運ぶなら、天のあたへもちがうことなし。さあさあ充分勇まにゃならん。 これさあさあ、六時よりはじまり六時まで。天火降りて天災は夕方おさまる。おさまるひま三日間ある。まだある。大戸辺の命、引きしめの内、あつけ病のさわりでたが、助くるは高山のことなり。左足が動く動くしびれたるは日もつまる。それより親たる人の処へくる、くるがをさするしょうこまもり(証拠守り)をさまる。そこで人をそろへば甘露台、高山ぐらつくからそれより神と上との力くらべする。その中でいろいろ不思議もある事にをどしなくなる。助けの人をなのりやい助けるなり。これ世界助け、はなしつゞいてより日をさきとなり、この助けこそ一年六月なり。いやがれば病の根はきれん。それより見る間にところどころにはじまる。日もはじまる。国もをさまる。神世となる。それより甘露台もところところにたつ。戦争も勝つさと喜んでいるけれども、やがて蚊のなくようにあちらむいてもこちらむいても柏手〔異伝に「拍手」〕をうっている日もある。それ尚、二十六日からころりとかわるで。役員の中にも役員が〔異伝に「が」を省略〕ある。いまゝでは金のあるものを丁重にしたけれども、これからは誠一つのものを丁重にする。それ迄は何を云ふてもかわいゝから日をのべたけれど、もうこれからは日をのべんで。役員をよせていさめいさめ。さあさあこれからは外国の兵もだんだん日本へ入り込んでくるで。その時来たら日本の道のものも、みな戦争に行かねばならん。あとで道の女はあしきはらい(悪しき祓い)のつとめをするのやでやで。もう日がさしせまりて日がないから、はやく誠となりて勇め勇め。これはたしかと云ふておくぞおくぞ。 さあさあ世界の大そうぢ。みなのもの心しつかり心しつかり誠真実に定めてくれくれ。子供かわいゝから何よの事、だんだんどうどう知らしてある。どうぞあつきごうよくの心、すつきり切替てくれ〔よ〕くれ〔よ〕。今迄つもりかさなる悪因縁をどうでもこうでも切替えてくれよくれよ。親は何時までもやまず死なずよわまりなきよう、いついつまでもよふきゆさん(陽気遊山)の楽遊びをさしてやりたいばかりに因縁さとし(諭し)もするのやで。こらほど親の云う事を何とも思はずに日々きずいきまゝ勝手かんじうの心ばかりで暮らすものは神の残念あると思えよ。こらほどにいけんことわりいふておくならば日柄こくげんも定めてある。この刻限を一人なりと心の切替さしてやりたいばかりに神は色々と心つくしきるのやで。いかほどに神がかわゆく思ふでも、日柄刻限までに心切替られんものはふびんながらもぜひはない。もれおちないようにきゝわけてくれ。日柄こくげん来たならば、神の真実の大そうぢにかゝるのやで。神の心にかなわんあしき〔な〕ものはみなきりはらい、神の心にかなうたものばかり助けるのや。 その恐ろしさは、はじまりだしはいつとは云わん。大戦争がおこるのや。戦争には日本もいかねばならん。だんだん力つくして戦うなれど〔異伝に「戦うけれど」〕、この戦争は日本はまけいくさ〔異伝に「まめいくさ」〕となるから、これではならんと日本国中〔異伝に「日本中」〕あちらでも祈祷こちらでも祈祷、力かぎりつくせどもしるしなく、いよいよ日本はみなのものはおどろく時もある。その時その場合、悪因縁をつみかさねてごもくまじりのものはみな切替を考えねばならん。 このとき不思議の事か現れるのやで。日本の真の神もこれではならんと伊勢の皇大神宮に真願にいくのや。神はこゝにはおらん。大和にかえり居ると云ふ、不思議な神のおつげにおどろくのやで。大和はどの何神であろうかと、いまゝであらたかな神々にいのるけれどもしるしは更にない、思案してくれるのや。残るは天理教。今はいたしかたなし〔異伝に「なし」ではなく「ない」〕。お地場へくる、門までくると馬がすくんで一足も動かんのや。