父も母も原爆に殺された (被爆60周年記念誌寄稿文) 安 部 民 子 広島 当時13歳 私は当時13歳で、爆心地から2キロ地点の広島市竹屋町に、父と母の3人で住んでいました。 父は南観音町の三菱造船所で製図工として働いていて、自転車で出勤の途中、被爆しました。体に大やけどを負いながらも、母を助けるために炎の中を必死で後戻りしたのですが、それ以上は進むことが出来ず、京橋川に飛び込んで向こう岸に泳ぎ着いたところで気を失ったそうです。 私は偶然のことですが、前日の5日に安芸郡熊野町の親せきの家に行き、日帰りのつもりが腹痛のために帰ることが出来ず、難を逃れたのでした。近々疎開をする予定でしたので、手続きのために出かけていて命拾いをしたのです。 我が家も近所の家も一瞬のうちに燃え、街は火の海となってしまいました。 翌7日の午前3時、いとこがたった一人で広島市内から熊野町まで歩いてたどり着き、父が暁(あかつき)部隊に収容されていることを知らせてくれました。そこで親せきの人や父の友人たちと入市。広島駅付近に着いた時は全身が震えました。まるで地の果てまで廃墟と化していたからです。 方々でまだ火が燃えている道なき道を歩きましたが、死体の片付けを手伝いながら、ひょとしたら母に会えるのでは、と祈るような気持ちでした。けれど父の所に行かなければならないので、知らせに来てくれたいとこに連れられて熊野町を出てから8時間くらい歩き続け、その間にも死体を運ぶのを手伝ってやっと暁部隊にたどり着きました。 兵舎に入った途端、戦慄(せんりつ)が走りました。大やけどや大けがでもがき苦しんでいる人、息も絶え絶えの人たちで、倒れそうになるのを必死でこらえ、恐る恐る左右を見ながら足を運びました。そして父の姿を目の前にした時、驚きと悲しみで胸が詰まり息が止まるかと思いました。肩だけを壁に当て、皮ふがぶら下がった両手を差し出していたのと、変形した顔を見たからです。母の安否も気が気ではなく、母も父と一緒にここに帰って来てとの願いもあったので、親せきの人たちとまた捜しに出ました。しかし手分けして回りましたが見付けることは出来ませんでした。 伯父を除いた人たちは疲れ果てた姿で熊野に帰って行ったので、それ以後は伯父と二人で捜し回る日が続きました。そうしているうちに、下痢、おう吐、頭痛、そのうえ髪が少しずつ抜け始め、伯父も私も死ぬのではないかと思いました。でも大やけどの父を残しては死ねないと、歯を食いしばって頑張りました。 母は強制建物疎開に従事していたことが分かり、その場所に行ってみると首から下は黒焦げ、顔は生焼けだったので母であることが確認出来ました。そばにあった焼け残りの材木を集め、泣きながら完全に骨だけになるまで燃やしました。 母の骨を拾うことが出来たので、伯父はその場から熊野に帰りました。8月13日の昼過ぎのことでした。 それからは父に付きっきりでしたが、毎日2、3人の死体が兵舎のすぐ外に並べられていました。夜中にトイレに行くのにその場所を通るのですが、慣れのせいで怖いとはちっとも思いませんでした。父は、自転車で職場に向かう途中、下流川通りで被爆し、その日の夕方救助されたのです。会社の近くまで行っておれば無事だったのにと思うと、残念でなりません。 8日か9日に上司が来られ、会社の病院にと勧めてくださったのに、父はなぜか断りました。どうせ助からないと思ったからでしょう。その後父は、私と共に炎天下をボートで小屋浦小学校に転送されました。そこで目にしたのは、青年の両眼に目の形通りウジ虫がびっしり、左に右にうごめいていたことです。この情景を目の当たりにし、大きなショックを受けました。 父も次第に肉が腐ってきて頭には野球のボール大、両手足には1センチくらいの穴が無数にあき、ウジ虫の団子ができたようで取っても取ってもきりがありませんでした。 8月15日、兵士から敗戦を知らされた時、突然父が「戦争は残酷だ。大勢の人を苦しめて!」と言いました。その言葉が今もなお私の胸に突き刺さっています。父は24日ごろから精神状態が変になり、どこからこんな大声が出るのかと思うくらい「敵機来襲!」「射撃開始!」と叫ぶようになり、看病人も含めて200人以上収容されている人たちにずいぶん気を遣いました。息を引き取る寸前に正常に戻り、寂しくなったのか「手をしっかり握って・・・」と言ったので、ずるむけになっている左手を握り締めると、5分くらいして「もう寂しくなくなったから離してもいいよ」と言い残し、母のもとに逝ってしまいました。9月1日午後3時でした。 それからの人生は、精神的にも体力的にもまるで険しい山をさまようようであまりにもつらく、どうして私は両親と共に死ねる運命ではなかったのかと悔やみ続けました。広島に居住していた時、義務教育を受けていない、両親やきょうだいが居ない、子供の時からの中耳炎が環境が一変したことで難聴がひどくなり、こうした理由が重なって就職を断られました。親せきの勧めで福岡に来て結婚したものの、7回も流産を繰り返して結局、子供にも恵まれず今日に至っています。 声を大にして訴えたいです。一日も早く全世界が平和になるように。そのためには武力行使は絶対反対。そしてアメリカー辺倒にならない日本国でありたいです。若人や子供たちが悪影響に負けないで、素晴らしい未来に向かって大きくはばたいてくださることを信じています。 |