被爆者としての私の70年

                   福岡市早良区  日隈 眞壽男

 私は長崎に原爆が投下された8月9日の翌日10日、西泊町大田尾の防空壕の中で産まれた。原爆が投下された死の街で私は産まれた。未熟児で手のひらに乗るほどの小さな赤子だった。赤子の私の生命は生きているのが不思議な程の細く小さな息づかいだったという。
 食べるものも無い、飲むものも無い、母乳も無い防空壕の中で、赤子の今にも消えそうな生命は萌え続けた。出征して居ない父、母は10歳の長兄と、末は3歳の幼い5人の子供の手をひいて、死の街・死臭の街長崎を、家族を守る為に、大分県日田市の実家へと向かった。
 西泊町大田尾から鉄道道尾駅まで歩いた。歩いても歩いても辿り着けない長い道のりだったろう。死の街・死臭の街、死のふちを5人の子供の手を引いて母は歩いた。赤子の私を母の着た着物の懐に入れ、子供の手を引いた。それは私が産まれた3日後のことだったという。子供達を守り通した母こそ、生きる証明だと私は思っている。
 
被爆者とは何か、被爆という圏内で、限られた時間の中で生かされる、被爆者に癒される時は無い。私は癌を発症し全摘手術を受けたが、5年後に再発、放射線治療を受け癌の数値は一時的に下がったが、再び上がり始め、現在も治療を続けている。被爆と言う恐怖の現実が、私の身体の奥深い場所で今も生き続けている。追い詰められた不安と恐怖に叫びたい程の衝動が悲しさを産む。
戦争敗戦が遺した現実。3百10万人という死者、戦後70年の現在も、被爆者は生き辛さの中で生かされている。政府は国民の戦争犠牲から離れ、敗戦からの復興の方向性を経済復興へと全てに優先させた。24時間眠らない経済は世界へと発展を遂げた。波に乗る日本経済は国土の開発、道路、鉄道へとその躍進は日本を経済大国へとその位置を世界に示した。常に新しさを追求し、今日より明日へと購買力を高めた。しかしその事だけに鎮座した。
 利便性や収益性に敗戦からの復興の意味を示そうとした。物の存在価値、購買価値に国民の将来・日本国の未来を築こうとした。しかし、物そのものは、人生を含めて到底そんな価値はあるまい。物の価値と国民の人としての価値とは異なる。日本の大地に育てなければならないこととは、経済成長のみではない事を人として考えなければならない。豊かさとは物の購買価値を追求する事だけではない。

 義、条理、物事の理に適う戦争などない。義を信じ、若い若い多くの兵士が生命を捧げた戦争、国の為、国民の為にと教育され兵士達は信じ生命を犠牲にした。国は死をもって日本国の礎に成れと唾を飛ばして熱く教育した。特攻兵は敵の軍艦を死の目標にし、兵士達ははかり知れない恐怖の中で死んで行った。
 私たち国民は兵士の犠牲に支えられて国を保ち生きて来た。物に溢れ、物の持つ購買価値に全てを委ねて生き続けた日本の姿勢、戦争に依る国の国民に対する人間支配、戦後70年、3百10万人という戦争に依る死亡者、70年という長い平和な時間は戦争犠牲者の報われない死の現実の上に存在した。
 戦争の犠牲を忘却するかの様に、経済を復興させ、国はねじれを産んだ。ねじれたまま、戦後70年過ぎてきた。このねじれは、やがて再び日本が戦争に参加・荷担する要因を産んだ。戦争とは何だったのか。失われた生命、何の為の生命の犠牲だったのか。

 人知れず淋しい人生を終えた被爆者、誰にも聴いて貰えず、相手にもされなかった被爆者、決して癒されない限られた時間の中でひとり背負って人生を去った多くの被爆者、その声を聴いてやれない社会姿勢は核の傘の下で生きなければ成らない社会を生む。
 戦後70年平和は続いた。しかし他国の戦争に荷担すると言うのなら、戦争をしないと言う圏内ではない。これから戦後90年・100年と核の傘の下で平和を保守する大勢に変わりは無い。それは経済第一主義とする所以の結果なのだ。日本国製造の様々な武器、なぜアメリカの核の傘の下で平和を感じていられるのか、核の持つ意味とは何か、銃や核兵器の存在の理由とは何か。核という暴力主義、政治という名の上に集団的な組織暴力主義に平和など有り得る筈もなく、これは国家的人間支配であり、テロリズムであろう。平和の確立の為に、もし世界の国々が核を保有した時(自国の安全の為に)、地球は平和であると言えるのか。
 核兵器の無い、いや必要としない世界(地球)、人が人として生くべき世界の実現を、なぜ武器や核で作ろうとするのか、戦争の果てに残るものとは何なのか、平和や人間の生くべき姿は有り得ない。結果として残る現実は、戦争犠牲者や被爆者、多くの取り返す事の出来ない悲惨な現実が残るだけである。
もう終わりにしてほしい。戦争の愚かさや、自国を核で守ろうとする考え方、人として人間として時刻を守るとは銃や核で守る事ではない事を考えてほしい。銃という武器から決して人の夢は生まれないことを世界で誰よりも感じて生きてきたではないか、私達の日本は銃で守られてはならない。核の傘下で平和を感じてはならない。
 私の母が、私達6人の幼い生命を守った様に、人は人として生きて行くべきなのだから。