この1月27日、当会の相談活動の担い手として被爆者に寄り添い、多くの実績を残していただいた木村誠吾さんがお亡くなりになりました。
 謹んで心からご冥福をお祈り申し上げます。

≪特別寄稿≫



                  弔 辞


                    友人・福岡市原爆被害者の会 顧問

                             
三 根 繁

木村 誠吾さんのご霊前に、謹んでお別れの言葉を申し上げます。
木村さん、貴方の早すぎる訃報に接し、今、私は茫然としています。
 貴方のお家と私の家は、100メートル位の近いところにありながら、長くお互いをよく知りませんでした。
或るとき、家内が、生協でご一緒になるお宅の奥様からお聞きして、「ご主人は長崎の出身だそうですよ」と私に伝えました。
 私ども夫婦も長崎出身で、同郷の人には特に親しみを感じますので、そのうち1度ご挨拶に行こうねと話していました。
平成21年、図らずも私が「福岡市原爆被害者の会」の会長に就任することになりました。私は被爆者の会の役員としてはまだ2年程しか経験がなく、当時、1200人を超す会員を擁する平和団体の責任者として勤める自信は全くありませんでした。
どなたか私の片腕になって頑張ってくれる人がいないかな、と思い悩み、貴方のところにご相談に上がりました。
色々話しているうちに、貴方と私は長崎でも実家が近く、小学校・中学校・高等学校まで私の6年後輩であることが分かり、一気に気持ちが接近しました。
 原爆被害者の会の話をし、お力を貸していただきたいとお願いしたところ、貴方は当時未だ当会の会員ではありませんでしたが、入会することと、その後の協力を快く引き受けてくださいました。
そして早速に早良区の支部長として地域の会員被爆者を1軒ごと訪問する地道な活動に取り組んでいただくことになりました。
私は、会の運営をもっと明朗・活発で秩序あるものにしたいと考えていました。
そこで、貴方に相談して、会の体制変更と会則改正という大仕事にとりかかりました。
平成23年度の定期総会に改正案を諮るまでの2年間、貴方には本当にご苦労をおかけしました。
新体制の中で、貴方は率先して相談活動委員会の委員長を引き受けていただきました。
「被爆者手帳交付」・「原爆症認定申請」・「各種被爆者手当の請求」等々、これまで被爆者でありながら、諸々の事情で被爆者援護法の適用から除外されていた未認定被爆者の復活は並大抵のことではありません。
これまで何度申請しても却下されて諦めかけていた被爆者に寄り添い、また励ましながら、被爆の事実を確認する資料をそろえるため被爆者に同道して、広島・長崎の市役所に出向き家族の被爆申請原簿を閲覧し、また、原爆放射線影響研究所(ABCC)に残っている調査記録を徹底的に調査・確認して公的な証明書を入手するという、これまで誰もなしえなかった方法で沢山の被爆者を救済されました。
その模様は、毎日新聞を始め、朝日新聞、西日本新聞など主要新聞に何度も大きな記事として掲載され、また、NHK,その他主要民放のニュースとして報道されました。
私たち運動の上部組織である日本被団協、東京都の東友会が知るところとなり、絶大の信頼と称賛を受けました。
 貴方の、とことんやりぬくという精神は誠に敬服するところでありましたが、それがお命を縮めることになったのではないかと今、私は悔悟の念を禁じえません。
「弱い人を助けたい、そのための努力は惜しまない」という貴方の強い信念に基づく行動力をご遺志と戴して、これからの活動に定着させることが、貴方の早すぎたご逝去に報いる唯一の道と覚悟しております。
木村さん本当にお疲れさまでした。
心からの感謝を申し上げます。
どうぞ安らかにお眠りください。
  






                       平成31年1月29日