鏡屋敷にけがれた四ツ足ははいられん。それをあいづに戦争にいくのやで。戦争にのぞんであしきはらいのお願いをすると、それをあいづに敵の打ち出すたまは、みな敵の方へ飛んで帰り、敵の打ち出すたまで皆たおれるのやで。また、あしきはらいの〔異伝に「の」を省略〕御手振りにかゝると、敵の軍艦は吹き流し吹き沈める。不思議の神の風が吹くのや。日本には不思議な恐ろしい神が現れた。これではかなわんかなわんとみなこうさんするのやで。これで日本の勝戦さときまるのやで。この不思議の親の働きに驚き、これ迄の無礼ことわりするのや。これより天理教をだんだんときゝにくる。上たるも不思議な働きに感じ。御陰にて日本助かりたと御礼参りにくる日もある。御本部の普請も政府からする日もあるのやで。天理の不思議な働きは世界中に響き渡り、だんだんと天理のはなしを外国からきゝにくる。聞いては感心、上下首をかたげしことになる。道もだんだん世界へ満ち渡るのやで。勇めよ勇めよ、たのもしき日もあるのやで。 又、いつとは云はん。大ひでりであそこも雨乞、ここにも雨乞の祈祷をすれども少しの雨のおさがりもなし。田も畑も亀の甲のようにひわれて〔異伝に「ひびわれて」〕ひでりばかりつゞくことより、身上にさわる人がだんだんと〔異伝に「と」を省略〕日ましに多くなるのやで。日々使ふところの水もなくなる日もある。この上はとても助かる事は出来んと泣き苦しむ声は天地にみち渡るのやで。まるで蚊のなくような日もくるのやで。此の世には神も仏もないものかと、祈り、祈祷も何もきかん日柄やで。どうしたならばよかろうかと泣き苦しむせつない日もくるのやで。その時は天理の者は教祖のお話を説き聞かする事やで。みなのものは天理の神のお助けを願うより外に致しかたないと、だんだん天理の助けを下さいと処処より願ひに来るのやで。その時はその町その村のものに教祖の働きをときゝかし、その町その村に一人も残りなく天理の御話をときゝかし、心の切替をさし、一列心そろうて雨乞のかぐらつとめ(神楽勤め)にかゝる時は、その町その村限りの雨のさづけをたくさん与えるから、我が町我が村へもと、お助け下さいと、だんだん願いにくる。願えばすぐに雨のさづけがあるので、どんなものでも親様のはたらきにかんしんせんものはない。それより天理の光、輝き渡るのや。天理の道だんくと聞く事から、人間の心もやわらかになり人情も美しくなる。救はれた当分なら人情も美しいけれ共、又、元の心になるから、又々親のいけんせねばならんのや。親のざんねんこれを見てくれ。 又、いつとは云わん、云えん。野枯らしの虫がたくさんわいて、田や畑の作物も、又、野山の草木までくいつぶして、天地に青い物種切れにならんとなるような大変の日も来る。虫よけの予防に色々と手を尽くしたれ共、その効なく、おがみ祈祷に手をつくせどそのかいなし。あゝでもならん、こうどうしたらよかろうかと、どうもならん。その上は、なんでも天理の神様にお願いするより致し方ないと相談するのや。その時に、心澄ました神の心に叶うた者ばかり寄り集まりて、一手一つに心合わして、虫除けのかぐらづとめにかゝる日もあるのやで。日々に不足の心ばかりでつくして居るものは、この天下はれての神のつとめに加わることは出来んのや。そればかりでなく、一点のくもりありても神の守護やることは出来んから、どうしても心の切替出来ん者は、その場ですぐ切替るのやで。心澄み切りた者ばかり集まりて、その場につとめにかゝつて下さるものはオン松めん松(雄松雌松)のへだてはいわんのや。人々より頼まれた時は、たとえ手にもちたるものを振りすてゝおいても、その土地家に入り込んで、境目々々にしめなわをはりて、一方をあけておいて、その時寄り合ふて居るもの心一つに合わしてしっかりお話を取次ぎ、あしきはらいの願いにかゝるのや。