軍隊のない真の平和を地球上に…(被爆60周年記念誌寄稿文) 飯野 豊 広島 当時16歳 1945年8月6日、8時15分、東洋工業の講堂で迎えた強烈なせん光と爆風は今も脳裏に鮮明です。「爆弾落下だ、次は直撃で木っ端みじんだ、一片の肉片もなく、両親が私の姿を求めても無駄だ・・・」。ふわりとした感じで寂しくもなく、あの死の瞬間を待ったときのことははっきりと記憶しています。 両手の表皮が崩れて「ズルズル」とはがれ落ち、それを引きずってよたよたと歩く姿。全身焼けただれて、動けず「ウンウン」とうなるだけの人間を炎天下、橋のたもとに転がしたまま施すすべもない。学校の敷地内で白骨死体を11体まで数えた。が、その多さに耐えきれずに数えるのをやめてしまった。水を求めて川に入りそのまま死体となり、潮の満ち引きにしたがって川上に漂ったり、川下に流されたり。その姿にぞっとしたものでした。学校敷地内でたくさんの死体を焼きました。夜は建物の炎上する明かりと、死者を焼く明かりで、血が天上までつながったような地獄絵図でした。11日までの6日問、学校敷地を中心とした救助活動で、私はさらに悲惨な現場を見ました。 8月15日の敗戦は、田川の我が家で知りましたが、大変ショックでした。現人神(あらひとがみ)である天皇をいただく「神国日本」は、世界最強国であり、神風が吹いて必ず勝つと信じ込まされていた私は、絶望のあまりすべてを信じられなくなりました。 被爆による後遺症で、突然に訪れるかもしれない死の恐怖との闘いもあり、病気になると、「死ぬ」と叫ぶことで死の恐怖から逃れようともがくばかりでした。 いつ死んでも悔いのないように、毎日を充実して生きるのだと、自分に言い聞かせての生活は、死を拒否して必死で生きているといったものでした。 このような心情は、被爆者でない人には理解できるはずもないもので、また、それによるかたくなな行為は、人間関係を難しいものにしたのでした。 にもかかわらず、被爆者だけでなく、多くの仲間から豊かな人間性や、多くのことを教えられたことは幸せでした。その支えで、8月6日で死んだ私は、「8月6日、15日」を、思想のよりどころにして、戦争のない平和な世界を希求して、第二の人生を現在まで生きてこられたと思っています。ところがここ数年、テロのない平和な世界は軍隊で守られる」と、軍隊を持ち、戦争をすることが当然とする政治家の発言が多くなり、ついに政府は、イラクに自衛隊を派遣してしまいました。人間が人間を殺す行為に正当性はなく、テロも、軍隊による殺人も、命の尊厳を否定する行為です。 原子爆弾の投下は最大のテロ行為であり、しかも世界最大規模の人体実験です。原子爆弾の低線量放射線は、体内で細胞膜を破壊し続けるのです。だから原子爆弾は、極悪非道の大量殺りく兵器で、人類との共存は不可能です。イラクで使用された劣化ウラン弾も原爆と同じく、多くの人々を生涯にわたって苦しめるもので、許されざる爆弾であり、地球上からなくすべきものです。 敗戦で、現人神である天皇をいただく「神国日本」でなく、主権在民の「民主国家日本」の憲法を制定しました。しかも、世界に真の平和を実現すべく、憲法九条で「戦争をしない」、そのために「軍隊を持たない」ことを明記しました。 戦争をしない国として、世界平和に取り組んで60年。その結果、世界中の多くの人々がその九条を支持し、平和な世界を、と声を上げています。 このように、志を同じくする世界中の人々と手をつなぎ、軍隊のいない真の平和な世界の実現をめざし、生きている限り声を上げ続けたいものです。 |