原爆被爆者の証言

                   福岡市原爆被害者の会 西区支部 内野 辰吉

 私は長崎で生まれ長崎で育ちました。
 長崎は港町で知られよく歌等で紹介されています。
 大きな会社では三菱造船所があります。戦艦武蔵が造られたところです。
 長崎市内は山に囲まれ中腹まで家が立ち並んでいます。
 私の家族は、両親と子供3人いました。私は長男で3歳の時衝撃を受けました。
 私の記憶と後から聞いた母からの話が一緒になっていると思いますが、母から聞いた話がほとんどだと思います。

 それは、昭和20年8月9日11時2分、上空に一機の爆撃機「B29」が飛んで来ました。
 誰かが叫びました。「B29だ逃げろ」。
 次の瞬間原爆投下となり「ピカーと光り」「ドカーン」と共に、何千度という熱線による爆風が地上を吹き荒れ、外に出ていた人たちは、その場に倒れ、大きな怪我をし亡くなりました。
 ほとんどの人はやけどを負い、皮が飛び出し、倒れている人も男か女かもわからない体になり「助けて、水を下さい」とわめき、その場で倒れる人、ふらふらよろけながらさ迷っている人が大勢いました。
 数時間後、亡くなった人たちには体に蛆虫がわいていたそうです。

 その時刻、母は昼前だったこともあり買い物に行きちょうど店の中にいたため、軽い傷で済みました。
 子供のことが心配になり、急いで家に帰って来ました。
 途中、大勢の人が倒れていたそうです。
 家の中はガラス戸は割れ、障子は破れ、足の踏み場もないくらいになっていました。
 家に着いた母は、3人の無事を見て「早く逃げんといかん」と一人は背負い、一人は抱いて、一人は手を引き裏の防空壕に逃げましたが、すでに大勢の人がいて中に入ることが出来ませんでした。
 母はそのまま山の上に逃げました。 そこも大勢の人が避難してきていました。
 その中に近所のおばさんがいて「誰々ちゃんがいないじゃない」と言い、母は「3人一緒に逃げきれないから、下に置いてきた」と返事、おばさんは「まー、何て事を、私が二人を見ておくから連れてきなさい」二人をおばさんに預け、山を下りた母はわが子を見つけ「ごめんね、ごめんね」と抱きしめ二人の子が待つ山に登ってきました。どの子を下に置いてきたかは、母は死ぬまで誰にも言いませんでした。私はそれで良かったと思います。
 その夜、山の上から見た長崎市内は焼け野原となり市内は一変しました。
 当時長崎の人口は17万人だったが原爆で7万人の人が亡くなったと記録されています。
 何故アメリカは2度も広島・長崎に原爆を投下したのか、当時第二次世界大戦だったため、世界のいたるところで戦争が起きていました。
この大戦を終わらせようと当時、米・英・中の3ケ国はベルリンの郊外にあるポツダムで会談しました。
これがポツダム宣言です。3ケ国は日本とドイツに無条件降伏を通告しました。ドイツは承諾したが、日本は当時、軍国主義だったこともあり、鈴木首相は「宣言を黙殺する。」と発表「無条件降伏」を断ったのです。その数日後アメリカの原爆投下となりました。
 当初、原爆は広島の次に兵器工場がある小倉でしたが、小倉は天候が悪かったため、三菱兵器工場がある長崎に変わったのです。早くこの戦争を終わらせようとした原爆投下とも言われています。

 日本は降伏、戦争は終わりました。
 もう二度とあの悲惨な出来事を起こさないためにも、戦争のない、平和な日本、平和な世界であることを願っています。