とめふで
 
 
 『とめふで』概説    豊嶋泰國 著 天理の霊能者―中山みきと神人群像 より 抜粋

 『とめふで』は天理教の信者の一部の間で古くから伝承されてきた秘教的な終末預言書とされる。預言とは単なる予言ではなく、神の言葉を預かった者=啓示者による確言を指す。
 『とめふで』の最大の特徴は「黙示録」的色彩がきわめて濃厚な、激烈きわまりない終末預言にある。
 中山みきは神の啓示とされる『おふでさき』において終末預言に関しても触れているが、より具体的に開示された天理教系の最大の終末預言書、それが『とめふで』なのである。

 
   『とめふで』本文    令和2年4月【御咄し】【本席の刻限】追加

 
  【刻限】 明治三十四年三月

 さあさあ変わる変わるいよいよ変る。この度は世界の立替、善悪の立替〔異伝に「善悪の立替」を省略〕、神の世となりて善の世界となりて、これを誠の世として、天理の世と〔異伝に「天理の世に」〕する。承知してくれ。学者、金持ち、医者、坊主、百姓の立替、それで変る変わると云うておく。

 その変るということは、今まで高い所に居た者が低くなる。低い所に居た者が高くなる。これも心一つで、この事は神が出て、それぞれ見分けするのや。よう聞き分け。一時、仮家、すんだら普請普請、本普請。内もどやどや大まぜや。さあさあ内にも掃除すると思え。世界見て思案せよ。掃除がすんだら日本治まる。内々も騒ぐ、外から先に騒ぐ。

 ああ・・・・月日、何時飛んで出るやら。間に合う者、間に合わぬ者、人衆〔異伝に「人数」〕揃うて勤めせねばならん日がある。時を〔異伝に「秋を〕合図立て合いに、より分け、さび分けをする。天は上臼、地は下臼、月日が中に飛んで出て、火水風を入れてとかす。正味より分けする。その時来たら、こちらの村、あちらの村と昨日まで、にぎにぎしく暮していたが、今日お日様が高く昇ったが、一軒も〔異伝に「一軒も」を省略〕家の戸が開かん。こちらの村、あちらの村、立派な家が立ち並んでいたが、影も形も見えない様になった云う日がある。その時来たら世界あちらも、こちらも蚊のなく様になるで。

 助け場所の門前は死人の山を築く。なれど、内々は安心な〔異伝に「内々安心の」〕ものや。見えてから説いてかかるは世界並、見えぬ先から説いておくぞや。

 今日の日は横目振る間も油断しな〔異伝に〔油断するな〕)。いつ月日〔が〕どんな事があるやら。何時とは云わん。刻限だけ説いて聞かせよう。

 朝の日の出から〔異伝に「朝日が出てから」〕、夕の日の入り〔異伝に「夕の日の入る」〕まで、気をつけにゃならん日がある。やれこわや、おそろしや、と思うたら世界の理に巻きこまれる。

 あゝ常日頃聞かせて下さった事、今日お見せ下さったかいなと、勤めにかかれ。その時は、親、天に居る。足許に居る可愛い子供を助けるに助けられない時が来るで。その時は〔異伝に「は」を省略〕、助け人衆でありながら、助けを呼ぶ者は捨てておけ。ほっておけ〔異伝に「ほておけ」〕。世界のあちら〔異伝に「世界あちら」〕、こちら、蚊のなく如き日がある。

 ああ今までその様な話したとて、いつの事〔異伝に「他人事」〕やと思うていた。やれこわや、聞くより早く、もう〔異伝に「もう」を省略〕見えた。どんな事でも〔異伝に「どんな事も」〕油断出来んで〔異伝に「油断出来ぬ」〕。

 今までは、心得違いあったとて、日が来たらんで見許していた。扉開いて六地と聞かしてある。見えぬ先より四十五年、見えたら得心せよ〔異伝に「得心をせよ」〕。いろいろに親として聞かしてある。世界の子供、何も知るまい。ああ何時その様に月日が飛んで出るやら〔異伝に、この一節省略〕。

 さあさあ席順急ぐ急ぐ。急がねばならぬと悟るがよい。神のせきこみ、これはかなわん。人間心で行けるか行けぬか。さあさあ先見えている。さあさあこれまでさとしおこう。
 
 

 【刻限】 明治三十四年三月

 日本中授けで響き渡らす。神の話うたがうている者、うたがうてみよ。向うて切る者、切らしてみよ。一人一名心定めたら一人に千人の助けするのや。万人の助けするのや。神がにほいをかけて出るのや。これほど大きな効能はない。

 道の者は、神の授けたる借り物の理を、聞き分けたる者は心の良き因縁。道の者は田地はいらん。田地は世界の信者のものがある。是も作った、余りの心を運ぶが結構と思わにゃならん。

 又、席済みの者は見分け、聞き分け、この世、因縁の理を聞き分けて、財産を売り払い、人を助け、これを因縁の理にす。これにそむけば命も財産も天が受取る。

 このことは何時の事やと思うなよ。三六二五のくれあい。これを百十五年を限りとす。此時は霊魂(小さい魂;異伝)をこの世へかえして牛馬と生みかえす。これを承知せよ。これ故、今日一日は生涯の日とす。早く悟れよ。神がせき込む。さあさあ急いで急いで働け。僅かの日や。今日一日万日に受取る(異伝に「今日一日万日に向うやら聞いて悟らにゃならん」)。
 
   

 【御咄し】

 いつのいつかとは、日はきらんが、刻限だけ云うておく。朝日の出から日の入りまで、気をつけねばならん。世界は蚊のなくごとく。あちらも、こちらも蚊のなくごとくの日があるで。その日来たなら、やれ、こわやと思うやない。こわいと思うたら、世界の理に巻きこまれるで。

 あゝ聞かしてもらうた事を見せて下さると思うて、心勇んで勤めにかゝれ。この世の将軍この処より、さづけるようになるのやで。今までの長者というは、金持ちが長者や。長者一夜にも倒れるで。これからの長者は、ころりとちがうで。


 【本席の刻限】明治十五年十月二十九日(旧九月十八日)

 さあさあ本心立てかへって話をする。側の者若き者もしっかりと聞いておけ、何も案じる道やないで、ようよう金と銀と鉛としようもない金とふきわけたで、さあさあこれが大道の一寸のかゝり、さあさあ十のものなら九つまで、案じる者ばかり、どうも案じる事ばかりや、十人のものなら九人の者までにげ、残る一部は真実やで、さあさあ芽へ出る、さあ実がのる、此実が正味で、さあさあ西も東も南も北も大風大雨になる、さあさああちらへ逃げ、こちらへ逃げ、逃げる処もないと云う、さあ杭に例へて話する、幾百本の杭を打込めども、さあこちらで五本あちらで八本、こちらでも抜けあちらでも抜け、抜けたる杭は流れて了う、抜けた残りは、さあゆりこむで、ゆりこむゆりこむほどに。

 これがふせこみのこふきとなる。

 亦、さあさああちらの国がなくなる、こちらの国がなくなる、あちらのこり、こちらのこり、残る所はありゃ何故に残りたという、あれは大和国山辺郡の元庄屋敷という所に甘露台というものある。これは日の本はじめ人間のはじめ、もともとの地場の証拠にふせてある甘露台なり、あの甘露台をとなへたら、悪事さいなんがのがれること、甘露台と一言なりと云うたなら、その難のがれるとの事。
 
 
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