死の扉の前で 井出くにむほん  
     
   芹沢光治良 死の扉の前で 199頁途中から
「いいや、真柱は最初会った時に、井出くにのことを話さないという誓いをさせられたからね」
「そうでしたね。先生、その井出くにって人は、一体どういう人ですか」
「この人も、その余波の一つだろうが、この人を識ったおかげで、僕は聖書を通じてキリストを理解できたが、また、天理教の教祖をすなおに理解できたし、『教祖様』を書く自信を持ったのだね……」
「それなのに、どうして真柱様は話すなと約束させたのでしょう」
「僕にも解らなかったのです。処が、『教祖様』の資料を調べているうちに、天理教の歴史に目を向けて、偶然手にはいった天理教関係の参考年表に−大正五年一月教祖三十年祭執行とあって、同八月、播州井出くにむほんと、あるのを発見して、目を見開きましたよ。このために、真柱はああ言ったのだなと、合点したが………その三十年祭前後に、天啓事件を起した水屋敷事件の茨木基敬や天理本道の大西愛次郎は、元来天理教の信者であるばかりでなく、教会長で重要な人物ですから、謀反人(むほんにん)の極印を押されるべきだが、天理教の信者でないこの婦人のむほんは、何か重大な意味がありそうで、教祖の三十年祭前後の天理教の歴史を、あれこれさぐったものです……君は天理教の歴史を勉強していませんか」
「いいえ…・・・不勉強で・・・・・・」
「三十年祭前後の四、五年間の天理教の歴史は、奇怪で変化に富んで、何か重大なことがあったようだが……君のような有能な人には、信仰上研究の価値あることだと思うがね」
「全然知りませんでしたが−」と、賀川氏はますます膝をのり出すので、忙しいのに、私も話の進行上やむなく話さざるを得なかった−
三十年祭の二、三年前に早稲田大学の漢学者の教授で広池千九郎博士が入信すると、天理教では大袈裟(おおげさ)に本部に迎えて、天理中学校長にして、熱心に布教宣伝にあたらせたが、三十年祭が終ると、博士はいつのまにか天理教を去ったが、その理由も期日もとどめていない。三十年祭の二年前(大正三年)には、教祖殿も本部神殿も落成して、信者は勇んだと話しているが、その年の十二月三十一日に、初代真柱が四十九歳の若さで死去したね。翌四年に十一歳の嗣子正喜が真柱に襲職したが、その後見入として本部で最重要な大黒柱である松村吉太郎が私文書偽造容疑で奈良監獄に、翌年まで収容された。その私文書偽造容疑が、どういうことか明瞭でないんだ。大正五年の一月に教祖の三十年祭が執行されて、八月「播州の井出くにむほん」とあるが、その前年四月一日、当時お地場で最も求道的な知識人だと評された大平良平が、「新宗教」という個人雑誌を創刊して、若い天理教人を勇気づけたものの、三十年祭が終って、井出くにのむほんとある月、八月に、十九号で廃刊した。この年本部員の増野正兵衛の息子、道興が弱年二十六歳で、異例にも本部員に抜擢(ばってき)されて、道友社の編集主任になり、天理教の機関誌「みちのとも」に、はじめて青年信徒の魂を奮起させる随想を多く発表して、自らそれを実践するために大教会長となって信仰活動を始めたが、間もなく死亡した−こうしたことを話してから、私は加えた。
「……それで僕は、その大平良平の『新宗教』という個人雑誌を探すのに苦労したものだよ。アルバイト学生の努力と多くの費用をかけて、ようやく創刊号と五、六号と最終号を手にいれたが
……それに目を通して、この人が天理教の教会組織に批判的で、三十年祭には神がおもてに現れると言い伝えられたことを、文字通り信じていた真摯(しんし)な信仰者だと、分ったけれど……最終号の廃刊の辞ともいうべき文章に、神がおもてに現れた現在、『新宗教』のような雑誌の存在理由は喪失したと、いうような言葉が目に飛びこんだ瞬間、僕は、それが、井出くにむほんの月であることを思いあわせて、目から鱗(うろこ)がおちた思いがしてね……何か起きたにちがいない−と」
「あの、三十年祭に神がおもでに現れるという言い伝えって、何のことですか」
「君のように若い人は聞かないかも知れんが、僕は少年の頃、よく聞いたものだよ。僕の父は明治二十二、三年頃の入信だが……家中皆それを信じていたね……尤も僕は三十年祭の頃には、自意識のはっきりした旧制一高生で、信仰などすてた後だし、生れた家へも帰らなかったから、天理教にどんなことが起きたか、何も知らなかったが……あの播州の井出くにが生きていたらば、むほんの顛末(てんまつ)について訊きたいと、切実に思ったものです」
「亡くなったんですが、その井出くにって、人−」
「敗戦の翌年、八十五歳で病死した。僕はその後、『教祖様』の取材で大和へ出向いた帰途、播州のその人の家へ寄ってみたんだ。その家に、親様の長女のおまささんの孫で、福井勘治郎という人が、ずっと同居していると噂を聞いたから、今も健在ならば、何か聞けるだろうと、思ったからだが……ところが、その家は 朝日神社″になっていて、耳の遠い老人の福井氏が神社の神主役をしていて、僕の質問に、−あんた、そんなことを知らなかったですかと、大きながら声で、だてつづけに一時間以上も話すのを、僕は仰天して聴き惚れてしまってね。無骨な人で、話も下手でしたが、その話の内容がとてつもなくて面白くもあり、吃驚しながら……」