それから虫除けのかぐらづとめのお願いにかゝる事なり。その願がすむと、虫はらいの御札を境目々々に立てると、虫は一方かけてある方へ、虫は一匹も残らず集まるのや。その数は何石ともいへん沢山の虫。これを見てみなのもの、この虫こそにくいやつじゃとうらみさしてはならん。親心より虫のかげも形もなきようとりはらふ。これをしづみなく勇め勇め。なるほどの理がわかりた事なら神はどうせこうせとたってことわりないのや。 又、いつとは云わん。天より火の雨降らす事から、あらあらうらうらとの人の泣き声が、蚊の泣くような事や。天の親もふびんなもの、かわゆそうなもの〔異伝に「もん」〕と思へども、いかほどあつきごうよくの心を切替さして、やさしき人となして、よふきゆさん(陽気遊山)の極楽遊びをさしてやりたい事から、いろいろ心だんだん心つくしきれとも、みな親の云ふ事はほぐ〔異伝に「ほご」〕にしてしんから改心するものはなし。ぜひなく親がいけんするのやで。これまでも人間は折角天の親がつけた天理の道をふみつぶして助からん。難儀苦労の浮世に沈むこわきあぶなき道ばかり。親はとやせんかやせんと心やすむひまもなく色々と心つくしきれども、本真実にきかん事からぜひなく表へ現した事。この日柄、刻限来たならば、夫婦の中も男が女を助ける事はできん。女の運び尽くした理が男の理にもならん。親が子を助けるしろにもならん。みなめいめいきりをかん事においてどうもならん。いかほど思ふ親が子を助けられん。いかはどかわいゝ夫婦の間柄も切替の時、どんなに思ふてもいかほどにじだんだふんでも、苦しんでも何もならん。真にかわいゝと思ふなら、今の場合、ようきかしてやりてくれくれ。すみからすみまで助けもれのないように、このこくばんきたならば、横目ふるまもないで。手のひらをかやすひまもない。死人の塚、死人の山があすこにもここにも立つのやで。 この善悪の大そうぢにさびわけられたものは、このたび人間に出直してくることは出来やせんのやで。恩に恩が重なるその上は牛馬と見える道もあるのやで。さびわけられたものは、このたび人間に出直してくることは出来やせんのやで。恩に恩が重なるその上は牛馬と見える道もあるのやで。さびわけられたものは三度牛の世界におちてばだしはだかで恩報じ。犬に三度、それより猫、それより猿とだんだん生まれかわりて人間の世界へ。之までの恩報じを送りて因縁がすみ次第、こんどには、すだすだしてすばかな人間に生まれ、みなからかるしめられいぢめられ馬鹿にされて因縁を切りてはじめてあたりまえの人間に生まれてくるのやで。こんなあさましい苦しい世界へおとすのは残念でならん。よう思案してあとでこうかいなきようにしてくれ。こればかりが親の苦になるのや。さとしたる理ようきゝわけてくれくれ。親心のもつれをよう思案してくれよくれよ。 さあさあようきゝわけよ。大そうぢの日柄こくばん迄に心すみきりておいてくれよ。さあと云う、さあと日柄こくげんせまりたら、天火の雨となりた事なら、今迄の人間の命、宝と命より大事にしたる金財産も田地田畑もいらん日がくるのやで。天火下れば人間これではならんと地に穴を掘りてはいり、先ずこれでひと安心と思ふて居るが悪因縁のつみかさね、神のざんねんでたるなら、どうしても人間ではかなわぬ事やで。あなにはまれば地より大地震で火を吹き出すく。天地にかくれ場所はあろうまい。親ば子をたずね、妻は夫をたずねて泣きさけぶ声ばまるで蚊のなくようなたとえかたく、思い出すに身のけのよだつ、まことにまことにみじめな事もあるのやで。ようきゝもれのないようにようきゝとりてくれ。 今迄いくヘいくヘ艱難の道を尽くし運んだこうのう(効能)の理を、一日の日と云う日にくずさずは、親ざんねんでならんから、こんなにかえすかえすもくどくことわりを云ふておくなり。