ピカドンが落ちてきた
 
                牧之内繁男  広島  当時19歳   

 あれは広島工専(現:広島大学)2年生の夏でした。同級生はほとんど軍需工場に動員されて、私とクラスメイトの二人だけが学校に残って教授の研究の手伝いを命じられていたのです。前日に故郷の鹿児島から広島に戻ってきた友人を広島駅のすぐ裏手にあった下宿先に泊めていました。そして広島に昭和20年(1945年)8月6日の朝がやってきたのです。
 その日は朝6時頃に目が覚めました。7時過ぎに空襲警報が発令され、まもなく解除されたので、下宿先を友人と一緒に出て学校に向かいました。
 広島の中心地八丁堀の電停で乗り換えて、私は学校に行くために宇品行きの電車に、友人は軍需工場のある江波に行くというのでそこで別れました。私は宇品行きの電車が動き出したばかりだったので、あわてて追いかけて反対側の乗り口から飛び乗ったのです。車掌から、ひどく怒られましたが、知らない顔をしてやりすごし、学校のそばの駅で降りました。学校に着いて、教室に入った直後でした。突然、「ピカーッ」と強い閃光に包まれて、カミナリの数百倍あるような「ドーン」という大音響に耳をやられたのです。何が起きたかわからないまま、屋外に逃れようとしていました。
 ある資料によると、8時15分17秒に投下された原子爆弾『ピカドン』は高度約1500メートルのところで大閃光を発し、投下43秒後の8時16分、上空約580メートルのところで大爆発を起こしたそうです。
 気が付くと校舎が「ドカドカッ」と崩れ落ちていくなかに自分がいました。頭上から屋根を支える垂木が降ってきて、頭を打ち付けてケガをしました。しかし、幸運にも机と机の間に挟まれて命拾いをしたのです。
 当時、鹿児島からの友人が私も含めて四人いましたが、内一人は、福山(広島県南東部)に動員されていました。私と八丁堀の電停で別れた友人は、次の電車待ちの行列に並んでいるところで原爆に遭いました。八丁堀は爆心地から数百メートルの所にあります。あとの一人は、私の乗った電車の1〜2台あとの電車で、爆心地に最も近い100メートル位の場所でやられ、重傷を負いました。2人とも10日位の内に亡くなりました。校舎の1階に降りてみたら、先生が本棚の間に挟まれて、動けなくなっていたので、助けあげ外に出ました。
 私は三角巾で頭のケガを庇い、大急ぎで下宿に向かいましたが、途中で水を欲しがる人ややけどを負ってケガした人など、大勢の避難した人を目にしながら、下宿先に急ぎました。下宿に着いてみると、家主だった神主さんの中学一年生の娘さんがいないと言われたので、自転車をひいて探しに出かけました。宇品近くの病院の前庭に日照りが厳しいなか、ムシロに寝かされていました。よく見ると、目玉が両眼ともありません。建物疎開の後片付けをしていた時、たぶん、原爆が投下されるのを見ていたのだろうと思います。かわいそうに目をやられて苦しそうでしたが、自転車に乗せ、お父さんと2人で体を支えながら帰りましたが、途中でも、目を覆いふさぎたくなる悲惨な光景でした。しかし、残念ながら娘さんは、3日後に亡くなってしまいました。
 広島原爆で、14万人以上の方々が亡くなられたといわれ、2度とこんなことがあってはならないと思いましたが、八月九日長崎にも原爆が投下され、こんなことをしていたら、「人類は滅亡する」とひどくショックをうけました。
 原爆から70年。
 あの時広島で、人の運命のきびしさを痛感しました。今でも私が生き残ったことが、
不思議でなりません。これまで、私にできることは、亡くなった友人、知人のためにも、「立ち止まっていられない、前に進めば何とかなる」と思い生きてきて、90歳になります。2度と原爆など起こってはならないと強く思います。そしていつまでも、あの悲劇がないよう、この平和が永久につづくことを、心から祈っております。
 平成27年8月6日