芹澤光治良 「死の扉の前で」中山正善 と 「教祖様」  
  再版のいきさつ  
   昨年(昭和五十二年)真柱の十年祭を迎えた。私はその年の誕生日に、日誌に、「おろかしや ひたに走りて 喘ぎ省る やそじの坂を とうに越えしを」と感想を書きとめたが、これは、初めて己の年齢を考えて、近い死の扉に気がついて慌てたからだった。私は死ぬ前には中山正善氏を書かなければならないと、前から考えていたが、今書かなければ永久に書けないかも知れないと思った。十年祭にあたって、霊前に捧げられると勇んで書きはじめたが、十年祭までに完成しないで、招かれたが十年祭の式典にも出れなかった。その長篇小説「死の扉の前で」は、約一年かかって書きあげて、出版社に原稿を渡して、ほっとした夜、真柱さんの夢を見た。元気で私のサロンに通りながら……芹沢君、教祖様の再版出さないの?と、例のやや癇高い声で言われた……あれを絶版にしたのは真柱さんの希望でしたよ……あれ、君は精根かたむけたものなあ、惜しいよ……
 「死の扉の前で」には、「教祖様」を創作した頃の苦悩を少し書いたので、そんな夢を見たと思って、すぐに忘れた。しかし、それから三日後善本社の山本社長が突然訪ねて来て、「教祖様」を出さしてくれと言われて、不思議な気がした。それまで、いく度この書物の再版を求められたか知れない。天理教の老若信者からばかりでなく、普通の読者からも盛んに求められた。大阪に万国博覧会のあった年、ブラジルの未知の技師が訪ねて来て、ブラジルでこの書物を読んで天理教を信ずるようになり、私に会って信仰について語りたくて、万博見学に来たと話して、土産にこの書物を買おうとしたが、絶版で失望していた。しかし、私は再版する気にならなかった。読者に、私が天理教の信者であると誤解させることを怖れたが、また、資料の不足だったために作品として自信を持てなかったからだった。ところが、無名の出版社の山本社長の依頼は、亡き真柱さんの願いのような気がふとした。それ故、私は出しましょうかと答えてしまった。おかしなことだ。
 善本社の実力を私は全く識らない。あれほどためらった「教祖様」の再版を、関係もなく、信頼するに足るかはっきりしない出版社に、簡単に委せたのは、私が自分の作品を愛しない怠慢からだろうと、反省もするが、山本社長が前真柱から送られたものと思いなおして、亡き友の友情として、すべて気にかけないことにした。
 ただ私は再版に決定してから、天理大学の芹沢茂氏に頼んで、繁忙のなかに初版本を読んで誤りを指摘してもらったことに感謝するとともに、「ふしぎな婦の一生」という副題をつけることで、満足した。

  昭和五十三年五月                 芹澤光治良


 
     
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