もはや日柄こくげんも近づいた近づいた。なんでもかんでもこの難から助けていたゞかねばなろうまい。親も子供でもよけいに助けたい。どうぞしっかり心切替てくれくれ。 だんだんと世界の大そうじすんだるそのあとは、子供の心も澄み切りてある。子供が勇めば親の勇みはいかばかり。晴天の心を神代という。世界の病み患いもなし。薬も医者もいらず、世界一列よふきゆさんの楽遊び楽遊び。ここはこの世の極楽と心澄んだるしょうこ(証拠)として、昼、雨を降らさぬ。田地の作りをも沢山肥いらず、ぬか三合、灰三合、土三合、合わして一反の田地に振りまけば手人れも一度すればみのりも充分たっぷりさづける。雨もいる時に願えばすぐにさづける。いらんようになれば、おあづけの願をすればすぐにあづかる。おてらしも同じことやでことやで。 この道を通り抜けたものは、このお方がいくヘいくヘの艱難の道を通り下された理によりといふて、このお方はたれさんの子供やで、妻さんや親御衆やと云ふて人中でもだいじそうにするのや。世界からは天理すじといふようになるのや。世界の人々から恩報じといふて、たべものもいつもめずらしいものばかりだんだんもちかけてくる日もあるのやで。家もこんな粗末な家たて等てどうぞこれにおはいり下さいと云ふて来る日もあるのや。着物もだんだん新しいのをつくり、どうぞどうぞこれをお召し下さい。どしどし持ち込んでくる日もあるのや。そのぬぎすてた着物どうぞ私におさげ下さいと云う。やればこれはだれだれが御召しになりたのやと云ふてその家門のこうき宝とするのやで。なんぎしようと思うてもなんぎはできぬようになるのやで。今の道はどんなにつらくとも勇まにゃなろうまい。 まだあるのやで。世界の大そうぢすみたのち、天より甘露を下げるのやで。この甘露、寿命薬であるほどに。我にも我にもとより来る人は沢山あるけれど、これは心の澄んだる証拠に渡すのや。心の澄まんものは体がすくんですぐ切替となるのやで。心澄まさにゃどうもなろうまい。 世界のそうぢ〔異伝に「世界の大そうぢ」〕すんだその後は、兵隊もいらぬ、警察もいらぬ、裁判所もいらぬ、病院もいらぬ、医者もいらぬ、薬もいらぬのや。作り物は毎年々々豊年満作をとらすのやで。子供さんもなくて苦しむ者もなく、沢山出来て苦しむ者もない。夫婦の中に世つぎとして、女一人男一人してさずけんのや。又、働きも朝から晩まで働かんでも一日三、四時間、昼迄働いたら、あとはかぐらづとめで遊ばすのやで。 世界からは親里、親里からそうぢも日本からはじめるのやで〔異伝に「はじめかけるのやで」〕。日本のそうぢ〔異伝に「日本にそうぢが」〕すんだ事ならばだんだん外国のそうぢにかゝることなり。世界のそうぢすんだことならば、外国から日本は親国、親里、理の兄弟といふてから、だんだんとしたうてくるのや。そうすると、奈良、長谷地方はやどや〔異伝に「やど」〕ばかりになるのや。世界一の都〔異伝に「世界の都」〕となるのやで。ふしん(普請)も金銀づくめでふしんするのやで。これから本ふしんや。世界第一の神となるのやで。火の本、水の本〔異伝に「火の元、水の元」〕、云ふ理なり。 世界のそうぢすんだら火の神も甘露から出て甘露台へはいるのや。水、月様も同じことやで。この理をもちて、日の本、火の本と云ふのやで云ふのやで。天理の御助人も三十六人迄はとも人つけてさすのやで。 なあ、日柄もだんだんさしせまりてある。世界のそうぢいつかゝるやも知れんで。一同うっかりしてくれるなよ。一人でも子供たくさんきかしてやりてくれ。助けもれのない様に、これをたしかにたのんでおくぞや。 道におくれなよおくれなよ。勇め勇め。今しばらくと云ふ。何がなくても何でもと云ふ。 |
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