天理の霊能者 上田ナライトより一部掲載
   身心の異常が激しくなり ついに霊統が途切れる…
   大正時代に入ると、身心の異常の度合いが激しくなった。これは大正三年の大正普請と呼ばれる膨大な費用をともなった天理教施設の竣工、第一次世界大戦の勃発や真柱中山真之亮の出直(病死)などが関係していたと思われる。同五年には教祖三十年祭が執行され、生前の教祖同様、拙絆などの下着をすべて赤衣(神が着る衣装とされる)に変えてつとめを行っていたナライトであったが、大正六年初夏に胃腸障害となる。この時は二週間の療養で回復。しかし翌年の大正七年三月二十三日にまたもや胃腸障害で病床に臥すようになった。日に日に重体となり、天理教本部では神の重大な警告として受けとめ、全快のためのつとめが行われた。 一か月後に床の上に起き上がれるまでによくなったが、足が不自由となり、立ち上がったり、正座ができないために、「おさづけ」を渡すことができなくなってしまったのである。ナライトは本席のように言葉による神示がほとんどなかった。そのため、その身体上に現れた障りを含む身振りや動作で神意を悟らなければならないのであるが、当時の天理教本部の中にはそれを解読できるような者はいなかった。
 このときの病気の要因は甥の楢太郎が天理教関係者の借金の肩代わりをして、それがもとで破産に追い込まれたことが関係していたといわれる。が、それ以上に茨木基敬の問題(茨木事件)が絡んでいたことは間違いない。ナライトの病気が革ったのは、茨木基敬が本部を去った翌日からなのである。茨木基敬は天理教の本部員で、天啓を取り次いでいたが、本部は彼を一方的に罷免し、放逐したのであった。「おさづけ」のストップで天理教本部は組織運営上、支障を来しはじめた。そこで本部員会議を招集し、同年七月十一日から教祖の孫に当たる中山たまヘ(中山秀司と松枝の一子で、真柱中山真之亮の妻)がナライトの代理として「おさづけ」を渡すことが決定されたのである。中山たまヘは、みきによれば人間の創造に関わる深い魂の「いんねん(因縁)」の人とされるが、いわゆる天啓者ではなく、彼女が渡す「さづけ」も儀礼的なものにすぎなくなった。
 同時にナライトはその死まで二度とさづけを渡すことはなかった、本部におけるナライトの公的な役割は終わったのである。つまり、中山みき⇒飯降伊蔵⇒上田ナライトとつづいてきた天理教の霊統は、大正七年の段階で途切れてしまったわけである。以後、ナライトの霊統問題に正面切って触れることは本部では事実上タブー視されるようになった。
 大正十三年に教祖四十祭の拡張工事にともない、ナライトは現在の和楽館の建物に移転した。不自由だった両足はすでに治り、太り気味たった体の肉は落ち、細くなった。ほとんど家にいて、神に供える紙を折ったり、針仕事をしたり、畑仕事をしていたが、時には石上神宮や故郷の園原の方ヘ散歩をすることもあったという。
 昭和二年頃には天理教内の一部にナライトに天啓が降りてくるのではないかと期待する向きもあったようである。というのはその頃、精神的に非常に安定した生活を送り、機嫌がよかったからである。
 好物は葡萄と抹茶で、茶は側の者に自ら煎てたりもした。また昼夜を問わず入浴した。これは世の中の一切の汚穢が絶え間なく自分の心に移ってきて溜まるので、それを入浴によって祓い清めて浄化していたともいわれる。あまりにも頻繁に入浴するため、ナライトに仕えていた宇野たきゑが「なぜそんなにたびたび入浴されるのですか」と聞くと、「心が濁るからや」と答えている。ナライトにとって入浴は神聖な神事であった。
 時として啓示のような霊的な閃きをかいま見せてもいる。たとえば、ナライトの家の桜が見事に開花したときのこと。通りかかった親類が、門の近くにいたナライトに向かって「きれいに咲きましたなあ」と挨拶がてらに声を掛けると、「根を見よ」とだけいって、家に入ってしまったという。一見、華やかに見える現象には、すべて目に見えない根があり、その不可視の根の部分のほうが実は肝心要なのだというたとえである。それにしても何とも意味深い言葉ではないか。
   
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