「どんな話でしたか、先生、是非聞かせてください」
「うん」と答えたものの、どう話すか迷ったが、
「その福井勘治郎氏は三十年祭までは、天理教本部の家付きの人間で、本部で青年勤めをしていたそうだが、本部の神殿が落成する二年前ぐらいから、信者の間に灯が消えたように信仰が燃えないので、本部でも心ある青年は何か危機感を抱くようになったと言うのです。それも、氏の考えによると、明治二十年に教祖の死後、孫の真之亮が初代真柱になり、飯降伊蔵が本席として神の啓示を『おさしづ』で伝えることで、天理教の信仰の火が日本中に盛んにひろまったけれど、明治四十年に本席が亡くなってからは、教祖の血統による真柱と神中心の本席と、二本の柱で支えて来た天理教本部は、信仰中心の柱の方を失ったわけですね。血統による真柱は、それまで信者の心が自然に本席に傾くのを、無念に思っていたが、本席の死によって、信仰が真柱たる自分を中心に一本化するものと、期待したというのです。こんなことは、君は十分知つていたね……上田ナライトさんの事件の後、本部では、真柱中心にすんなり信仰の灯を輝くようにはかったのだが、突然その若い真柱が三十年祭直前に亡くなったし、ナライトさんは狂人だと噂が流れて、福井氏のような青年達は、天理教の危機感に戦(おのの)いていたそうだ。その危機感のなかで、親神の約束どおり、三十年祭に神がおもてに現れるという希望が、若い人々の胸に蘇(よみがえ)って、秘かに心の準備をしようと、心懸けたそうだ。大平良平の『新宗教』も、増野道興の感動的活動もその準備の一つだそうだ……」
「それで、三十年祭に、ほんとうに神が現れたと、言うのですが」
「それが……三十年祭は一月二十六日に行われて、いつ神が現れるか、若い人々は期待と不安をもって毎日待望したそうだ。その頃福井家は、晩年の親様のすすめに従って、本部の鼻先で開業した福井屋という宿屋を、母親と細君が細々と営業しながら、福井氏は毎日本部に青年勤めをしていたが、八月のむし暑い夜、十二時近く奉仕から戻ると、奥の客室から、低い女の声で、『みかぐらうた』が聞えていたそうだ。その日午前中に着いた女客だと聞いて、不審にも思わなかったが、翌朝五時前に目をさますと、同じ歌声が微かに聞えていた。主(あるじ)が起きたら会いたいと言っているという細君の言葉で、座敷に出向いて挨拶すると、豊かな容姿の中年の田舎の婦人が端坐していて−福井はん、ご苦労さんやなあ……親様にたのまれて、きのう教祖殿に坐りましたぜ。
親様のお言葉にまちがいない証拠を見せるためになあ………あそこに坐ったら、世界もお道も助かるように、神様のおさしずが刻々あるのやで………それがなあ、本部の人々が来なはって、引きずり出しましてなあ、袖は千切れて、えらいめにあいました。これから三昧田へ戻りたいが、お母さんはいなはるか……と優しく言うので、福井氏は退(さが)って、改めて洗顔したそうです。前日教祖殿に狂人が頑張っていて困ったという噂を聞いたことを思い出して、再び婦人の部屋をのぞくと……母親が婦人と旧知のように親しく話していて、しかも涙をこぼしでいるし、話の内容は、おまさ祖母(おばあ)さんのことや、四、五十年も前のことばかりで、驚いたことに、婦人は変貌して、話に聞く教祖になっていたと、言うのです。それからが大変で、母親はその婦人を教祖である祖母扱いをして、三昧田の教祖の生家である前川家へ歩いてお伴したが、暑い田圃路を下駄ばきで速いこと、福井氏も母親もついて行くのに息を切らせたそうで……前川家では、また、教祖が戻ったようで、誰も疑わなかったし、近所の老人達まで集って来て、昔語りをはじめた……と、福井氏は話したが………
「そうした有様を、とにかく福井氏はじっと観察しつづけて、三十年祭に現れると待望した神は、この人ではなかろうか、一体この人はどういうお方かと、婦人のあとをつけるようにして、播州の三木町へ来てしまったと言うのです。噂は本部にも伝わって、大平良平はじめ熱心な若者が集って来たが、婦人は問われるままに、誰にも、親神や教祖の思召(おぼしめ)しを納得の行くまで話して、神の力を示しては、すぐ本部に戻るようにすすめたけれど、福井氏は頑として本部へ帰ることをせずに、四十年以上たってしまったそうですよ」
「先生、井出くにのむほんと、本部で言うのは、その人が教祖殿に坐ったということでしょうか」と、賀川氏が吐息した。
「坐っただけなら狂人扱いして、済ませて、むほんなんて大袈裟に年表に書かないだろうが、教祖殿でお助けでもしたのではなかろうか。その上、教祖の重要な親族の福井氏が新しい神が出現したといって出向いたし、多くの信者が播州へ行って、天理教には大きな衝撃だったろうね。そのへんのことは何も僕は知らないが−」
その時、家内が夕食の支度ができたからと、合図した。そんな時刻になったことも、私達は気がつかなかった。

 
     
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